思惑という言葉が嫌いというよりは、思惑という表記が嫌いである。

思わくとは言うまでもなく、思うという動詞に体言化の接辞がついて思わくという名詞になったわけである。いわゆるク語法というもので、現代語でよく使うものでは「老いらく」「曰く」などがある。「思わく」の場合は未然形の語幹「思わ」に「く」がついたわけではなく、連体形「思ふ」に「あく」がついたとされる。上代(奈良時代以前)の日本語では、ハ行はfa,fi,fu,fe,foと発音されていたので、omofu + aku ⇒ omofuaku ⇒ omofaku ということになる。曰くも同様。ちなみに「老いらく」は「おいる」に「あく」がついたわけではなく、「老ゆ」の連体形「老ゆる」に「あく」がついて oyuru + aku ⇒ oyuraku 「老ゆらく」となったものが転化したものだそう。

 さて何が言いたいか。思惑の惑は当て字というよりは誤記だということ。元々は動詞の一部と接尾辞なのだから、漢字で書くのは適当ではない。老いらくを老い楽と書くようなものだ・・ってこれぴったりじゃん。

 いやいやそういうことを言いたいのではない。これは新仮名遣いに由来する弊害と言って言い過ぎなら混乱だろう。「思ふ」⇒「思はく」なら思惑と書くことはまず考えられない。

 以前勤めていた会社の上司が、この「思惑」を「しわく」と言うので、そう言われたときはどういう顔をすればいいか困ったものである。この人、麻生総理が「みぞうゆう」の危機だとか、前例を「ふしゅう」するなんて言うのを「こんなのが総理大臣やってるなんて許せない」と口をきわめて罵倒していたが、ほかにも「相殺」を「そうさつ」、「一朝一夕」を「いっちょういちゆう」、「画策」を「がさく」と読む人だった。同じ会話の中で、当方がことさらに「そうさい」と発音しても、もはやその字は「そうさつ」としか聞こえないらしく、決して直ることはなかった。私なんか自分に自信がないから、人が違った言葉を使ったり、違う発音をしていたら、思わず辞書を確認する癖が今でも抜けない。人のふり見てわがふり直せではないが、あまり他人をそしることはやめておくように心がけている

 あぁちなみに、思惑をしわくと読むのが仏教用語にはあるそうです。相殺もそうさつと読んで相討ちの意味に使う例がないではないらしい。まいずれにしても漢字を完璧に覚えるなんて国語学者でも無理な話で、TVのクイズ番組で難読漢字とかやってるのを見ると、日常で使わない漢字を覚える意味などないと感じますよ。漢検1級なんてのは愚の骨頂だとしか言いようがない。でも、さまざまな印刷物を見ても「思わく」という表記は完全な少数派である。たぶん思わくと書いたら校正担当者が「これは『思惑』では?」とコメントするに違いない。無念ぢゃ