秦玉風(引凰華)は喉が渇き、侍女を呼ぶ。「誰か。」
だが、いつもなら傍に控えている侍女たちの誰も秦玉風(引凰華)の声に答えず、部屋の中は静まり返ったかのような静寂に包まれる。
秦玉風(引凰華)は辺りを見回し、ベッドから少し離れた卓の上の水瓶に気が付くと ゆっくりとベッドから起き上がり、卓の上に置かれていた水瓶から杯に水を注ぎ、喉を潤す。
水は喉を心地よく通り過ぎ、渇きを癒す。
喉の渇きを潤した後、背後に人の気配がして秦玉風(引凰華)が振り向くと幾人かの侍女が傅いていた。「小姐(お嬢様)、お目覚めですか?沐浴の用意が出来ましたので、どうぞこちらへ。」
秦玉風(引凰華)は汗で汚れていた身体を清められると喜んだが、ふと不思議に思う。
ここにいる侍女たちは维昊族の者達ではなく、その顔立ちは中原の者達で、いつも秦玉風(引凰華)に仕えている者とは異なっていた。
「あなた方はなぜここにいるのですか?…‥私の侍女たちは何処にいるのですか?」
「小姐(お嬢様)、お答えいたします。维昊族の侍女たちは 主の支度を手伝うために他の場所に行っております。それ故、奴婢(目下の者の謙譲語)達がお支度をお手伝いさせていただきます。」
既に日は沈み、亭国皇帝(楚北捷)と会見を行った兄(引天籟)はきっと歓待の宴に出る為に一度 この便殿に帰り、身支度をしているのだろうと秦玉風(引凰華)は考え、この中原の侍女たちの案内に従って湯殿に赴く。
中原の侍女たちは長い回廊を通り、幾つかの角を曲がり、便殿の奥へと導く。
秦玉風(引凰華)は便殿の中があまりにも広いことに驚く。「湯殿までまだ遠いのですか?」
「間もなくでございます。」中原の侍女たちは傅き、少し進んで扉を開けた部屋に湯殿は用意されていた。
部屋には女性らしい調度品が並び、蝶を意匠した香炉やランプなどが置かれ、薄紅色の帳が部屋と外とを隔て、茉莉花(ジャスミン)の香が部屋を満たす。
衣を脱いだ後、秦玉風(引凰華)はゆっくりと茉莉花(ジャスミン)の花弁が浮いたお湯に身体を沈め、侍女たちが忙しそうに彼女の身体を清めて、花弁を湯の中に更に散らす。
沐浴を終えた後、侍女たちは元々纏っていた男子の衣ではなく、亭国貴族の女子の衣を秦玉風(引凰華)に纏わせる。
「なぜ、女子の衣なのですか?」秦玉風(引凰華)が不思議に思って尋ねると、中原の侍女たちは傅きながら答える。
「こちらにある衣は全て主があなたの為にご用意されたものです。先程の衣は汚れておりますので、お帰りになるまでには清めておきます。」
お兄様(引天籟)がご用意されていたのかしら?
秦玉風(引凰華)はこの中原の侍女たちが自らを男子ではなく、女子だと知っている事や跨虎大将軍(楚漠然)の息子達が引天籟とは把兄弟の間柄であった事を思い出し、きっと兄(引天籟)が彼女の為に侍女たちに命じて用意させていたのだろうと考る。
全ての支度が終わり、秦玉風(引凰華)は湯殿のある部屋より少し離れた元の部屋に帰ってくると、既に卓の上には食事の用意がされていた。
料理は维昊の料理と、北漠の料理、東林の料理が各々数皿ずつ用意され、秦玉風(引凰華)はその幾つかの料理に箸を伸ばす。
美味しい。
秦玉風(引凰華)は元々 中原の地で育った母后(秦香霧)と遊牧民の出身である父王(引宜)の両方からそれぞれの文化を継承している。その為これらの料理の両方を知っており、この料理が各々の地域の味を忠実に再現している事に気が付いて驚く。
聞く処によると亭国には多くの商人が行き交っており、それ故このように様々な国の料理が忠実に再現され、食卓に並ぶのだろうと秦玉風(引凰華)は感心する。
食事が終わり、侍女たちが下がった後、秦玉風(引凰華)は椅子に座りお茶を飲んでいると、沐浴をする前まで部屋になかったものが部屋にある事に気が付く。
あんな処に七弦琴などあったかしら?
七弦琴には紫檀螺鈿の細工が施され、鳳凰を意匠した彫刻は美しく、千金万金を出しても手に入らない程の代物である事が遠目でもよくわかる。よく手入れをされているが、その七弦琴は古いもののようで、使い込まれた琴の胴の部分には小さな傷が幾つか見受けられた。
なんて美しい琴なの…‥‥でも、この七弦琴はどこかで見たことがあるわ…どこだったかしら?
秦玉風(引凰華)は七弦琴の美しさに感銘を受けながら、その七弦琴に何処か見覚えのある事に驚く。
秦玉風(引凰華)は立ち上がって七弦琴に近づき、そっと玉指を伸ばす。
ポローン
七弦琴はよく手入れされており、弦はピンと張り美しい音を響かせる。
このピンとした美しい音色は今宵の月にふさわしいような気がして、秦玉風(引凰華)が首を傾けて窓の外を見ると、満月が美しい光を湛えて輝いている。
秦玉風(引凰華)は心を動かされ、七弦琴を奏で玉が響き合うような美しい声で歌う。
雲想衣裳花想容 雲を見て衣を想い、花を見てその容姿を想う
春風払檻露華濃 春風は欄干をはらい、霧の美しい光(露華)は濃くなる
若非群玉山頭見 もし、この様な容姿の美しい人(玉山)達を見たいのなら
会向瑶台月下逢 瑶台(仙人の住む場所)の月の許に行かねば会うことは出来ないだろう。
(清平調詞一 李白)
一句 歌い終えた後、突然 入口の方より声がする。「好(すばらいい)。まるで天上の歌声の様だ。」
秦玉風(引凰華)はその声に聞き覚えがある様に気がして急いで顔を上げると、そこにはあの青楼で出会った秀麗な男が立っていた。
「あなたが‥‥なぜここに!?」