四十七 《 溺愛 》



あっけらかんとした青い空を彼女の背中に乗せて、文曲は彼女の髪を掻き上げる。髪は僅かに塩の香りを飛ばし、そう言えば五里は雨の香りがしたと思い出し頬を緩める。
文曲の笑みにつられて翠雨は笑みを返し、今度は自分から彼に顔を近づける。
翠雨の行動に文曲はグッとその腰に手を回すと、彼女は大きく体勢を崩して文曲の上に被さる様に伸しかかり、勢いでゴロゴロと芝生を転がった。

それは側(はた)で見るほど優雅でも心地よいものでもなくて、下草や小枝や枯れ葉は身体中に纏わり付くし地面はゴツゴツと硬い。翠雨は心中「痛っ」と思いながら上目遣いに文曲を見遣り、彼は彼で内心その事に気付きながら、だからこそ腰に当てていた手を片方、彼女の後頭部に回しギュッと力を入れる。それは存外大きな温かい手で、そしてその力の強さは彼女の唇を彼から離さなかった。手などより一段と熱い彼の舌が口中を掻き回し互いの唾(つばき)は意志を持って混ざり合う。
痛さ、くすぐったさ、もどかしさに堪らず時折含んだ様にくぐもった笑い声を立て、それを押し隠す様にまた抱擁を交わす。

転がった先に翠雨は緑の原っぱを褥にして息を荒げ、彼は横から魅惑的な切長の眼を翠雨に向けていた。既に彼の手は翠雨の腰からも後頭部からも離れていて実は彼女の足に纏わりついている桾(スカート)をスルスルとなぞる様に上げていく。
ゾワゾワと言い様のない感情に身を委ねて眼を瞑る。
大腿を触れる手は左手、彼の右手は私の頬に掛かる髪を避けながらこそばゆく耳朶(じだ)を触れている…。
激流の様に押し寄せて来る野生に必死で抗おうと、翠雨は冷静に現状を再生しようと努めていた。だがそれも彼の、吸い付く様に彼女を丸裸にしていく指先に翻弄されていく。

彼の口付けはとうの昔に彼女の唇から離れていたがそれは、彼女の頬に触れ口角を舐め顎(おとがい)を吸い、首筋の血管を赤く浮き上がらせていく。衣の襟口をはだけると顕になった鎖骨からその先にある薄い影のある窪みに顔を埋めていく。
「あ…」
花開く様な羞恥と快感に思わず声を上げ、その声にビクリッと我に返って慌てて眼を見開いた。

「ま、…ま、まって。…文…曲」
空の青さが清々としていて、翠雨は思い切り身体を捩って精一杯文曲を押しやった。
「何?」
彼の瞳は既に欲望の色に染まっていて、再び彼女の細い首筋を啄む。
だがそれでも、それはどんなに優しく微笑まれても翠雨にその後頭部に当たるゴツゴツした土の感触を忘れ去る事は出来なかった。
「ちょ…と、待っ…て…っ……」
双胸が顕になる寸前で必死に残った理性をかき集めてもう一度懇願する。彼は翠雨の腰紐を弄っていた手を止めて、再び小首を傾げて彼女を見る。
「まっ…空が……明るすぎるわ」
太陽に負けないほど赤く顔を染めて小さく言うと金縛りにあった様に固まっていた手を彼に添える。

けれども文曲の返しはその抒情的な姿とも、煽る様な情熱的な指先とも違い短く有無を言わせない。
「…待てない」
当然の様にその手を軽く退かし、彼は再び首筋を啄む。
「………外よ…、原っぱよ…ッ…」
常識的じゃないわ…とまでは言えず、払われ行き場を失った手で胸元の乱れた襟を握りしめて正すのが精一杯だった。
初めて文曲が大腿に流していた手の動きを止めてまじまじとこちらを見た。
ここぞとばかりに翠雨は畳み掛けた。
「あの…あの獣も、……そこにいて、……いつ、いつ目が覚めるか………」
判らないわ、……翠雨は力無くしなだれていた両脚をギュッと閉じる。

