平安さん・星月夜虹霓綺譚 四十八 《 激愛 》 | yuz的 益者三楽

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星月夜虹霓綺譚

四十八 《 激愛 》



例えば、十里桃林の月は濃い色の桃花の向こう側に霞む雲をなびかせて、承和色(そがいろ)に降り注ぐ柔和な光である。
空桑山の月は時折吹く風にガサガサと不規則な音を鳴らせ、ぽっかりと開いた空は金青色(こんじょういろ)に染まる。縫い取られた星々は我先にとその光を見せつける様にに放ち、月はその後ろに遠慮がちに座っている。

咸宴はそのどちらも見た事はない。
彼女の足場はいつだって凡地の泥の上でそれ以外では生きていけないからである。
そこから見る月はどんなに手を伸ばしても、どの様な梯子を使おうと届くものではなく、いつも彼女を高みから見下ろし冷たく見届ける。
月も星も、彼女をがんじがらめにし、彼女の心臓を射抜き、嘲る程に彼女を捕らえて離さないのに、彼女はその一片たりとも手に入れる事は出来ないのだ。


ーーーー命と引き換えに、少しばかり情けをかけて欲しかっただけだった。
ほんの少し欲が出て、幾らかでも長く共に過ごす事ができればと、思った。
私の愛しい人は私と同じ様に、私を愛しく思っているのではないかと錯覚した。
月星を捕まえたと思った。
私の身の内に、この輝かしい痛いほどに眩しい光を手に入れた…未来永劫、私達は共にある、そう信じた一瞬があった。

………そう思うことこそが愚かな人の発想だったのだ。

私はあなたを天に帰そう。
ただ、貴方が少しでも私に思いを置いてくれるなら、あの嵐の夜の婚誓が偽りでないならば………ならば一人の嬰児(みどりご)を、私にください。
貴方によく似た嬰児(みどりご)を一人。

私は小さな愛児(みどりご)を胸に抱き、貴方は貴方のいるべき場所に帰る。
時折、貴方は思い出した様に私達の元にやって来る。
何と楽しく憂いのない日々だったろう。
貴方の香りを嗅ぎ、愛しき稚児を間に置いて私の魂は紅く熱を持つ。
手を絡めて、頬寄せる。
髪を梳き、巾を結える。
厨に立ち釜の湯気を見る。
花の色を数えながら蜜蜂達の羽音に耳を澄ます。
貴方は私を呼ぶ。
『小咸』
白い雲の浮かぶ薄青色の空の下、私と文曲と時々貴方。
幸せな筈の私の短い一生は数百年の目まぐるしい日々の中、その事に気付いて終わりを告げる。
私は、私の譲れぬ想いが私を死ねなくさせている。
五十の齢(よわい)で終えるはずの拙い命が、貴方を求める程に苦しく延びて私を生きながらえさせる。
人ならざるモノが私の身体を蝕んでいく。
貴方によく似た文曲は、それはそれは貴方に似すぎて人の齢(よわい)をやすやすと飛び越えていく。そんな我が子に置いてきぼりにされたくなくて、私はまた超えてはならぬ齢(よわい)の壁を乗り越える。
ただの人でしかない私には、それは掻きむしる様に痛く苦しく、そして恐ろしく甘美な年月だった。

全てを返そう。
私の身の丈に合った安楽な死を私にください。
私が私であるうちに…………




冥府の月は心許ない。
奈何大橋を渡る有象無象の人々の互いの顔が判らぬ様に、ただ引き返す程には信用ならぬ体ではなく、その足元をやんわりと照らす。
例え、行きつ戻りつすれ違いざま、触れ合う程に近づいたとしてもそれは、声を掛けよう程馴れ馴れしくはなく、仄暗い顎先だけをチラリと横見して離れていく。人を顧みる程余裕はなくて、己の進むべき道だけを頼りに橋向こうを目指す。
そんな奈何橋の様子を、咸宴は忘河の辺(ほとり)から見上げていた。

