船橋市茶文化資料室

船橋市茶文化資料室

旧・Jun’s茶日記blog
日本茶インストラクター&リーダー
悠々茶館主催【茶書を読む月茶会】書籍
2020-2024/2中国唐代・陸羽『茶経』
2024/3~現在・『茶の民族誌ー製茶文化の源流』

千葉県船橋市を拠点とする日本茶中国茶サークルの月茶会について

 

月茶会はイベント的なものではありません。お茶を飲みながらお茶の知識や様々のお茶を紹介するというお茶を楽しむ会です。茶会の主催者は千葉県船橋市を拠点としているサークルの担当者です。担当者の海外訪問などで年によって不定期に活動する場合もありますが、通常月に1回第一日曜日午後1時半~開催しております(海外茶産地訪問の月はお休み。新規の方がいらっしゃればもう一日増やします)。場所は市内の公民館をお借りしています。

 

2024年後半の日程

7月、8月、9月、12月は通常通り第1週目の土曜日と日曜日午後一時半から


10月と11月は旅行とその準備のためお休みします。

 

月茶会の内容について前半後半を分けて行います。前半は茶関連の書物を読み、後半はお茶飲み会です。今まで3年間『茶経』を読んでいました。今年から現代の書物ー『茶の民族誌―製茶文化の源流』を読みます。後半は日本や中国各地のお茶を飲みながら茶の歴史や製法、そして茶産地情報を話します。茶会に関するお問い合わせは大歓迎です。くれぐれも以下のメールアドレスにてお願いします。船橋公民館や船橋市民ギャラリーへのお問い合わせはご遠慮ください。

 

お問い合わせ:

 


面識ある方(サークルのメンバーなど) ⇒ 直接お電話やfacebookでご連絡をください。

新規の方 ⇒メールでのお問い合わせ ⇒funabashi_chinese_lesson@yahoo.co.jp

インスタグラムでのお問い合わせ ⇒ junteadiary2019

このブログのコメント欄に伝言をお書きになって頂ければ公開する前に読みますので伝言板代わりに使えます。

 

*令和6年月茶会で読む茶書は『茶の民族誌ー製茶文化の源流』(松下智著 雄山閣出版)についてはこちら

~岩茶を乾す@武夷山~

 

武夷山市茶葉研究についてもうすこし書きたいことがある。前回戦時中疎開のため崇安(今の武夷山市)県赤口鎮に「中央茶葉研究所」が設立されたと書いた。これは中国初の国レベルの茶葉研究所であることとしてよく紹介され、これは間違いなく事実だ。ただこの「中央茶葉研究所」は国民政府によって1945年業務停止になり、後に(1960年)崇安県に設立された「武夷山茶葉研究」とは業務の提携と研究者の行き来があるものの、武夷山茶葉研究所はあくまでも県の管轄下の施設であり、国民時代の「中央茶葉研究所」とはその後、関連性がなくなり、崇安赤口鎮に作られた「茶葉研究所」は戦時中の一時の出来事だけである。

 

では戦争後福安県社口にある茶葉試験所はどうなったかというと、福建省に最も権威的な茶葉研究所、「福建省農業科学院茶葉研究所」の本拠地となった。新中国が建立してから福安県(現在は福安市)社口鎮に再び「福安茶葉試験場」が設立、1961年同じ場所に「福建省農業科学院茶葉研究所」(略して「省茶科所」以下この略称を使う)に改名。それから60年以上の年月が過ぎ、福安社口鎮の「省茶研所」はずっと福建省茶葉研究の重鎮的な存在として知られている。茶業界での権威的な専門誌「茶葉科学技術」誌はこの省茶科所が出版元である。

 

公式サイトによると2019年8月に「省茶科所」の本社が旧住所の福安市社口鎮から福州市内に引っ越したという。また社口鎮に福建省茶業の重要な生産研究基地として今も1935年創建当時の意志を受け継ぎ、そして今年6月に福建茶産業の歴史と文化を宣伝するために、敷地内に初の「茶科普館」を開館させた。一般公開しているそうだ。

まとめ

「福安茶業改良場」⇒戦時中疎開のために崇安に引っ越し、同時に崇安で国レベルの「中央茶葉研究所」を立ち上げ⇒新中国後、疎開という目的がなくなり、むしろ都会福州に近い福安の方が地理的に便もよいし、従来の生産基地もあるので再び福安社口に福建省茶葉研究所設立。現在の福建省「省茶科所」武夷山市茶科所は1940年代の「中央茶葉研究所」を引き継いでいるという書き方が多いが、引き継ぐというならむしろ現在福安社口にある省茶科所の方が御本家であろう。ネット情報引用は要注意!!!