文曲は漸く「あぁ…」と言う様な顔をして僅かに身を起こした。
翠雨の左側に身体を置いて、右肘を付いて頭ごとそちらに向ける。
風にそよぐ緑の原っぱの向こうでは雀伽が獣姿のまま…だがそれは傾いていく赤い夕日にも負けない、美々しい真紅の密な二重被毛を纏った獣で、グゥ…グゥ…と高いびきにも似た声を立てて気絶…恐らく気絶していた。それから彼は空を見上げる。バタバタバタバタ………とどこかの樹陰から鳥が羽ばたき、くっきりとその姿を空に映しながら去って行った。
誰かの秘密を吹聴する様な、覗き見に冷やかす様な囀りと風のそよぎ、草葉の陰から「オマエのソノつたないコウイの一部始終ヲとっくりとシナンして検分してやろうデワナイカ?」とでも言いたげな小さな虫たちの卑猥な蠢きまで気がついて、流石に気まずそうに舌打ちした。

「ね、…文曲」
むっくりと起き上がり胡座をかくと、もう一度辺りを見渡す。幾らか冷静になっていたがそれでも、一度灯された熱はそう簡単に収まる事は出来ず、それは翠雨にとっても御し難いものであった様で、こちらも何ともきまり悪そうな顔で仰向けのままこちらを見ていた。
手を差し伸べると柔らかく抱き起こす。
トン…と肩先に顔を置き翠雨は大きく息を吸った。その息に促される様に文曲が口を開く。
「私がどれだけ君を待ったか。…ようやく、……ようやく私は君を見つけたんだ。もう離したくはない」
寄せる肩に置いた手にグッと力を込めて言う。
「君は私を見つけてくれた五里で、私を待ってくれた琅玕で、私に教えてくれた子静で……」
ただ、続ける言葉は何をなんと話したらいいのか見つけられずボソボソと、段々と小さくなっていった。

「解っているわ、文曲。ただ、…私の記憶はひどく曖昧よ」
翠雨は彼の懐を暖めながら冷静な自分の思い詰めた気持ちを呟いた。
そう、私は貴方を待っていた事を否定はしない。
貴方に見つけられた事を僥倖だとも思う。
私と貴方が幾度も生を共に刻み、命運を壊しながら尚、離す事の出来ない宿(しゅく)を孕んで抗い続けて求め続けた事も信じられる。
けれど……けれどもね、文曲。
私の尊き尊神よ。
私はただの凡人で、貴方を求める血潮に偽りはないが、何一つその世々を知らない。
私は貴方が名付けてくれた翠雨で、だからこそその宿命(えにし)を受け入れる事が出来るけれども、その実何一つ私の事も貴方の事も知らないのだ。

「……貴方は私を求めてくれるけれど、私もそれに応えたいけれど、貴方が求めているのは誰?私翠雨?さっき言った子静?古い物語の公主?五里?私はその誰も知らない………。その誰もを知らずに、ただ離れられない宿命(さだめ)だけを鵜呑みにして発情(さか)りのついた淫獣みたいな真似だけするのは…………」
違う…。言いながら息が苦しくなって最後まで続かない。どことない気まずさに彼がどんな顔をしているのか確かめる事も出来ず、胸元をしっかりと握り込んだまま顔を埋(うず)めていた。
気を悪くしたかしら?私は言ってはいけない事を言ったかしら?
でも、でも文曲、凡人と神仙の言情(恋物語)なんて、何て不公平なものかと思いませんか?
神仙はいつでも私達凡人の上に立って訳知り顔に見渡して、想いの通りにその掌(たなごころ)で転がして手に入れる。
私は?
私の心はどこにあるの?
私のこの曖昧な心を目覚めさせて。
私はどうして貴方を知ったの?
どんな風に貴方を想ったの?
何故貴方と別ったの?
それから、私はどうしたの?
何故?どうして?
今、私がが貴方を愛している、その核心は何?
私は、私は………