黒い影が正体なく橋の上を漂い、消えていく。
水面に映る月はユラユラと形を崩し時折ピチャリと跳ねる。
跳ね飛んだ雫はポッ…火花を散らし、炎の色を付けて消えていくのはご愛嬌。
咸宴は生暖かい暗闇の中、己の手足にある幾つもの火傷の跡をじっと見つめる。
忘河の水は静かに音を立てて流れているが、何度手足を突っ込んでも焼けつく様なドロリと皮膚を溶かす様な激痛を彼女にもたらすだけで、決して彼女にこの河を越えさせてはくれなかった。

『だからね…』
孟婆を名乗る佳人は優しく彼女を労わりながらこう言った。
『ここに一杯の秘密の薬湯があるわ。これはね、私のとっておきの逸品、何だったら一献の美酒に溶かして飲んでも構わない。恐らく最初の一口でその美味に気づく筈だわ。一杯飲めば浮世の憂も薄く忘れて気分も良くなる。三杯も飲めば手足の傷も消えてなくなるかもしれない。五杯も飲めば………この瓢箪壺ごと飲み干してごらんなさいよ。あなたを苦しめるその思い出は綺麗さっぱり消え果てるでしょう。あなたは新たな来世を夢描いて、あの奈何大橋を渡る事が出来るわ。あなたの望んだ通りに、…あなたの思い人が望んだ通りに豊かな凡人の幾百万の生があなたを待っているわ。人としての生を全うしたい……それがあなたやあの方の望みではなかったの?』

孟婆の声はどこまでも真摯に優しく、それはその通り咸宴の望んだ来世に違いはない。彼女を握りしめる孟婆の手は温かく、ゆっくりと抱き寄せ彼女の小さな嗚咽に合わせて背中を撫でる仕草は、まるで遠い日の壬魁ーーーー撫星を名乗っていた頃の彼のぎこちない優しさを思い起こさせて、余計に咸宴を湿らせた。


ーーー孔蓋兮翠旌(孔蓋と翠旌(すいせい)と)
ーーー登九天兮撫彗星(九天に登って彗星を撫す)

ーーー竦長剣兮幼艾擁(長剣を竦(と)りて幼艾(ようがい)擁す)
ーーー蓀獨宣兮為民正(蓀(そん)独(ひと)り宣(よろし)く民の正為るべし)


どんなに慕っても決して手の届かない私の星!

どれくらい昔か判らないくらい昔から彼と共に歩み続けた。
私の拙い嘘と思い込みを信じてくれて旅してくれた。
私の淡く深く、泥土の様な恋心に応えてくれた。
凡人の私の方が根を上げて、私の別れの言葉に黙って首を振ってくれた。

日焼けした、そばかすだらけの私を美しいと言ってくれた。
赤茶けた細い黒髪を太陽の色だと笑ってくれた。
私を抱き上げて私の首筋に震える程口付けをしてくれた。


ーーー興女遊兮九河(女(なんじ)と九河(天河)に遊べば)
ーーー衝風至兮水揚波(衝風至って水波を揚ぐ)

ーーー興女沐兮咸池(女(なんじ)と咸池*に沐せば)
ーーー晞女髪兮陽之阿(女(なんじ)の髪を陽の阿に晞(かわ)かさん)


