”ポケットいっぱいの外国語” 黒田龍之助 講談社(2007/7)

 

 この著者の作品はいつの間にかたくさん読んでいる。『物語を忘れた外国語』『言語学の考え方』『世界の言語入門』『寄り道ふらふら外国語』『はじめての言語学』『世界のことばアイウエオ』『外国語をはじめる前に』『語学はやり直せる!』『にぎやかな外国語の世界』『もっとにぎやかな外国語の世界』『ポケットに外国語を』『その他の外国語エトセトラ』12作品か・・。

 上智大学外国語学部ロシア語学科卒業、東大大学院露文科博士課程修了。ロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語では日本の第一人者・・・なんだと思う。ロシア語は東スラブ語群の代表的言語でチェコ語の親戚にあたるから、チェコ語とロシア語で会話してもなんとなく成立するらしい。元サッカー選手の中田英寿氏はイタリア語に堪能だそうで、ジーコ監督と通訳なしでコミュニケーションできたのも、イタリア語とポルトガル語がラテン系の言語だったからだと聞いたことがある。

 というわけで、著者はチェコに行っても会話に不自由はない。著作の多くはは当然ロシア語関連だが、チェコをたびたび訪れているしチェコ語に関する本も著している。夫人はチェコ語学者の金指久美子氏だから夫人の影響もないではなかろう。とエラそうに言っているが、夫人が金指氏であることは不覚にも今回知った。

 日本におけるチェコ語に関する出版の世界はごく狭く、金指氏のほかに、保川亜矢子、千野栄一(故人)くらいしか見ない。いやほかにもいると思いますよ、私が知らないだけです。

 私が2010年にチェコに赴任する前に、父親の書斎から失敬してきた『チェコ語の入門』(白水社)の著者は千野栄一、千野ズデンカの共著となっている。千野氏は東京外国語大学のロシア語学科の先生だった人で、当時千野先生の講義を受けたことのある友人によれば、ズデンカさんをめぐって同僚の教授と恋敵の関係にあり、それに勝利したのが千野氏である由。

 一般むけ入門書である『チェコ語のしくみ』(白水社)は黒田夫人である金指久美子、『ニューエクスプレス チェコ語』(白水社)は保川亜矢子。文芸作品では『コーリャ 愛のプラハ』(集英社)(ズデニェック・スヴェラーク)は千野栄一訳。『この素晴らしき世界』(集英社)(ペトル・ヤルホスキー)の訳者は千野栄一・保川亜矢子・千野花江の連名である。保川氏は実は千野氏の後妻にあたり、千野花江氏は栄一先生とズデンカの娘だから、やっぱりチェコ語の世界は狭い。

 チェコ人作家で日本で最も有名なのは、ミラン・クンデラと言って間違いなかろう。そう、あの『存在の耐えられない軽さ』である。仏文科の学生は“ソンカル”と略称することもあるそうで、映画化もされた。

 え、仏文?東欧文学じゃなくて? そう、クンデラは“プラハの春”でチェコスロヴァキアが改革を目指していた時期にフランスに亡命し、そのままフランスで、フランス語で作品を発表してきたのだ。同時期に亡命を勧められながら、チェコにとどまり長く獄中に拘束されたのが、ビロード革命で大統領に就任した劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルである。

 “存在の耐えられない軽さ”に戻って、日本で今いちばん手に入れやすいのは集英社文庫版で訳者は千野栄一である。ということは、フランス語で出版された原版“L'insoutenable légèreté de l'etre”ではなく、チェコ語に翻訳された“Nesnesitelná lehkost bytí”が元本ということになる。集英社文庫の訳者あとがきにもその旨表記がある。河出書房新社の、池澤夏樹個人編集 世界文学全集に収められた同書には「著者自身が真正テクストと認めた仏語版からの新訳決定版」との謳い文句がある。訳者は仏文学者の西永吉成である。集英社がどういう意図かはわからないが、チェコ人作家だからチェコ語という発想で、この“Nesnesitelná lehkost bytí”(カナダのトロントの出版社が発行)をとりあげたのだろうか。

 ちなみに映画のソンカルはアメリカ映画でタイトルは“The Unbearable Lightness of Being”である。あの、不条理っぽい“存在の耐えられない軽さ”という題名は仏語、チェコ語、英語すべて共通で、日本語も直訳だったのですね。

 ところで、チェコでは、日本語学科のある大学は長らくカレル大学のみという時期が続き、千野氏もここに留学の経験がある。カレル大学に日本語学科を創設したのがクロウスキ先生で、千野氏留学当時もクロウスキ先生の教鞭を受けたと推測される。で、実は、私がチェコ赴任当初1年間だけチェコ語会話を個人教授してもらったのがこのクロウスキ先生の娘さんでした。いや、チェコ語の世界に私も関わっていると言いたいわけではありません。