日本の政治・経済・社会は、東日本大震災から一年を過ぎても、閉塞感が一段と強まっている感は否めません。国際的には、資本主義経済の行き詰まりが問題になってきているようですが、日本は政治・経済の衰退と、社会的な荒廃があいまって、国のあり方の再検討を迫られている感じがします。

 20数年前、ソ連が崩壊して東西冷戦構造が終焉した当時、「パラダイム転換」ということが言われました。それは冷戦時代の旧い考え方やシステムを見直し、冷戦崩壊後の新時代に対応した考え方、システムを構築しなければならない、ということでした。しかし、その後の20年を振り返ってみますと、アメリカ一極集中のマネー資本主義が世界を席巻し、アメリカ流グローバリズムがはびこりましたが、21世紀に入るとグローバリズムがほころび始め、同時多発テロとその後のアフガン、イラク戦争、リーマンショックなどを経て、冷戦の勝者であったはずの資本主義社会の前途に黄信号がともるに至っているのであります。

 その間、冷戦終了とほぼ同時にバブルが崩壊した日本は、小泉政権時代の構造改革によって、若干景気が持ち直したこともありましたが、高度経済成長路線は「夢のまた夢」と化し、深刻なデフレ、急激な少子高齢化の進行、財政危機などに四苦八苦していたところに、東日本大震災に直撃され、未曽有の国難状況に陥っているのであります。

 こうして見てきますと、日本が転換を迫られているのは、東西冷戦構造が崩壊したときより、むしろ今日ではないかと思わざるを得ません。司馬遼太郎さんの言い方を踏襲させてもらうならば、日本は「この国のかたちの再検討を迫られている」のであります。

 最近、日本の将来が案じられるニュースが相次いでいます。思いつくままに挙げてみましょう。

 第一は、2011年の日本の貿易収支が、3年ぶりに赤字に陥ったというニュースであります。昨年は大震災やタイの洪水の影響で、日本製の自動車や家電の輸出が大幅に減少した一方、福島第一原発の事故の影響で各地の原発が停止に追い込まれたのに伴い、火力発電用の天然ガスの輸入が増えるなどした結果、貿易収支が赤字に転落したということのようです。(中略)

 昨年は、第二次石油ショックに直撃された一1980年以来、31年ぶりに貿易収支が赤字になりました。1980年はまだ日本経済が成長力を持っていた時代で、省エネを推進した結果、幸いにして貿易赤字は一年で克服できましたが、昨今の自動車メーカーや家電メーカーの大赤字決算のニュースを見せつけられますと、今回は輸出で稼ぐ貿易立国・日本の土台が崩れてきているのではないかと、心配になってきます。

 第二は、人口減少傾向がいよいよ顕著になってきたということです。今年初めに厚生労働省が発表した平成23年の人口動態統計の年間推計を見ますと、出産数は105万7000人と、昭和22年の統計開始以来最少となったようです。一方、死亡者数は大震災の影響もあり過去最多の126万1000人となった模様で、日本の人口は20万4000人減少したようであります。

 日本の人口が減少に転じたのは平成7年からですが、その後2年間は、30代で出産しておこうという団塊ジュニア世代の「駆け込み出産」もあり、微増で推移しました。本格的な人口減少社会になったのは平成20年の7万9000人減からで、平成22年に自然減が初めて1万人を突破して12万5000人となり、昨年それが一気に20万人台を突破したわけです。(中略)

 この結果、今後20年間で、日本の人口は約1割、1200万人減少し、50年後には現在より4000万人も減少して、人口は8000万人になると予想されているのであります。そうなると、国内市場は縮小し、GDP(国内総生産)は激減します。

 人口減少に対して、移民の積極的な受け入れで対応すべきだという意見もありますが、日本は天皇制という制度のもとに、ほぼ単一民族が身を寄せ合っている島国ですから、多くの移民受け入れは容易なことではなく、ヨーロッパの現状を見ても、なかなか難しいと言わざるを得ません。人口減少時代に対応するには、日本の政治は中長期的な針路をきちんと明示する時にきています。