「私、貴方が何者なのかさえ知らないのよ…」
漸く翠雨は顔を上げ文曲を真っ直ぐに見た。
彼は少し驚いた風な顔をしていて、でもその顔は少しばかり理知的で穏やかな顔だった。
彼女の言葉を理解しようとコクリと息を飲み込んだ顔だった。
「私は、文曲」
ブッと翠雨は短く吹いた。
「フフッ…私は…私は、翠雨よ。私が生まれた時貴方が名付けてくれた。貴方は高名な道士の姿で私の前に現れて……いえ、それはどうでもいいわね。そう、私は翠雨。洛叉国細羅王の孫女で、貴方は?」
「…司命星君文曲。生まれは大司命星君の一子で、でも、母は凡界の庶人だ。君と同じ」
やっと合点がいった様で、文曲はにっこりと笑って答えた。
今度は翠雨が文曲の言葉に少しだけ驚き、マジマジと彼を見つめる。文曲は愛おしそうにその黒髪を指先で梳きながら整えると続けた。

「私と君の出会いはだからなんだ。私の母は凡人で、私には凡人の血が半分流れていて、私は…そんな母の縁(えにし)を追って君と出会った」
細い長い息を宙(ちゅう)に投げかけて翠雨は頷いた。
「貴方は、私の知らない物語を沢山知っているのね」
「ああ、たがそれは私だけの話ではなくて、私と君の物語だ」
「それを私に聞かせてくれますか?私の神仙殿下」

ザザザザッッッ………ッ……

一陣の風が捲き上る。赤い獣雀伽は相変わらず高いびきだったが鳥たちはいつの間にか遠い隣国に旅立った様に姿を隠し静かだった。傾いていく春陽の中虫たちは光に溶ける様にホロホロと羽ばたく。
空桑山の大樹は宇宙(そら)への梯子として高くそびえ三尸蟲の繭はその繭玉の中で生死を決して争っている。
そのどろどろの臓腑の膿の中で彼等は何を夢見ているのだろう。


ワレらの少主よ。
……誰に遜(へりくだ)る事なく、孤高の星仙たる司命星君であれ。


素知らぬ顔で文曲は彼女の額にそっと口付ける。
「勿論」

それから文曲はやおら立ち上がり、翠雨を助け起こした。
翠雨はここ数刻の稀有な出来事にグラリと身体をふらつかせて彼にぶち当たる。
腰が抜けた様に全く力の入ってない自分に、恥ずかしさに赤面して慌てて離れようとしたが文曲はその手を鷲掴みにしてサッと彼女を抱き上げると事もな気に歩み出した。
「え」と彼女は益々いたたまれない様で、だが文曲は初めて得意げだ。
五里にも、公主にも、子静にすらこんな事してあげてはいない。
「翠雨、語り出せば長い話になる。私の屋敷は蜜蜂達も一緒で、大した屋敷でもない。それでも、二人でゆっくり語り合うぐらいの広さはあるつもりだ」
ククッ…と黒髪を鼻で遇(あし)らいながら囁く。それ以上は何も言わずにサッサッと下草を踏み締めながらさっきまで翠雨がいたその賤屋の軒を目指す。

翠雨はもう全てを諦めて、甘いくすぐったさに身を委ねるしかなかった。
不安定な両手を文曲の首に回し、彼は満足そうに意地悪く微笑む。


パタリと扉の閉まる音と同時にズザザザザザッッッーーッッー……と生きとし生けるものの音が重なり卑猥な野次馬達が屋敷を取り囲んだ。だがそれは幾重にも張り巡らされた仙障に見事に弾かれて、小さな卑妖達が気まずく顔を見合わせただけだった。




幾夜過ぎた頃だったか。
しっとりと影を落として一人の女性(にょしょう)現れる。黒髪はスッキリと一本の簪を差し流し、右袖がヒラヒラと風に揺れている。
待ち構えていた小柄な老人がブブブ……と折れかけた翅をばたつかせてヨタヨタと走り寄ってきた。
「五里、待っとった。あれじゃ、ほれあそこに少主が凡人を連れ込んでおるワイ」
現れた五里はもう何度凡世を渡ってきたのか。その顔は五里ではなく千葉でもなく、誰でもなく、だがどこかしら誰にでも似ていた。そんな五里が爺やの言葉を聞き、下唇を噛み締めながら蜜蜂屋敷を睨みつける。

