深水黎一郎の「名画小説」を読んでいる。この人の「最後のトリック」(2007年メフィスト賞を受賞した「ウルチモ・トリック」を改題)を読んだが期待はずれだった・・というか内容も覚えていない。

 アマゾンの紹介はこうだ。「『読者が犯人』というミステリー界最後の不可能トリックのアイディアを、二億円で買ってほしい―スランプ中の作家のもとに、香坂誠一なる人物から届いた謎の手紙。不信感を拭えない作家に男は、これは「命と引き換えにしても惜しくない」ほどのものなのだと切々と訴えるのだが…ラストに驚愕必至!」

 これは過大広告ではないか。カスタマーレビューでも、高い評価はどちらかというと少ない。スコアでいうと、最低の1から最高の5まで満遍なく分布し、平均で3.1だから中の上といった感じか。

 そういう印象があったからあまり期待していなかったが、これは面白い。ちょっと凝りすぎかなという文体が鼻につくところもあったし、結末がたやすく予測できるものもあったが、ひねりの利いたストーリーは「世にも奇妙な物語」風でもあり、今後こういった方向での作品を期待したい。しかし、B6版で167ページの小さな本、おそらく原稿用紙換算で250枚程度の短編集で1,925円(税込み)はちと高いのではないか。

 さてさて、芥川をきどったようなわざとらしい文体は別として、この作品の具体的な言葉が嫌いというわけではない。ただし、「初老」という言葉の意味が気になったのが、二か所あったというだけの話である。

 「孤高の文士」 62ページ「還暦を過ぎ、もう初老と言っても良い年齢の筈だが、・・・」

 「父の再婚」 102ページ「とっくに還暦を迎えている初老の男を、三〇代の女盛りの人が真剣に好きになることなんて・・・」((*)注 この作品での設定は65歳)

 明らかに、還暦を「初老」の基準としてとらえていることがうかがえる。しかし「初老」のもともとの意味はこうだ。

「四〇歳の異称。また、老人の域にはいりかけた年頃」(精選版日本国語大辞典)

いくらなんでも40歳をトシヨリというのは早いんでないの・・というわけで、日国にしてすでに後段に但し書きがある。

「寿命がのびた現在では五〇歳から六〇歳前後をさすことが多い」。

 したがって深水氏の用法を誤りだという気はない。むしろ今の主流と言ってよいのだろう。でも、しかし、だけどだよ。最近妙にテレビの教養バラエティとでも言うべきうんちく番組で、「いや、実はこれはこう言うのが正しいんですよ」というのが多くないか。いや別に池上さんがどうたらと言うつもりはありませんよ。

 

 たとえば「間髪を入れず」という言葉だ。「これはねぇ、間に髪の毛一本もはいるすきまがない、ということなので、かんぱつと読むのではなく、かん、で一拍おいて『かん、はつを入れず』というのが正しい読み方なんですね」だ。

 まぁ、原義からいったらその通りなんだろうが、辞書がしゃべっているわけではないから、普通の人間が会話でいちいち『かん、はつを入れず』なんて言うだろうか。「ん」音の後のハ行音が濁音化ないし半濁音化することはごく普通の話だよ(*)。あの蓮舫とかいう二重だか三重の国籍持っているおばさんなど、れんぽーと呼ばれるとむきになって「れんほーです」と訂正しているが、ソビエトれんほーなんて言うやつがいたか。日本人だ、日本人だと言い張るなら、日本人らしく斎藤となのればいいだろう。

 

(*)参拝、忍法、減俸、散髪、電波、全廃、乾杯、産廃、天変地異、前編、妊婦、新品、人品骨柄・・いくらでもある。

 

 元々こういうのが正しかった、と言い出すときりがありませんね。洗滌は「せんでき」が正しい、情緒は「じょうしょ」、消耗は「しょうこう」、綺羅星のごとくは「きら、星のごとく」。「弱冠18歳の女子高生」はありか(弱冠は元々男子20歳の意味)。「生きざま」はもはや普通に使われている(「死にざま」という言葉はあるが、「生きざま」はかなり新しい言葉)。

言葉は生き物だから変わっていく。それを元に戻そうというのはあまり賢い所業とは思えない。初老が四〇歳というのはもう無理だ。どこで線を引くか、それが問題だ。