国指定重要文化財 渡邊邸
新潟県関川村
渡邉家の初代儀右エ門善高は、村上藩の郡奉行をしていたが、藩主国替えのとき、家督を譲り桂村に隠居、
その後寛文7(1667)年に現在の場所に転居して以来の旧家です。
三千坪の広大な敷地に堀と塀をめぐらし、五百坪の母屋には、厳選された無節の柱や丸桁などが惜しみなく随所に使われています。
往時には十二あったとされる蔵のうち、残っている六つの蔵もまた豪農を思わせる作りとなっています。
【上杉家と渡邉家】
渡邉家三代善久は、享保十一年(1726)財政難に苦しんでいた米沢藩に融資、その後幕末までに総額十万両以上を用立てました。
その功により五代英良以降、同藩の勘定奉行格の待遇を受けました。
その後、七代善映のときには、寛政十年(1798)に四百五十石の知行が与えられました。
(にいがた観光ナビより)
佐藤家と津野家
個人のご自宅なので訪問はできませんがこちらも豪農の邸宅です
荒川の河口には、荒川三湊(あらかわさんそう)と呼ばれる海老江(天領/年貢米の搬出)、
塩谷湊、桃崎浜湊が設けられ、越後・村上藩、出羽・米沢藩の藩米の搬出、
西国などから北前舟で運ばれた品々が陸揚げされていました。
米沢藩などへの内陸への輸送としては、荒川舟運で下関宿まで運ばれ、
下関宿から陸路で米沢城下を目指したのです。
そのため、下関宿は物流の拠点として繁栄し、豪商の家として津野邸、渡邉邸、佐藤邸、
東桂苑(渡邉家の分家だった家、関川村の管理)が残されています。
(ニッポン旅マガジンより)
1階茶の間と台所 土間
庭園は回遊式となっており、元禄末期から享保初期にかけて京都から遠州流の庭師を招いて構築されたもので、
昭和三十八年に国の名勝に指定されています
日本庭園は池や水を結界として向こうには彼岸(悟りの世界・極楽浄土)とされており
神仏に見立てた石組みが施している庭園が多く
渡邊家庭園では不動石を立てて不動明王の化身としています
白梅・雪見灯篭と花菖蒲・モミジ(左上)
雄滝(枯滝)(左中)
石橋と橋添石は天龍寺の龍門瀑から模したもの(左下)
赤松を鶴、築山を亀に見立てて(右上)
招待した客人の健康・長寿を願い
もてなす心を表現したのだそうです
その脇には雌滝(枯滝)
不動石(右下)
母屋2階から見た渡邊家庭園です
土間から裏庭に出てみると…
土蔵が6棟の残っていますが
米蔵や金蔵、酒蔵に味噌蔵など…かつて12棟の蔵が
立ち並んでいた面影があります
今はたくさんの花木が植えられていました
ちょっとため息が出るようなのお話ですが
この村がとても豊かだったということが思い起こされます
でも…水害もあったことも忘れてはいけない歴史です
最後は東桂苑で一休み…しようかな?
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