咸宴はギュッと力一杯孟婆の背中を握りしめた。
『出来ない』
絞り出す様に言う。
『でもね、咸宴。その思いを、記憶を握ったまま来世を渡る事は出来ないわ』
『でも私は、あの方に対するこの気持ちを捨てて生きる事は、…出来ない……ッ…あぁぁッッ…………」
嗚咽は己の言葉を遮って、咸宴は孟婆の胸に顔を埋め声を上げて泣き出した。
相変わらず猛婆は彼女の背を撫でる。
『…本当に、たった五十年、上手くいって七.八十年の人の生の、何てままならないものなのかしらね』
咸宴に握られて突っ張った背の衣は、猛婆の前見頃から首根を詰まらせてケホッと咳(せ)きそうになるのを誤魔化しながら彼女は言う。
『これ以上は私は言えない。時間(とき)は無限にある。ゆっくり考えてちょうだい…』
小さく首を横に振って、それからしばらく無言を貫いた。やがて引き剥がす様に彼女を肩を揺らし立ち上がる。帰りしな暗闇に顔を隠しながらポツポツと呟いた。
『奈何大橋は私の管轄。この孟婆湯を飲んでその記憶と因果から離れなければ来世への道を指し示す事は出来ない。ただ、この河を自力で漕ぎ泳ぎ彼岸を目指すのは、私の関知する処ではない。あなたにその覚悟があるならば………』
最後まで言わずに彼女は咸宴を置いて帰った。


傷だらけの手足を投げ出して彼女はじっと水面を見つめる。
咸宴にも既に大方の予想はついていた。
この河の水は紅蓮の業火に等しくて、凡世の人々が投げ捨てて行った煩悩の喜怒哀楽、怨恨と愛憎とその他諸々の血管や岩漿(マグマ)みたいなものなのだ。これを渡り切れば確かに壬魁哥哥の記憶と共に生きていけるかもしれない。
だがその前に私自身が凡濁の岩漿(マグマ)の一点となり、その河の雫として沈んでいくかもしれない。
もう二度と凡世に還る事は叶わず、彼と出会う事も思う事も叶わず、人にすらなれぬ忘河の石となるだろう。
………………………………………。

吾の君、天河へ訪えば、風が吹き水が跳ねる
其の君、咸池で水を浴びれば、その髪を陽光で乾かす

佳人(吾が君)を待っているが未だ来ない
ただ吹き荒れる風に向かってその思いを歌うのみ

見上げれば威儀を正して天輿に乗し
天高く昇ぼり彗星を手に天地を掃き清めたる君よ

両手(もろて)には(戦い挑む)長剣と(守るべき)愛しき者と
君のみが人智を超えて凡下の命運を司る者

………………………………………………………。

よい、…それでもよい。
私があなたを手に入れる事が出来ないのならば……
それでも。
あなたと交わる事のない人生ならば………
それでも。
私はあなたへの思いを捨て切る事は出来ないならば………
………消えてなくなるのも、………よい。

暗く重い心を抱き、咸宴は赤黒く焼け爛れた足をまた一歩、踏み出す。





「阿弟ッ!」
珍しく南斗星君が真顔で声を張り上げていた。
「如何されました、世父」
空(くう)を破る様に現れた南斗星君に僅かに驚き大司命星君壬魁は小さく首を傾げた。
クルクルクル……と巻物を片付けながら立ち上がるといつも通り上座を世父南斗星君に譲る。
だが、南斗星君はいつもの様ににこやかに上座に歩いていく事はせず、ズカズカと壬魁に歩み寄るとグッと顔を上げて思い詰めた目で彼を見つめた。
「世父(おじ上)?」
「蜂娘が…」
サッと壬魁の顔色が変わる。
「小咸が、何です⁈」
「…忘河に沈んだ」
言い終わった時にはもう壬魁はその場にはいなかった。




焼けた泥屑の岩漿(マグマ)中に滅んでいく記憶の向こう側から、あの人の私を呼ぶ声が確かに聞こえた。
「小咸!小咸ッ‼︎」
ズルリと釣り上げられる様に忘河の中から助け出された咸宴にその両足はついてくる事が出来ずゾ…ン…ッ…と剥(む)ける様に削げ落ちた。
「ぅあ…あぁ……………あぁァァ……ァ…ヴヴ…」
咸宴の声はもう言葉にはならず、抱き寄せる腕の先も既にない。
粘着質な血がダラダラと流れる。
「小咸…ッッ…‼︎」
「…ア……ァァ…」
ボコリ…と跳ねた水飛沫が瞼に大きく当たると、その右の瞼がゾロ…と溶けた。
「小咸ッッ!だめだッッ‼︎死ぬなッ…ッ…‼︎」
永遠の死の寸前で助け出された小咸の焼け爛れた身体はスッポリと壬魁の中に納まり、壬魁は彼女に生命の口付けを施す。