 第三は、第一、第二とも関連しますが、国民生活が悪化していることを物語るニュースが増えていることです。バブル経済全盛の頃までは、日本は「一億総中流社会」と言われ、国民の大半は中流意識を持っていたわけですが、この20年で一億総中流社会は完全に崩壊しました。(中略)、ですがまだ日本人が平均一千万円以上の貯蓄を持っているというのは、国際的に見れば、日本社会はまだ余裕があるということかも知れません。

 しかし、「貯蓄はゼロ」と答えた世帯が、1963年に調査を始めて以来最高の28.6パーセントに達したというのは、私にもちょっとショックでした。四世帯に一世帯は、貯蓄ゼロで必死に生活を送っているわけです。(中略)

 低成長が常態化し、雇用状況も深刻化する中で、国民生活が次第に悪化してきているのが、貯蓄の調査でも明らかになってきているのです。

 近年、一人暮らしの中高年の人たちが、都会の片隅で孤独死していくのが問題になっていましたが、ここへ来てさらに深刻な亡くなり方が表面化してきました。それは餓死です。このグルメ社会に日本で、餓死者が相次ぐなどということは、一昔前までは考えられなかったことであります。(中略)

 ここ数年、日本で餓死する人と人数は、毎年50~100人に達しているということです。餓死した人たちの多くは、生活保護を受けておらず、行政との接点がほとんどなかったと見られています。東日本大震災で人と人の「絆」の重要性が再認識され、昨年を代表する漢字にも、「絆」が選ばれましたが、現実の社会では周囲と「絆」を結ぶことなく、孤独死、餓死していく人が後を絶たないのであります。

 世界第二位の経済大国を誇った日本経済が、ぎしぎしと音を立てて崩れていこうとしている中で、国民の生活基盤はいよいよ弱体化し、困窮に耐えきれない人たちが、地を這うようにして、声も無く倒れていっているのが日本の現実であり、それに大震災・原発事故が追い討ちをかけているのです。

 今の日本の政治は、果たして、そういう人たちに救いの手を差しのべようとしているのでしょうか。格差社会から落ちこぼれていく人たちの悲鳴に耳をふさぐかのように、唯我独尊的に増税一直線に突き進もうとしているように思えてなりません。

 日本の財政事情から見て、いずれ消費税増税は必要かもしれません。経済が巡航速度で運航している平時であれば、増税を断行しても日本は失速しないでしょう。しかし、多くの人たちが言っているように、今、増税路線に舵を切るのは、雷鳴がとどろく巨大な竜巻の中に突入するようなもので、あまりにも危険です。ここは慎重の上にも慎重を期して、竜巻を避け安全に着陸すべきです。目的地に向うのはその後でもいいのです。

 お釈迦さまの生涯を描いた『仏所行讃』という本の中に、シャカ族の王子だったお釈迦さまが、宮殿の城壁の東西南北にある四つの門から外へ出て、人々の苦しみを目の当たりにし、仏道修行の道に入る決心をされる、次のような場面があります。

 「太子は路傍で土を耕す農夫の鋤で多くの虫が殺されているのを見て、惻隠の情を起され、自分の心臓を突き刺されたように、虫の痛みを自分痛みとされた。また、その農夫自身、きびしい農作業で形相は疲れ果て、髪は乱れ、汗がしたたり落ち、土ほこりで身体は真っ黒になっている。畑を耕す牛も疲労困憊し、舌を出して喘いでいる。慈悲深い性格の太子は、そうした光景を目の当たりにされ、極めて深い憐れみの心を持たれた。そして、生きていく矛盾に大きく嘆息され、その場に座込んでしまわれた」。

 ここには、為政者の子として生まれたお釈迦さまの、まさに為政者としての仏心が表現されています。政治家の仏心とは、民衆の苦しみや痛みを自分のものとするところから生じるのです。長引く不況や大地震で国民が苦しんでいるのに、日本新生、日本経済再生に向けたビジョンも示さず、あたかも殉教者のように増税路線を突き進もうとするのは、路傍で疲労困憊している農夫や牛を見殺しにするようなものであり、決して仏心ある政治とは言えないのです。

 仏教学者の故中村元先生が訳された『ブッタの言葉』と言う本があります。お釈迦さまが説かれた人間の生き方に関する言葉が紹介されている本ですが、その中に「犀の角」という箇所があります。そこには30ほどの生き方が説かれていますが、一部を紹介します。

「貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め」

「世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感じることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め」

「最高の目的を達するために努力策励し、心が怯むことなく、行いを怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と知力を具え、犀の角のようにただ独り歩め」

「貪欲と嫌悪と迷妄を捨て、(中略)命を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め」

 これらの言葉は、政治家の生き方の指針としても通用します。こうした心の持ち方こそが、仏心ある政治を可能にするのです。

 「犀の角のように」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は他人からの毀誉褒貶に煩わされることなく、ただ一人でも、自分の確信にしたがってすすむべきだ、という意味が込められています。現在の政治家に「犀の角のように」毅然とした生き方をしている人は何人いるでしょうか。

 いずれにしても、物心のある政治とは、国民の苦しみや悲しみを自分のものにする「同悲の心」を持って、毅然とした態度で政治を行うことなのです。

 ここに来て、俄然、大阪府知事から大阪市長に転身した橋下徹さんが率いる大阪維新の会が注目をあびています。現在、国政を担当している民主党も、野党第一党の自民党も、国民の支持は低下しており、現在の橋下ブームが続けば、維新の会は国政の場でキャスティングボードを握り、一気に政界入りを果たす可能性もあります。しかし、橋下維新の会が一気に政界に屋台骨を担うのは、何がなんでも無理です。橋下さんのブレーンになっている元政治家や元首長といった人たちが、あまりにも軽すぎます。また橋下さん自身が、「ボクは国政には行かない」と明言されているのは、ご自身が今はまだ日本という五重塔の心柱にはなり得ないことを自覚されているからでしょう。

 私は、橋下さんが掲げた「船中八策」的な日本の政治のパラダイム転換を行うためには、維新の会を含む各政党が肝を決めて、現在の政界のオールスターキャストによる大連立救国内閣を樹立するぐらいの荒業が必要ではないかと思います。

 東日本大震災からの復興、福島第一原発の事故収束には全力で取り組む。借金の増加を食い止め、財政再建に全身全霊でチャレンジする。少子高齢化社会の進展に果断に対応する。日本経済の再生戦略に早期に取り組む。日米、日中、日ロなど外交に真剣に取り組み、国益を堅持する体制を築く。

 こうした日本の課題に関しては、各党の目指す方向に大差はないはずです。国家・国民のために政治が一丸となって取り組む姿勢を見せ、日本の政治が一新される方向に動きだせば、政権はどんな形であれ、多くの国民は納得して政治を見守るはずであります。

 党利党略の政治はもう結構です。未曾有の国難状況を乗り越えるために、政治家こそ体力・智力を備え、命を惜しまず、「絆」を結びあって努力してほしいものであります。 

合掌

3月1日、ロシアの次の大統領に決定したプーチン氏は、世界中のメディア記者を前にして「北方領土問題決着」に言及した。このことは日ロ間の外交交渉が行き詰っている中で大いなる光明をわが国に与えたことを指している。

  この機を逃さず、閉ざされかかった扉をこじあけ、北方領土返還を現実性のあるものにしなければならない。



日本青年社が拓いた返還への道



 平成21年3月17日、日本青年社訪ロ団一行31名は、日ロ両国間で膠着状態に陥っている領土返還交渉を打破するため、空路ロシアに出発した。この訪ロ団がなぜ結成され、何を目的にしていたのかを明らかにすることにより、現在のプーチン氏の言動、ロシア政府の動きが理解できるであろう。

 ロシア政府関係者から「日ロ間で膠着状態に陥っている領土返還交渉を進めるためにロシアに来て欲しい」との打診を受けたのは平成18年であり、この時の大統領はプーチン氏であった。この打診は日本青年社の会長に対してのものであった。なぜならば北方領土返還運動において圧倒的存在感を示し、日本屈指の運動を展開していたのが日本青年社であることは海外メデァの知る事実であり、当然のことながらロシア政府も熟知していたのであった。

 ロシア政府関係者からの申し入れは日本青年社にとって驚天動地の出来事であった。しかし、このことはロシアが北方領土の返還の意志を示したことに他ならなかった。日本青年社は水面下で多くの知識人や北海道道東地区の漁業関係者の声を聞き会議を重ねていった。