 

「福建省農業科学院茶葉研究所」の公式サイト 👈

福建の歴史と茶⑬武夷山市茶葉科学研究所(旧崇安茶科所)の沿革

 

「現在、武夷山中にみることのでできるのは、元代の御茶園の跡である。(図2)しかし、この茶園も現在は、武夷山茶葉研究所が御茶園の一角に建設され、旧茶園は移植されて、古いおもかげを見ることはできないが、武夷山の茶史を物語るものとして引き継がれており、旧時をしのぶ手がかりとなるものである」(松下智『茶の民族誌』第五章福建省の茶と民族p265)

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ここでいう「武夷山茶科所」は前回話した"武夷山には最も権威的かつ研究成果を数多く残っている烏龍茶研究機関”である。付け加えたいのは、すこし前(1990年代前)の書物や文献を読むと「武夷山茶科所」の旧名ー「崇安茶科所」として書かれていることが多いことだ。

 

崇安とは

武夷山市の旧称。改称前に「崇安県」だった。故に「武夷山市」の「市」も「県級市」。改称は1989年。ただ崇安という地名は全部消えたわけではなく武夷山市内に崇安街道があるし、「崇安小学校」もある。

 

現在、「武夷山市茶科所」(正式名は「武夷山市茶葉科学研究所」。旧名崇安茶科所)は武夷山空港から約15キロにある「武夷山風景区』中にある。《茶の民族誌》の中で述べた元代の御茶園遺跡のすぐ傍だ。(以下の地図をご参考。この地図はBaidu地図より編集したもの)

 

武夷山市茶葉科学研究所、略して武夷山市茶科所(旧崇安茶科所)の概略(沿革)

1937年 日中全面戦争の局面に入る。国民党南京政府が上海で「中国茶葉公司」を設立させる。1938年、政府が茶葉の統制管理を開始し、茶葉の買い付けと売買は国の統制に従うことになる。9月戦時中の茶業疎開のため、福安市北部の社口にある「福建農業改進処茶葉改良場」(略して「福安茶業改良場」)(1935年設立)が崇安県赤石鎮に移転され、翌年の1939年、中国茶葉公司と福建省の合同出資(資本金100万元と言われ)で崇安県赤石村企山で「福建示範茶廠」を設立。崇安にある「茶業改良場」を新「福建示範茶廠」に編入させる。

 

福建示範茶廠」の下に福安、福鼎、政和、星村、武夷の五つの地区に分廠(工場+茶園)を設ける。「福建示範茶廠」は総公司のような役割で張天福が廠長、庄晩芳が福廠長、吳振鐸が技術師、林馥泉は武夷地区の主任、陳椽は政和地方の主任など、後に中国茶業界の大御所達がそろって「福建示範茶廠」の幹部だった。この時、崇安県は福建省を代表する茶葉生産研究基地だったことはいうまでもない。

 

だが時代は戦時中。輸出を狙った茶生産は海運封鎖のため茶葉が輸出できず、崇安の「福建示範茶場」は2年4か月で業務停止となった。ところで二年後転機が訪れる。1942年 国民政府財政部貿易委員会が廃業になっていた「福建示範茶場」を引き取ることになり、同年6月、呉覚農ら茶専門家が政府の同意の下で「福建示範茶場」の敷地内で中国初の「中央茶葉研究所」を設立。研究所は従来の赤石鎮の「「福建示範茶廠」の設備を活かし、茶樹品種の育成、栽培研究、茶の科学研究などを行った。国レベルの「中央茶葉研究所」として崇安で誕生したのだ。残念だが1945年11月「中央茶葉研究所」は国民政府によって業務停止になった。(以上鞏志、姚月明氏の<建茶史微>の論文より編集したもの。<建茶史微>は《武夷月明》に収録されている。p43 雲南出版集団社出版)