その熱い穢毒を、これでもかと言うほど吸い上げるとその次には暖かな彼の精気が仙気となって咸宴の体内に送り込まれた。
あ…あ………………ァァ…ァ…
みるみると、彼女の爛れた身体は滑らかな肌となって、活き活きとした生気を含んだ顔色を戻していく。
それは凡界での伴侶としての生活の中、重ね合わせた身体の中に彼の仙気を取り込み、彼女が幾らも齢を手に入れていたのと全く同じ行為に等しかった。
長い長い口付けを、彼は止めようとはしない。
肌も髪も衣さえも元の姿を取り戻し始め、ズル剥けた筈の手足が再び彼女の身を飾り始める。
彼の舌が焦げついた内臓を潤し、掻き回し、確かな脈を打ち始める。

壬魁は咸宴を抱き上げているが、水飛沫が上がる度に「ジュッッ…」とか「ボッ…」とか音を立てて彼の衣は無惨に燃える。ただ彼の足元は蓮華蓮糸の鞋で、お陰で彼は浮いた様に川面に立っているのも相まって、咸宴の様に焼け爛れ削げ落ちる事もなく、無傷でいられるのだった。
長く深い口付けを一旦終わらせると、咸宴は生成したばかりの白い両手を壬魁の肩に回し、まだ馴染まない力を精一杯そこにかけた。
「壬魁ッッ‼︎」
壬魁と呼ばれた男性は黙って彼女の細い腰を抱(いだ)き返す。

「壬魁!壬魁ッ!…壬魁‼︎」
それ以上の言葉をどう言ったらいいのか彼女には解らなくて、ただただ自分で自分の首を絞める様なこの想いを手放す事が出来なくて、それだけが理解できた一瞬だった。
あなたが、来てくれた‼︎
壬魁、…壬魁!壬魁哥哥‼︎
私の思いはあなたに届いたのだろうか?
……もう二度と手放したくはない…………………

知ってか知らずか、壬魁は咸宴の顔を一瞥もする事はなく、黙って彼女を抱きしめ続けた。

お願い…、もう二度と離さないで。
私はもう離したくはない。
あなたと共に居れないならば、来世も来来世も…生きる意味は、ない。
「壬………」
ぐったりとその重みの全てを壬魁に預けて気を失った咸宴を抱き上げて、彼は元いた忘河の岸に歩んで行った。蓮華蓮糸鞋を水面に浮かべて柔らかに、彼女を脅かさぬ様に歩を進める。
辿り着いた頃には月は西に傾き始めており、それはやがてやって来る朝への序章だった。


額から耳元へ柔らかに撫でる馴染みのある手の気配に、咸宴はゆっくりと目覚める。
元いた河原に壬魁は腰を下ろし、咸宴はその膝を枕にしていた。
間近にある彼の顔は穏やかな笑みを湛えている。
同じ様に微笑もうとした咸宴はだが、歪む顔に一筋涙を通して思わず両手でその顔を隠す。
「小咸、泣かないでくれ。私は小咸の笑った顔が好きだ」
言いながら壬魁は彼女の手を退けた。
キュッと歯を食いしばり彼女は細く応える。
「こんな卑怯者の前で、笑えないわ」
「どうして…」

