先日、対馬丸記念館へ行きました。
対馬丸は、1944年8月に米軍の魚雷によって撃墜された貨物船で、学童疎開として使われていました。
疎開というたくさんの人が信用して、沖縄から本土に逃した親たちが絶望したのは言うまでもありません。
対馬丸では、約1700人余りの人数が乗って行きました。
その中で、死者は約1500人ほどが死んでしまいました。
対馬丸記念館では、何人かの生存者の沈没から生還までの流れやそこまでの人たちの苦しみを知ることができました。
単純な苦しみで比べることはおこがましいですが、対馬丸は海軍壕やひめゆりと比べてもぶっちぎりの死亡率を誇っていました。
怪我などで泳げない海の上、最悪(生き残った人の中での)一週間近く飲まず食わずで生活してました。
泳げる人は、海岸線がきつく、波も大きい悪石島に向かい、誰一人として生きて上陸することとはできませんでした。
対馬丸に乗った人は、生き残った人たちも、箝口令がひかれ、話すことができない苦しみが続いていました。
けれど、実際は、沖縄にいる人たちは公然の秘密として対馬丸が撃墜されたことは噂され、真実として広まっていました。
対馬丸に自分の子供をのせた親たちや、国からの無茶な命令で無理してまで子供達を疎開させるようにした先生の苦労や負担は測りきれませんでした。
生き残り、疎開先へ行っても、寒さや貧しさ、ひもじさが子供達を襲いました。
沖縄に戻っても、10月の十十空襲で家が焼き払われたり、1954年4月からの本土上陸によって更なる地獄が待っていることになります。
対馬丸は悪石島と平島の間でしずみました。
私は平島に行ったことがあり、悪石島周辺の波の高さが少し高かったことを覚えています。
対馬丸が沈んだ時から数日の間に、さらに近くに台風が来たこともあり、その状況は最悪だったことでしょう。