姚氏によると1940年「福建省示範茶廠」時代に日本から揉捻機械を購入したことがあるということ。当時の中国茶業復興のため製茶の機械化は急務だっただろう。その後1957年「崇安茶場」で勤めている姚氏が日本の臼井式揉捻機を真似して揉捻機を作ったそうだ。

新中国建国後は「崇安茶葉試験場」は何度も改名され、1952年「福建省崇安茶葉試験場」、1955年「福建省崇安茶場」、1962年「福建省農墾庁崇安茶場」、1966年から「崇安県崇安茶場」。そこからしばらくの間、「崇安県崇安茶場」(姚月明氏ら地元研究者は「国営崇安茶場」と呼んでいる)のままで1989年崇安県が武夷山市に改名されたため、1990年「武夷山市茶場」となり、今に至っている。「武夷山市茶場」の場所は赤石村の北部、武夷山市正岩路にある。↓地図をご参考。

一方国民政府時代に業務停止になった「中央茶葉研究所」を偲び、1960年武夷山風景区内の天游峰エリアに新たの「崇安茶葉科学研究所」が設立された。この崇安県政府の「茶葉研究所」(国レベルでではないが)は文化大革命など経て業務停止からまた再建になり、1975年「天游茶葉試験場」に改名し、1980年にまた旧名「崇安県茶科所」に戻り、なかなか大変な存続危機があったようだ。そして1982年に旧名「崇安茶科所」に戻ってから2年後、現在の場所、御茶園遺跡の近くに引っ越した。

 

《茶の民族誌》の著者、松下先生福建省茶産地調査一行が、1984年8月と1985年8月二回福建の茶産地に行き、「武夷山茶葉研究所(正確に「武夷山茶葉科学研究所」)が御茶園の一角に建設され、旧茶園は移植されて、古いおもかげを見ることはできないが、武夷山の茶史を物語るものとして引き継がれており、旧時をしのぶ手がかりとなるものである」との記述は

 

恐らく「崇安茶科所」は天游峰から御茶園に引っ越したばかりの頃だろう。当時の武夷山は今ほど観光地化にされておらずきっと碧水丹山の武夷山を逍遥しながら茶畑を見学したことに違いない。

 

ふとその時日本人研究者一行は赤口の「崇安茶場」は案内されなかったかと考える。それについて《茶の民族誌》に記載されていないのでもしかして案内されなかったかもしれないと推測する。ちなみに2003年、この武夷山市茶科所は岩茶大手の一つ「武夷星茶業」に買収され、「武夷山市茶科所」の名前はそのままで、その隣に「茶科所文化展示館」が建てられ、一般開放になっている。

 

私も武夷山に二回に行ったが、由緒高き「武夷山市茶場」(前身は国営崇安茶場)を訪ねたことがない。次回必ず見学したいと願っている(Jun@20240827)

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追伸:ながながくややアカデミック的に書きました。自分として整理したかった内容でしたし、「武夷山市茶科所」についての資料がなかなかないため、すこし調べることにしました。武夷山市には特に「茶科所」や「茶研究所」の社名が多い地域です。企業名としての研究所と、上のように歴史の沿革を持ち、歴とした茶葉の研究機関ー「武夷山市茶科所」と違うことは理解していただけたら何よりです。個人的には生産者の社名は〇〇研究所と名乗るのは紛らわしくいささか不快感を抱いています。

福建省の歴史と茶⑫江西省と福建省を分かつする峠:崇安分水関

"建甌の地は、武夷山系の最高峰「黄崗山」の麓の峠、分水関を越え陸路で広西省に入り、江西省から浙江省へと続き、福建省が北方の漢文化との交流の唯一の道にあたるわけで、この峠を越えて崇安に出て、ここから50-60キロの地にある。”(松下智『茶の民族誌・第五章福建省の茶と民族』p265-266

メモ:

①「崇安」:福建省南平市管轄下の武夷山市の旧称。武夷山市に改称したのは1989年。それほど昔ではないので、今でも武夷山の人々はそれまでは崇安を好んでよく使う。武夷山茶葉科学研究所も一昔「崇安茶科所」と呼ばれていた。

②「分水関」:江西省上饒市鉛山県の最南端にあり、福建省と江西省を分割する峠。正確に「崇安分水関」と呼ぶ。同治『鉛山縣誌』に"分水関,去縣東南八十里,其水一南流崇安、一北流鉛山、故名。岩峦峻絶,為閩楚要衝。界接崇安。明正統間、閩寇作乱、於此設関。入関而西、車盤寨為関内要隘”。