壬魁の問いに再び眉根を顰めると咸宴はできるだけ冷静な声色で続けたのだった。
再会を手放しに喜べない自分に憤りながら、それでも胸のつかえを吐き出す様に、それでも、それでも、……反転する言葉を選びながら続ける。
「だってそうでしょう?笑ってくれ?あなたの方こそ嘲笑っていたんだわ。私がこうして、こんなに思い悩んであなたを忘れられなくて、忘れたくなくて、でもあなたは私との出来事は既に終わった…終わらせた事で、………ううん、解ってる。終わらせたのは私よ。私とあなたは…凡人とあなたは違う。身を持って、この身に刻んで…理解(わか)ったつもりでいた」
むっくりと起き上がる。

「凡人はこうして悩み迷い果てて、この奈何橋までやって来る。だから全てを飲み干して忘れ果てて次の来世を目指せるんだわ。でも私は出来なかった。私にはまだ何の答えも出ていないんだもの。私はあなたと共に人生を全う出来ない事を悟っただけであなたへの思いを断ちたい訳ではない………けれど…けれどね、そうやってこんな所で右往左往している私をあなたは全て知ってたんだわ」
「小咸…」
「そうして、そうやってこんな凡人のクズみたいな悩みを嘲笑って挙句、こうも易々と凡世と天界と黄泉路を渡り歩いて、……」

壬魁が困った様に笑った。
「小咸、私は君を……人を愛している」
クシャ…と咸宴の顔が崩れる。その顔に、再び壬魁が手を添えた。
「君の言う事は間違いじゃない。私は凡界も天界もここも、確かに行き来した。だが、それが正しいかどうかは判らない。現に君を幸せには出来なかった。私は君に幸せになってほしい…君を、……愛しているから」
添わせていた手は頬から耳を伝い、あの愛らしいほくろをなぞる。それから頭(こうべ)ごと再びその胸に納めた。

「私は君を愛している。だがそれは私の我儘で……小咸、君の人としての生を不幸にしてしまった。そうだろう?数百年も、数千年も生きるのがどんなに辛い事か。我が子の成長の見られない事のどんなに悲しい事か。自分の身体が劇薬に侵される様な身になるのがどんなに辛い事か。何百年も、変わらないのは空の色だけだったなんて、君は人じゃないと思い知らせる様な事をしているだけだった」
低い声はまるで何かの子守唄の様に咸宴の胸に響く。
「私との出会いが不幸の源だというのならば、全て忘れて幸せになって欲しい…」
寄せる手にグッと力を入れる。そして、それに比例して咸宴の顔はビッタリと壬魁の胸に押し付けられて息苦しい。それは思わず笑ってしまうくらい咸宴を……幸せにした。

ズコオォォォォォ………………と河は流れている。
時々何の拍子かパシャン…と跳ねる。
蒼く暗い河に赤い火花が散る。
白みかけた空は月を霞ませる。
壬魁からは緑檀(生命の樹)の香りがし、過ごした日々はいつだって咸宴を微笑ませる事が出来た。
「私は、不幸ではなかったわ」
咸宴が顔を上げた。
その瞳は澄んでいて、彼女の決心がもう揺るがない事を物語っていた。
「あなたと一緒で幸せだった。この思いを手放せない程幸せだった。あなたとの思いを手放すくらいならこの河に果てて構わない、そう思える程………私の方がずっと我儘ね。…願わくば次の世も、次の次の世もずっと…」

「小咸、少しだけ君は誤解している」
回していた腕をゆっくりと解くと壬魁は白み始めた河へ向き直り、その向こうを指差した。
「ごらん小咸、忘河は向こう岸などどこにあるのか判らない程遠い。本当にこれを渡り切る事など出来ると思うかい?来世を来来世を…と思う事こそ凡人の凡人たる稚拙な感情で…それ程そこに囚われているのならやはり……それは十割この河の中程で燃え尽きてしまうものでしかない」
壬魁の横顔は静かな光に彩られ、声は穏やかに響く。
「……………………解るわ…」
咸宴はそう答えるしかなかった。

