夜半 花喰楼
昨夜の事件を受けて鸨母(青楼の女将)は直ぐに媚薬を使ったのが若萱(ルォシュエン)だと突き止め、夜の内に王将軍の滞在先に使いを遣って彼女を王将軍の妾として嫁がせる事とする。
当初、若萱(ルォシュエン)はなぜ正妻としての輿入れを約していた王殿に自らを妾として嫁がせるのかと不平を漏らしたが、鸨母(青楼の女将)は優しく冷ややかに言う。「若萱(ルォシュエン)、これは私からの温情なのよ。あなたがもし王将軍を厭うのなら、相手を趙大人や燕大人に変えても構わないのよ。」
その言葉に若萱(ルォシュエン)の顔は蒼白となって震え上がり、すぐさま首を縦に振る。
その様子に鸨母(青楼の女将)は淡々と言葉を継ぐ。「若萱(ルォシュエン)、これは私からの忠告です。王将軍の上役である番将軍(番麓)は斥候の出身とか‥‥今後あなたが悪しき謀をしたとしてもすぐに見破られてしまいましょう。番将軍(番麓)は容赦しない方と聞き及んでいます。以後、このような謀は自重し、王将軍に二心なく、お仕えしなさい。」
若萱(ルォシュエン)を下がらせた後、鸨母(青楼の女将)は手引きをした姉の艺馨(イーシィーン)を呼び、同様に妾として花喰楼から送り出す。
全ての采配を終えた後、鸨母(青楼の女将)は沈みかけた月を眺めながら 溜息をもらす。「姐姐(姉さん)、あの子にとって未だここは鬼門なのでしょうか?…‥あの少女は将に鳳凰、”鳳凰は龍を呼ぶ”。では、臥龍も目覚めるというのでしょうか?‥‥‥私はあの子がこの深き闇に足を踏み入れ、再び傷つくのが恐ろしい。もし再び裏切られればあの子は、天佑は、この世の全てを憎しみで埋め尽くしてしまうのでしょうか。…‥姐姐(姉さん)、あなたの選択が間違っていないことを祈るわ。」
翌朝 花喰楼
周 天佑が目覚めた時、太陽は既に高く登り、明るい日差しが部屋に差し込んでいた。
部屋は青楼の客間の様ではあったが、周 天佑はなぜここに自分が眠っているのか記憶が定かでなく、頭は少し朦朧としていた。
ゆっくりと体を起こし床から起きあがるが、なぜか頭には靄がかかっているかのようで昨日の事が思い出せない。
暫くした後、奴婢が手水をもって部屋に入ってくる。
奴婢は恭しく手水と布を捧げて言う。「少爷(坊ちゃん、周 天佑)、お目覚めですか?只今、昼餉の用意をいたしますので、こちらの手水で身支度を整えてください。」
少しぼんやりとしながら顔を洗い、身支度を整えている内に段々と昨日一緒に来た秦玉風(引凰華)について思いが至る。「彼女は?玉風(引凰華)は何処にいるのだ?」
傍らに控えていた奴婢は言う。「少爷(坊ちゃん、周 天佑)はお休みでしたので、小姐(お嬢様)は昨夜の内にお帰りになられました。」
「帰った?‥‥‥」周 天佑は段々と昨夜 自分が彼女に何をしたのかを思い出しはじめ、自らの行為に驚き恥じ入る。
周 天佑はよろよろとよろめき、椅子に崩れ落ちるように座り、頭を抱えて蒼白な顔で俯く。「なんてことを‥‥‥もう彼女は決して私を許してはくれないだろう…‥絶望だ…‥。」
昼餉を捧げ持った奴婢と鸨母(青楼の女将)が部屋に入り、周 天佑の様子に気付いた鸨母(青楼の女将)は手を振って奴婢を部屋から下げる。
周 天佑と二人っきりになったのを確認した後、鸨母(青楼の女将)は優しく問いかける。「目が覚めましたか?気分はどうですか?」
鸨母(青楼の女将)の問いに周 天佑は俯いたまま、答えない。只ブツブツと呟く。「絶望だ‥‥、もう終わりだ。....」
鸨母(青楼の女将)はゆっくりと周 天佑の前まで来て、優しく語り掛ける。「あなたに媚薬を盛った妓女を憶えていますか?」
周 天佑は猛然と頭をあげ、その闇を溶かしたような黒い瞳に恰も戦場で見せるような紅蓮の炎を宿す。「昨夜のあの女は誰だ?今何処にいる?!」その声には激しい怒りの色が滲む。
その様子を見て鸨母(青楼の女将)は溜息をもらす。「本当に名前も、顔も覚えてもらえない相手を恋い慕うなんて、若萱(ルォシュエン)もある意味気の毒ね。…‥あの子(若萱)には既に罰を与え、王殿の妾として今朝早く嫁がせました。王殿は二つ返事でこれを受け、あなたの願いである あの小姐(お嬢様)に鍼を教える師父を手配してくれるでしょう。これはあなたにも利益のある事、これでもう、あの子若萱(ルォシュエン)を許してやって。」
周 天佑は瞳の内に更に激しい怒りの色を滲ませながら言う。「もはや遅い!幾ら師父が見つかったとて、彼女はもう私を許さない。今更何の意味があるというのだ。‥‥‥」
「あなたは気が付いていないの?本当に情に対して関心のない子ね。」そう言うと、周 天佑の足元を指さして言う。「あの小姐(お嬢様)はあなたを残してここを去る前に、深紅の紐を所望され、あなたの足首に巻きつけ帰って行かれたわ。あなたはこの紐の意味を知っていますか?」
周 天佑は首を振る。
「やはり。あなたは月下老人を知っていますか?月下老人は運命の糸を司る神で、縁(えにし)ある者達を赤い糸で結ぶと言います。一旦赤い糸で結ばれれば、例えて千里の彼方に離れていようと、敵国の者同士であろうと必ず縁(えにし)を結ぶと言います。つまり”紅絲線”になぞらえているのね。」
周 天佑は鸨母(青楼の女将)の言葉に驚く。
「彼女の心は変わらないという事か…。」そう呟くと、蒼白であった顔は段々と赤くなる。
鸨母(青楼の女将)はその心を推し量ることが出来ない表情で、周 天佑を長い間見つめ、諭すように話し始める。「あなたは様々な情愛が渦巻くこの花喰楼にあって、これまで 沢山の美しい桃花があろうと、どのような美しい桃花があなたを誘ったとしても心を動かされることはなかった。情に対して無関心であったあなたが、初めて人に対して情を持つことに私は喜んでいました。只‥‥‥あなたも気が付いているはず...あの小姐(お嬢様)は鳳凰、鳳凰は知らず知らずの内に龍を呼ぶもの。私はあなたがこの情愛に心を奪われ、傷ついてしまうことを心配しています。」
周 天佑は顔を上げ、鸨母(青楼の女将)に対して微笑んで言う。「御心配には及びません。彼女は誓ってくれました。以後、私と共にあり、私の妻となり、共白髪になるまで添い遂げると。私も彼女の為に维昊国で功をたて、彼女を将軍夫人として迎えたいと思っております。」
身支度を終えた周 天佑は大切そうに懐の内にそっと先程の深紅の紐を仕舞い、足早に花喰楼を後にする。
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※月下老人
足首と足首を結ばれた男女は、必ず結婚するという故事があります。「続幽怪録」
http://japanese.china.org.cn/culture/archive/minzoku/2009-01/12/content_17094218.htm