「ワシはな五里、ワシは、いやワシ等はな、この空桑山に縁続きのモノらは少主を邪険に扱う者などおりゃあせん。少主は立派に司命の務めを果たして、大司命星君の後嗣の地位を築いておられると思っとる。そしてな、それは少主の母君が身を切る思いで少主を主にお預けになったからに違いないし、父君大司命星君の導きである事も了解しとるんじゃ、そうじゃろ?五里」
「ええ、そうよ。少主の母君がどんな思いで少主を主人(あるじ)にお預けになったか。主人(あるじ)がどれだけ手を尽くしてくださったか。そしてお二人の心にどれだけの傷があるか…」
「ワシはな、その昔南斗星君にお会いした事があってな」
徐ろに、爺やは暗い眼差しを空に向けて呟く。
「何かの拍子にあのお方は仰ったんじゃ」
ん?と五里は斜めに首を傾げて爺を見た。

ジュワリ…と爺やは南斗星君の似姿を取る。それから必死の形相でにたぁり…と笑う。恐らくそれは出来るだけ南斗星君に似せる為に、彼らしく愛らしく微笑んだつもりだろうが如何せんそこの正体は爺やな三尸蟲で、顔一杯に気味の悪い笑みを貼り付けて、両耳脇の双輪に結った黒髪を揺らすのが精一杯だった。彼は南斗星君の声色まで真似てこう言う。
「『知ってるカイ?君達司命ヤそれに縁付く者達はネ、凡人の運命簿を握り、進メ、終わらせる万能神だ。ソンナ者達が凡人に情をかけルなんて、例えてみれば…死刑囚に懸想する死刑執行人の様なモノだヨ、心シテおいで』と……な…」
皺くちゃで小柄な爺の姿に戻り五里を見上げる。
「あながち嘘じゃないとワシは思っとる」

「…そうね。その罪をお二人がどの様な代償で払われようとしているか…天仙と凡人なんて所詮相容れないものなんじゃないかしら」
瓢娘が言っていたじゃない。
紫衣も赫夜も、莉莉絲も豊玉も…人と仙とは違うのだと。
天と地はこれ程までに離れてしまったのだと。
混沌を別けた者達が再びその混沌に別け入ろうなんて、お笑い種だって。

「主人(あるじ)も母君も同じ苦しみを味合わせようなんてこれっぽっちも思っておいでではないわ」
「当たり前だ」
この時ばかりは錆くれた爺やが妙に力強く吐き出す。
アレが少主の前にいるのがいけないのよ。
ギリギリと噛んだ唇に血が滲み、五里の口内に血の味が一杯に広がった。
この身体の中にこれ程の血が駆け巡るくらいに私は私を形作れる様になった。
「主人(あるじ)に…………」
左手の拳をギュッと握り込み、吐き捨てる様にそう言うと五里は瞬く間に消えた。








紫衣=七夕伝説の祖型。七衣仙女の末妹紫衣仙女は人界の男性と情を結び、激怒した父帝と母后に連れ戻される。

赫夜=かぐや姫。言わずと知れた竹取物語のヒロイン。最後は帝の求婚も叶わず天界に帰還する。

莉莉絲=リリス。アダムとイブのアダムの最初の妻。だが、より神魔に近いリリスはアダムとうまくいかずエデンの園を脱出し魔天使もしくは魔王の妻になったという。

豊玉=豊玉姫。日本神話においての海神の娘姫にして神武天皇の祖母。所謂「山幸彦伝説」の山幸彦の妻である。出産の際に本性(ほんせい)を夫に見られ海(実家)に帰る…破局。

 

 

 

 

 

 

 

BORDER FREE cosmetics レチノール高配合 マルチフェイシャルクリーム

 

モイストウォッシュゲル

TSUTAYA DISCAS

【無料トライアル】マナラホットクレンジングゲル

マナラ トーンアップUV モイスト

 

 

グローバルファッションブランド|SHEIN(シーイン)

【HIS】旅行プログラム

イベントバナー

イベントバナー

UQモバイル

【アクティビティジャパン】遊び・体験・レジャーの予約サイト