「ただ、もし」
風の梵(そよぎ)の様に振り返る。
「その十割のもう一つ先で向こう岸に辿り着ければ…………小咸、それでも君の記憶は綺麗さっぱりなくなっているだろう。君に与えられる権利は運命の全てを賭けたその相手と永遠の輪廻を共に巡る宿命を負う事だけ」
咸宴は大きく目を見開きギュッと彼の袖を握りしめた。
「どんな境遇にあっても離れられない二人として永遠に共に逢う事を君は耐えれるかい?それは想い合う夫婦としてではないかもしれない。親子かもしれないし仇敵かも知れない。主従かもしれなければ捕食者と餌かもしれない。ただ、決して、決して……その縁を離さない。それだけの事」
「…………待って…!…共に、いれる………いれ…る…?」
「愛憎、怨恨、怨讐、吉凶、幸も不幸も、恩も讐も運も不運も全てを一緒くたにして…」

ガバリッッと咸宴が飛びつく様に力一杯壬魁に抱きついた。力加減が判らず思わず彼は後ろに倒れ込みそうになり「っとッ…」と下腹に力を入れて彼女の背を抱き……笑う。
彼女は単純だ。
そう、彼女はただの凡人で、単純で目先の事しか見えてない程に全てを投げ打って、己の情欲に素直で………堪らなく潔く陽の光を浴びる。
「…一緒にいれるなら、何でもいい!」
キラキラと彼女の黒髪が明けの光に透き通る。
「本当に?」
「そうよ、何でもいい。憎まれても殺されても、狗だろうと烏だろうと、あなたの胃袋に入る鳩の丸焼きになっても、鹿の毛皮になっても…」
「ハハハッ…、毛皮になるのか?小咸は」

優しく、優しく……出来るだけ優しく彼女を抱きしめる。
これ程優しく抱きしめる事はもう出来ないかもしれないと思いながら、その黒髪に指を絡ませながら彼女のほくろを見つめ抱きしめ続けた。
彼女の小さな嗚咽に拍を打って小刻みに震えるほくろはゾクリと彼を波立たせて、彼はその首筋に口付けする。
このほくろが私と君を繋げる目印になるだろう…。

『……ッッ!』
水面はハッキリと朝の色を映して漣(漣)を立てている。
『……弟ッッ‼︎』
どこからか遠く世父の声がする。
『阿弟ッ…‼︎』
明らかに彼を止めにかかっている南斗星君の慌てた声を彼は抹殺する。
『阿弟ッッ‼︎』
彼女から薫る緑檀の香りにかき消される。
暫くすると壬魁は意を決して立ち上がり、それから手を伸ばして咸宴を助け起こすと「よっ…」と彼女を背負ったのだった。
まるで赤ん坊の様に背に負ぶわれる姿に咸宴は恥ずかしそうに赤面したが壬魁は朗らかに笑った。
「この川幅を見てごらん。悪いが優雅に君を抱き上げて渡るなんて、…ハハッッ……私には無理だ。背中から落とされない様にしっかり捕まっていてくれ」

彼の顔が楽しそうに崩れているのが容易に想像できて、咸宴はパチパチと何度か瞬きする。背の温かさにギュッ…と彼の首が締まりそうなくらいに腕を絡めて、ぴたりとそこに張り付いた。
夢見る程の安心と、息が詰まるくらいの胸の動悸と、遠足に行く様な心地良さと、歌でも歌おうかと言う様な足取りの軽さと……
咸宴はしどけなく全てを預ける。

『ッ阿弟ッッ!…阿弟ッッ…ッ……‼︎』

引き止める声は咸宴には聞こえない。
壬魁だけがその声にピクリと耳を動かし、小さく首を横に振る。
世父…今少し……………今少し…
決着をつける様にもう一度首を振り、心持ち足を速める。


我為に  縁深ければ  三世河  後の逢瀬も  誰か尋ねむ  

 

 

 

 

 

 

 

 

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