この「崇安分水関」から正山小種の発祥地ー「桐木関」まで大変近い。また「崇安分水関」の江西省側に「篁碧畲族郷」というシェ族の村がある。

③ところで福建省にはもうひとつ「分水関」がある。場所は福鼎市と浙江省の境にある。現地では「福鼎分水関」と呼んでいる。ここにも「閩国」から中原へ行く重要な古道がある。

 

朱熹《鉛山立春》

雪拥山腰洞口,春回楚尾呉頭。

欲聞閩何処? 明朝岭水南流。

行尽風林雪径,依然水館山村。

却是春風有脚,今朝先到柴門。

 

趙蕃《過分水岭》

水激風仍疾,山丛日易收。

才欣稍妍暖,忽恐变飕飕。

久客奚多惑,对兹直欲愁。

無為尚絺绤,当复念衣裘。

ここの「分水岭」は崇安分水関のことかどう不明である。

福建省の歴史と茶⑪企業名は研究所?!武夷山岩茶企業社名の話~

 

武夷山を訪ねると、武夷山の岩茶メーカーの看板は〇〇茶業ではなく〇〇研究所という看板が目に留まる。例えば日本でもよく知られている「幔亭」と「岩上」という岩茶ブランドのメーカーの社名は

「武夷山市幔亭岩茶研究所」(1994年設立)と

「武夷山市岩上茶葉科学研究所」(2000年設立)

である。本当に研究所なの?と好奇心が掻き立てられ、地元の方に聞くと、いやいや、ただの社名だよと。

他の例もまだまだある。「幔亭」と「岩上」の創立者「劉宝順氏」&「劉国英氏」の師に当る、岩茶の権威的な存在の「陳徳華氏」と「葉啓桐氏」もそれぞれ企業を興し、「北斗岩茶研究所」と「山水岩茶研究所」という社名を掲げている。岩茶製造の若い世代の起業者の中に、例えば「武夷山市天心正岩茶叶科学研究所」もこの"伝統”を引き続いでいる。

 

どうして「研究所」や「茶科所」というタイトルにこだわっているかと考えると、まず代表者の履歴を見てみると、

陳徳華。1963年から政府管轄下の崇安茶科所(現武夷山茶科所改名前の名前)に就職、その後茶科所の各要職に就く

叶启桐。崇安茶場(茶科所管理下の茶園兼生産工場)の副工場の父と一緒に武夷山に行き、建陽農学校卒業後、同じ崇安工場で働く。その後武夷山岩茶総公司の責任者の一人になる。武夷山岩茶総公司の前身は「崇安茶場」。

劉宝順。1989-1994年武夷山市茶科所所長

劉国英。大卒後武夷郷武夷乡九龍山茶場の技術者として就職。

つまりこれらの代表的な岩茶の生産者らは多かれ少なかれ「武夷山市茶科所」もしくは「崇安茶場」との関わり、もしくわは以前そこで要職に就いたことがあったのだ。

 

ただ注意すべきのは「武夷山市茶科所」という研究所は岩茶生産企業の社名に使われている「研究所」や「茶科所」とは全く違う性質の機構とのこと。武夷山には最も権威的かつ研究成果を数多く残っている烏龍茶研究機関は「武夷山市茶科所」である。翻訳の校正で今「武夷山市茶科所」の歴史と沿革を調べたのでその内容は次回へ

 

メモ:

武夷山岩茶を代表する三つのブランド「北斗」、「岩上」、「幔亭」の製造場は隣同士のように武夷山市「旗山工業団地」にある。その旗山工業団地のすぐ近くに岩茶の研究と発展に最も尽力した、由緒高き「旧崇安茶場」がある。今は「武夷山市茶場」という名前になっている。

研究所と名乗っているが、研究所より岩茶の生産者だと思った方が妥当かなと思う。

 

日比野丈夫《唐宋時代における福建の開発》は昭和52年(1977)に出版された『中国歴史地理研究』(日比野丈夫著)に収録されている。

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『茶の民族誌』p262~264内容は日本の歴史学者・日比野氏の見解を多く紹介している。

