皆さん今日も訪問ありがとうございますおすましペガサス

 

さて本日はタイトル通りのご飯ネタスプーンフォーク

 

私は誰かと食事をするとき、お店では自分が食べたいものを選ぶのではなく、ご一緒した人達と同じメニューを頼む癖がありました。(菜食、無添加メニューに限りますが)

 

皆と同じものを選ぶ理由は、その場の空気を読んで同じものを頼むとういのもありますが、自分の頼んだものより相手の頼んだものが美味しそうだったときに、とても悔しくて残念に感じるからです(笑)

「私もそっちにすれば良かった」って後悔してしまうんですね。

まさに隣の芝生は青く見える状態(笑)

 

自分が食べたいと思って選んだのに、それがくすんでしまい、人のものが良くみえる。人のものが欲しくなる・・・。

「味見させてあげるよ~」ってどなたもみな優しく言ってくれるけれど、それじゃ満足できないんですよね(笑)

 

そういう事が頻繁に起きるので、もし最初から相手と同じメニューを選んでいたならそういう比較はしないから「ないものねだり」をしたり残念な想いを感じなくて済む・・・という理由で、食べたいと思っていなくても同席する人と同じメニューをオーダーしていました。

 

 

でも最近は心の声を聴いて過ごしてきているせいか?

食事に出かけても人と同じメニューではなく、本当に自分が食べたいものを選ぶようになり、相手の頼んだメニューの方がよく見えるという「他人の芝生が青く見える現象」が起きにくくなってきました(笑)

 

この日のランチは

私は大豆ミートで作ったヴィーガンのハンバーガーとフライドポテトをオーダーしました。

一緒に行った相方さんとは別メニューです。

たぶん今までの自分なら同じメニューか、もしくはそれに似たスタイル(定食やセット的なもの)をオーダーしたと思うんです。

私もそっちにすればよかったな~って後で思うのが嫌で危機回避?のために(笑)

 

でも心の声を聴くようにし始めてから、だんだん「自分が選んだものに自信」が持てるようになってきたように思いますOK

 

 

これまで私は普段の生活の中でネガティブな想いが湧きあがった時は、出来事や渦中の他者に対してフォローすることが多かったんですね。相手にもそれなりの理由があったんだ、だからしょうがないって。(最終的な答えがそうならばそれはそれで良いと思うのですが)

「そんなつまらない事にイラッとしてる自分って心が狭くてダメだ!私も悪かったんだし、相手もそんなつもりじゃなかったかもしれないし・・・」と自己対話をする前につい「事を丸く収める結論」を出していたんです。

だけど心の声に耳を傾けるようになってからは

「違う違う、私は私のどんな感情も認めて許容してあげるんだった、自分を愛するためにどんな醜い感情の自分も自分の中に居ていいよという作業をしてあげるって決めたんだった。そうすることで強くて深い自己信頼へ繋がっていくんだった!」って自分に声掛けが出来るようになってきたんですね。

 

結論を出す前に「こんな風になって悲しい!腹立つ!悔しい!惨め!ひどいよ!」って自分の中にある想いを全て拾って、「そっか、それは嫌だよね、辛いよね」って認めて寄り添い、気のすむまで感じ切ってあげるようにし始めたんですね。

そうするとイライラが高じ怒りが込み上げて腹が立っていても、不思議と(少しずつですが)落ち着いてモヤモヤがスッキリと晴れていきます。

 

出来事や相手を許さなくてもいいし、中庸な結論出さなくていい。広い心の持ち主になろうとしなくていい(笑)

ただただ自分の感情を全部許容するだけで、自分が望むものが何なのか見えてきます。

ほんとうに欲しいものは目の前の「それ」ではなかったということにも・・・

 

私の自分軸が育ってきたかな~キラキラ

だと嬉しいな~OKラブラブ

 

 

大豆ミートの照り焼きマヨバーガーにフライドポテトラブラブ

 

 

こちらは野菜の下にもぐっていたロコモコ丼ラブラブ

アボカドが入荷しなかったとのことでアボカド無しの100円オフでしたスプーンフォーク

撮影の為にわざわざ野菜をかきわけどかしてハンバーグを見せてくれましたパー

相方さんに感謝キラキラ

 

パプリカ食堂ヴィーガンさんはこちら

 

 

 

こちらは大阪に来たら必ず食べたい

大大大好きなファーイーストバザールのヴィーガンソフトクリームラブラブ

キャラメルのような濃くて深い味爆笑

 

 

 

自分を大切にしよう、自分に優しくしよう、自分を愛そうとこちらで何度も書いてきていますが

 

大切なのは

ワクワクすること、楽しいことを自分に与えるだけではなくて

ネガティブな感情も「私はそう感じているんだね」と認めてあげることではないかと思います。

 

「怒り」を感じてあげる、蓋をしないで「悲しみ」を感じてあげるということではないかと。

 

目を背けないで悲しい自分に寄り添ってあげる

小さなことに怒りを持つ心の狭い自分を包み込んであげる

今の心の現在地を良い悪い抜きで認めてあげる

そして

置き去りにしてしまったあの時の自分を今の自分が癒してあげるということではないかと。

なぜなら現在の怒りや悲しみは過去の古傷からやってくる自己否定や自己卑下、無価値感から起きるものだから。

 

最近そう思うようになってきました。

 

あの時の自分を迎えにいってあげる

あの時の心を一緒に感じてあげる

 

迎えにきたよ

遅くなってごめんね

今まで蓋をして独りぼっちにしてごめんね

これからは私がずっと傍にいるからね

 

 

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うれしたのしいおいしい

ここちよい しあわせ

ありがとう