アブチラガマ へ行きました

 

ガイドさんからの説明を受けながらきました。

アブラチガマにも時間によって使われ方がかなり異なっていたようです。

 

戦争前、アブチラガマは兵舎として使われていました。

武器兵器が中に入っていたり、将軍(?)っぽい偉い人が住んでいたであろう場所もありました。

また、住民たちが避難する壕でもありました。

 

4月1日、米軍が上陸してきました。

それに伴い、兵隊はほとんどが出撃していきました。

一時的にガマ内の兵隊はかなり少なくなりましたが、

少し時間がたった後、戦争で負傷した兵隊たちがアブラチガマに来ました。

ひめゆり学徒隊の方々も来ました。

 

 

戦況が厳しくなってきて、アブラチガマ含めた南部も攻撃され始めたので、

解散命令が出されました。

兵隊はほとんどが外に出され、怪我人病人は置き去りにされました。

住民は逃げる場所もないので、そこに止まり続けました。

 

死にかけていた怪我人たちの中に、住民と出会う人が出始めました。

出会った人は、水を井戸(井戸と呼んでいるだけで、水流からの水溜りのようなもの)から運んだり、

住民からもらった食料を別のけが人に運んで行ったりしました。

死んでいく人はどんどんで始めましたが、それで生き延びる人もいました。

 

ついに米軍が来ました。

日本語での警告を出した後、しばらく出ていかなかったので、

ブルドーザーで生き埋めの状態にされました。

入り口は完全に塞がれたように思われましたが、実は小さな隙間があり、

最初に住民と出会った人がその穴から外に出て、食べ物を探しに行きました。

 

6/22,また米軍がやってきました

日本が負けた。そう言って投降することを求めました。

ガマ内の人たちはそれに従い、捕虜となり出て行きました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ガイドさんからはとても有益な話を聞けました。

ガイドさんは戦争関係にとても詳しく、数日前にも不発弾を見つけていました。

ガイドさんいわく、「不発弾は自衛隊が動くので面倒臭い。だから1まとまりの場所の不発弾を一気に報告する」

などと言っていて、まだ戦争の爪痕がたくさん残っていることが実感できました。

 

また、アブチラガマには皆をまとめ上げるリーダーがいたことも印象に残りました。

彼は怪我を負ってガマに取り残されましたが、自分で井戸を見つけ、他の負傷兵に水を運んで与え、

住民と出会い、住民から食料をもらい、他の負傷兵に食料を分けて配り、

明かりをあえて暗くして大量の死体を片付けたり、

生き埋めにされた後一人で小さな穴から外に出て、食料を集めてきたり、

その後危険な外に行ってくれる仲間を見つけ出したり、

米軍からの投降に応じて集団自決という最悪の結末を避けたり。

とにかくすごいリーダーがいたそうです。

見本にすべきリーダーの一人として自分の心の中に刻み込んでおきました。

 

 

さらに、時間の経過や自然の儚さも感じられました。

アブチラガマは鍾乳洞で、幻想的な鍾乳石があったりもしました。

けれど、鍾乳石はおられているものも多くありました。

軍事利用するのには危険な鍾乳石は折りやすく、近いものはほぼ折られていました。

さらに、米軍ブルドーザーから持ち込まれた土砂はもちろん、自然に流れてくる土砂や、

戦後投棄されたゴミなどが埋まっていました。

戦後はすべての人がいっぱいいっぱいで全力で復興させていたので、

自然のことを考える余裕なんかありませんでした。

土砂が入ってくる空気孔は保全のために埋めたそうですが、

それまでに自然に流れてる土砂の量はかなりあったらしく、

実際に当時あった地面は数十センチから数メートル低い場所にあると伝えられました。