このように引用元を調べながら思ったのは《茶の民族誌》は膨大な史料を調べて引用していること。本当に偉業だと思う。

1980年代の広東省畲族の統計について『茶の民族誌』p256は以下の資料を引用している。

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広東省畲族の現在の統計は瑶族出身の民族学者李筱文氏の文章によると、2000年は28000人余り、全国の71万人畲族の中で占める割合は4.2%である。(李筱文<広東畲族と畲族の研究>2006)

 

『太平寰宇記』巻一百福州・風俗の條

開元録云:閩県越州地。即古東甌。今建州亦其地。皆蛇種。有五姓謂林黄是其裔。。。

『茶の民族誌』page262  青字

かくして、福建省は誕生しているが、日比野丈夫は、"中原の人々からは文化の低い蛮族と考えれていたに相違ない。『太平寰宇記』には開元録という書物を引いて「閩県は越州の地、今建州もまたその地。皆夷種。五姓あり。林黄はこれその後裔なりという」と言っている。

 

メモ:

①『太平寰宇記』(たいへいかんうき):北宋楽史(がくし 930-1007 北宋初期の学者、小説家)によって10世紀後半に編纂された地理書。全200巻。地方ごとの有名な人物や芸文を記す体例は、後世の地理書の模範となった。

②『開元録』:正しくは『開元釈教録(しゃくきょうろく)』。

やっと来ました。貴重なお茶も沢山。特に福今の班章老寨の熟茶や「番順」の百齢シリーズはとても高価だったので無事に到着して一安心。ブルー紙包装の「紫金印」は最近一番話題になった「番順」の青餅。9月の茶会で飲む予定です。

同時に紅河洲のお茶も来ました。金花茶
焼茶用の烏龍茶。
紅茶。
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頂いたハニ族の上着照れ

中国から国際便(EMS発送)の注意点
実はこのパッケージは二週間前に到着する予定でした。中国側通関の時、問題ありと発送元に返されました。発送業者に聞いたら「帯電」のものが入っているから一緒に送れないとのことでした。「帯電」って何と一瞬戸惑って聞くと、電池が付いているものがありませんかと言われ、あ、、そういえば昆明空港で息子たちに「パンダ ナイトライト 充電式」のものを買ってそれも一緒に荷物の中に入れました。アマゾンも販売しているのでこんなもの⇒パンダ ナイトライト 充電式 授乳ライト 間接照明 ランプ 常夜灯 叩く プニプニ
運送会社の人によると、これは送れないことはないですが、事前に申告して別ルートで送ることが可能です。私は貨物内容に「茶と衣類」しか申告していないから返されたという。
幸いに今回使っている国際便会社の担当者は長年の付き合いがあり、彼の元に荷物が戻され、彼が素早くこの厄介なパンダライトを取り出し、もう一度国際便の手配をし、やっと先日到着したわけです。
したがって国際便は電池など入っている電気製品は要申告要注意です。
もうひとつはこういうことが発生すると、普通の郵便局からのEMSだと差出人に戻すだけで開けて荷物を点検し、再発送というサービスは郵便局にないのです。私のような海外に住んでいる差出人はこの場合非常に困ります。幸い近年殆ど郵便局からではなく別の民間国際発送業者に頼んでいるから再発送をしてくれたのです。
 
私の場合、講座の教材用茶がメインなので量がすくないですからいつもの運送業者の方も快く対処してくれました。ビジネスとして茶を輸入したりする方はいろんな意味でリスクを負わなければなりません。今回は私自身のミスでプロの輸入業者さんがこのような低レベルの過ちをしないと思いますが、、、

台風が通過し、翻訳の校正も大部進み、昼頃に2007年の大益7542を開けることにした。


2007年といえば、プーアル茶バブルがはじけた年。市場は2007年最初頃の高騰から下半期の暴落へ。ここにピンチをチャンスに変える企業がある。それは大益である(理由はまたいつか書きたい)。2003年大益の茶生産量は1400トン、民営化後の翌年2005年は2197トン、そしてバブルの2007年は7001吨,,,2019年1.7万トン。2019年中国プーアル茶全生産量は凡そ15万トン、大益一社で普洱茶総生産量の一割超を示している。もちろんプーアル茶の良し悪しは生産量だけで語ることができない。重要なのは味で、如何に普洱茶のコアファンの評価を得ることだ。その点について福今系の企業が急成長をした理由でもある(高いだが味が良い)

