カネを積まれても使いたくない日本語(内館牧子)朝日新書 

 

 

 一読してこれは、口うるさいオバさんのぼやきは聞き流すに如かず、という印象。言っていることはわかる。ただ、非論理的で一方的な主張はあまり共感を覚えなかった。

 内館氏は言うまでもなく作家、脚本家で言葉を生業にしているとはいえ、言語学者ではない。したがって、というか内容が感情的でひとりよがりの部分が多かった。多く引用しているのが、どうやら親しい関係らしい北原保雄氏のコメントならびに同氏が編纂を担当した明鏡国語辞典(大修館書店)である。北原氏は「問題な日本語」シリーズがベストセラーになったことでも知られる筑波大学名誉教授だが、正にその言説は「問題な」主張との見方がある。私個人の印象では、金田一家三代目の金田一春穂センセに近い「変化放任派」だが、その割に内館さんは保守的な主張と読めた。内館さんは横綱審議委員を務めた(2000年~2010年)ことでも知られ、その当時の主張はかなり保守的で、私はひそかに応援していた。力士の四股名でキラキラネームまがいのものがはやり始めたのがそのころで、たとえば大関の把瑠都について、「勝負の世界に生きる力士が、日本海海戦で惨敗したバルチック艦隊を連想させる『バルト』と名乗ることに強烈な違和感を覚える」という趣旨のことを書いておられ、ふむなるほどと思ったことがある。

 かかる部分に限っては、我が意を得たりと感じるのだが、日本語論となるといささかうるさいなと感じたことであった。同時に読み進めていたのが黒田龍之助氏の「ことばはフラフラ変わる」(白水社 2018年1月)だったので、なおさらその思いが強い。

 

 黒田龍之助氏は、スラブ語が専門で決して日本語学者ではない。しかし、さすが言語学者の観察と論説は論理的かつ体系的で、しかも一流の学者は文章もわかりやすい。とはいえ黒田氏、東京育ちの言語学者にありがちな東京弁偏重から逃れてはいなかった。たとえば、いわゆる「レ足す言葉」について、「飲めれる」「聞けれる」「読めれない」など、誤りと断ずるが、私の知見では、一部地方においてはこれはむしろ標準である。

 ラ抜きなど言い出すときりがないのでこの辺にしておく。

 さて、戻って内館氏の論であるが、この本で気になった部分をひとつだけ抜き書きしておく。

P98~

”画面のテロップは「母親と会ったら」になっていたが、ここは「母と会ったら」が正しいと思う。どうも最近、「父親」「母親」が普通になるりつつあるが、これは「男親」「女親」という一般を表し、自分自身の男親を表わす時は、「父」、女親は「母」だ。何冊かの辞書を調べたが、二つは同義のように書かれている。だが、印象は違う。読者からの手紙にも、

〈「父親がこう言ってた」などに、違和感を覚える。なぜ、父とか母とか言わないのか〉というものが複数あった”

 

 これはねぇ、おっしゃっていることは一応正しい。でも音韻の考察が抜けている。書いたものであれば別に「父」「母」で視認するからいいのだが、音で聴いた場合、あるいは自分が音に出す場合、「チチ」「ハハ」は案外に聞き取りにくいし言いづらい。文脈で判断できるだろうというのはまた別の話である。しかしこれに「オヤ」という音をくわえれば、文脈とは関係なく、単独でも「父親」「母親」と聞き取ることは容易になると思うのだがいかがだろう。これは言語病理学でいう、語が短すぎる場合に音を増やす場合があるというのに似ている。例えば「葉→葉っぱ」「子→子供」「胃→胃袋」など一字(一音)の例が多いのだが、その類似例と考えられないだろうか。

 「ハハ」はもっと発音しづらい。日本語の「ハ」音は言語学的に言えば、無声声門摩擦音ということになる。ラテン系の言語では、H音は無音になることはよく知られている。フランス語で”Hotel”は“オテル”と発音する。日本語でも、中世は「母」は「ファファ」と発音していたというし、それよりもっと前は「パパ」と言っていたそうだ。これはつまり、声門摩擦音は発音がむつかしいという証拠ではないのか。そういうむつかしい音の聞き取りや発音を補うために、別の音を増やしていると思えるのですよ。

 実は私自身、人と話す時に自分の親のことを「父親」「母親」と言っている。書く時はあまり意識したことはないが、普段しゃべっている言葉に引かれることは容易に想像できるから、たぶん同じだろう。

 自分のスタイルを正当化するために言っているように聞こえるかな。市井の一隠居が何を言っても世の中に影響はないから、ま、大目に見てくだされ。