土曜の朝、ふと触れた一音がきれいに鳴って「今日はいける」と思う。ポットのお湯が湧く音とメトロノームのカチカチが混ざって、家の時間と指先の時間がぴったり重なる。調子に乗って速く弾けば弾くほど、窓の外の光まで味方に思えてくる。

夕方、録音ボタンを押して本番ごっこ。最初の和音で緊張して、二小節目で指番号が迷子。譜めくりのタイミングで息を止め、終わったあとにだけ深く息を吐く。再生すると、さっきの“完璧”はどこへやら、椅子のきしみまで主役を張っていて笑ってしまう。

夜、家族が寝静まったあとに鍵盤をそっと押す。ペダルを浅く踏んで、余韻が部屋の角に溜まる感じを確かめる。うまくいった気がしたのに、最後の一音だけが気に入らなくて、日付が変わるまでその一音とだけ向き合う——そんな日もある。

 

✅ よくある「ピアノあるある」:
・「猫ふんじゃった」で場を温めがち、先生は微笑で流す
・“もう一回だけ”が十回続いて気づけば夜
・黒鍵ばかりのフレーズで指がつるっと滑る
・譜面の角だけやたら折れていて愛着が湧く
・高音域の数鍵だけテカテカに磨かれている
・発表会の舞台袖、手は冷たいのに背中だけ汗

 

❌ 実際は…:
・本番で最初の一音が鳴るまでがいちばん怖い
・メトロノームを止めた瞬間に走る、そして戻れない
・暗譜のはずが“休符の長さ”だけ思い出せない
・ペダル離し忘れて海みたいな余韻に沈む
・録音を聴くと、椅子のギシッが主旋律を奪う
・終わった直後に限って最高のテイクが出る気がする

 

音が止んだあとに残るもの:
練習がうまくいった日は、階段を降りる足音まで三連符になる。ぜんぜんダメだった日は、冷蔵庫の低い唸りがバス音みたいに響く。鍵盤の隙間に落とした消しゴム、ペダルの上に落とした涙、譜面の余白にだけ書ける小さな矢印。誰にも見えない“私だけのスコア”が、毎日の失敗とちょっとの成功で埋まっていく。うまいか下手かの前に、今日の一音が昨日より好きになれたかどうか——それだけで続けられる夜がある。