ところで大益の7542シリーズはちょっとした別物的な存在の7542(相場がたかくかつ原料配合は通常7542と違うもの)もある。例えば501-7542,901藍宝石7542,そして近年2020年、緑豆餅と呼ばれる7542。これらの商品は通常7542よりはるかに金額設定が高い。一番新しいもの2020-7542は発売当時一枚(357g)約2万円、高騰の時は一枚7-8万円、今大益は下落しているのでまた2万円に戻っている。
これらの7542は味と香りは他の7542と比べ、かなり評価高いだが、投資対象になりがちで、日常飲み茶としてなかなか紹介できない。

前置きは長かった。さてこの701-7542は大益の中期茶(老茶に向かう途中のお茶ニコニコ)として、前回紹介した1801-7542と同じようにさすが大益のブランド技術!と言わざるえない一品である。プーアル茶バブルがはじけた2007年にも大益が良い商品を作っている。

大益2007年7542の包装。701ロット。略して大益7542/701。

ロット、中国語で批次pici。701の「7」は2007年、701の「1」はその年最初出荷した7542、春の出荷が多い。春の出荷だからかならずその年春に摘んだお茶に限らない。生産日は緊圧した日時。このお茶は2007年3月12日は生産日。

すでに17年の年月が過ぎた。購入は2017。我が家に来て7年以上になる。包装紙にすこし茶油が滲んでいる。

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内飛。

9月茶会のティスティング用にも含めて20gほど削って今日は130㏄の急須に8gの生餅を

セッティング。ライフイズシンプル。沢山の茶器は入らないが茶壺は良いものを使いたい照れ

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茶盤は先週家族で北海道旅行の時購入したもの。使いやすい!!!

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一煎から六煎目までの水色。黄金よりオレンジ色。

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感想:

商品:プーアル生茶餅7542

メーカー:大益

製造年月日:2007

批次:701

味:☆☆☆☆

香:☆☆☆

渋み:☆☆

コストパフォーマンス:☆☆☆☆

☆現在の相場で中国国内で日本円一万五千円内で買える大益7542はこれがお勧め。水色は「明亮」(透明感がありクリア)、前半(飲み始めてから5,6煎まで)微かな燻製香と清涼感のある樟香、中盤から段々甘くなり、芳醇さもよい。終盤(10煎以後)は滋味が弱くなったが、余韻は健在。全体的にまろやかな風味だが収斂性もあり、香りは浮き立つようなものではなく、滋味に潜んでいてかつ持続性がある、、、個人的にこいうタイプの茶香が一番好き。

茶殻。一部黒い葉がみえるかな。陳茶をすこしブレンドしていることがわかる。

あくまでご参考だが、大益7542/701現在の相場の一例:⇒⇒ 

 

四年前、コロナの時書いたメモです。その時Vシリーズについてまだまだ理解が浅く、、、この2,3年雲南に通って自分にとって普洱茶についてより栽培と生産の角度から理解を深めたと思います(まだまだ浅いですが)。プーアル茶には一に原料、二は時系列でその製造背景を理解することです。例えば、どうして熟茶が造られたか、いつから四大国営企業の他、小企業や個人オーダーメイドでも熟茶がつくれるようになったか、、、

それにしても時間が経つのは早いですね。このお茶を開けたころ(2020年2月)、丁度コロナ感染症が始まったころで毎日症例発生状況を公表され、怖い怖い日々でした。あれからもう四年が過ぎました。落ち着いてお茶を飲んで過ごしたことは今思うととても良かったです。

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大益Vシリーズ中の代表商品、V93沱茶。
2005年に市場に初登場し、翌年の2006年に上海国際茶文化祭で金賞に輝いた。

1601は2016年産とのこと。


100gサイズの沱茶。原料はかなりミルイ。今まで大益の熟茶伝統技法に近年開発した新しい熟成技法を加えたと大益が宣伝している。


禁圧度は程良い硬さ。かなりほぐしやすいタイプ

あっさりとした味わい。芳醇さがあるが、あまり重くない。


非常に飲みやすく、カビ臭い感が全くないので熟茶の入門茶としてお勧めの一つである。