 平成20年日本青年社会長が駐日ロシア大使公邸において大使と昼食を共にしながら領土問題解決に向けた長時間にわたる意見交換が行われた。

 その後、日本青年社ロシア訪問団にビザを発給するという連絡があり、同年9月10日にロシア政府から正式に招請状が届いた。この招請状に対し、日本青年社は翌年の21年1月の全国代表者・役員会議において訪ロの方針を決定し、訪ロ団の結成を行った。同3月15日国士舘大学国際会議室においてロシア訪問団壮行会を開き、固い決意の下に3月17日にロシアに向けて成田を飛び立ったのである。

 日本青年社はこのとき大きな決断をしたのである。その決断は北方領土返還を現実なものにするという、日本国民の悲願を実現するということを自らの任務にしたというものであった。日本青年社を含めて、それまでの返還運動は日本の国内において街宣活動やデモ行進を行い、一方的に「還せ、北方領土」と叫ぶしか出来なかった。 その中で最も大規模で過激な運動は日本青年社による「二・七北方領土奪還運動」に他ならなかった。

 この運動は政府が「北方領土の日」と定めた以降、毎年行われ1500名もの同志が徒歩デモによりソ連大使館に徹底した抗議を行った。これを国内メデァは無視したが、ニューヨークタイムズの一面を飾るニュースとして世界中が注目した。しかし現実としては北方領土返還の道は閉ざされたままであった。北海道の漁民は領海侵犯の名の下にロシア兵に射殺され続けていた。わが国に正義があり、領有権があるにもかかわらず領土が不法占領され、国民が殺害されている不条理な現実を直視することなしに問題の解決はない。日ロ両国で行き詰まっている領土交渉の扉を開くことに我々は目標を定め、行動する「右翼」として全力を注いでゆく以外に道はないと決意したのであった。

日本青年社訪ロ団の切り拓いた地平

 我々訪ロ団は現在膠着状態に陥っている日ロ両国の交渉を前に進めることを目的にした。北方領土が日本の領土であることは明白であり。このことは断固として守り抜く、しかし67年間ロシア(かつてはソ連)が不法占拠と言う形で実効支配していることも事実である。領土問題では実効支配が常に重要な要素になる。67年という年月も重要である。これら全てを考え合わせると「一括返還」だけを要求することは逆に実効支配の固定化につながりかねない。なぜならば領土紛争の歴史を見れば判るように正義は必ずしも勝者にはならないことを示している。それゆえ日本青年社の訪ロ団はクレムリン、商工会議所、下院議員会館、外務省などを訪問し、政府要人と意見交換を行い、更にはサンクトペテルブルグ国立大学で学生と対話集会を行い友好を深めた。

 この訪ロにおいて最大の成果は、日本青年社がロシア政府との間において民間外交窓口を確立したことと領土問題の解決を政府要人と約束したことである。元より領土交渉は政府間の交渉であり、我々民間人が介入すべきものではない。我々の立場は日本国民として日本の国益を求めていくことに尽きるのだ。我々は3年前の訪ロによってはっきりとロシア政府の意志を確信し、新たな局面の展開が必ず訪れることを予想していた。そしてそれは日本政府ではなく、ロシア政府によってもたらされたであろうと考えられた。なぜかというならば我々日本青年社の訪ロを提案した時の大統領はプーチン氏であり、プーチン氏の意志の下に日本青年社の訪ロが実現したことを考えれば自ずと結論は出てくるのではないか。一時期メドベージェフ氏に大統領が変わったが首相はプーチン氏であり、国家意志が何ら変わるものでないことは、世界中の人々の認めるところであり、それは事実であった。

日本の領土返還交渉の問題点

 北方領土返還に関して日本国民の全てが一致した意志を持っていると思われる。しかしその熱意は千差万別であり、戦後の日本人の領土意識の低下は国家そのものへの意識変化を生み出してしまっている。何が何でも領土はとり返すという強い意志を持った日本人は一体どの程度存在するのであろうか。心細い思いをしているのは我々だけではないと願うだけである。

 そもそも日本とロシアの間で領土問題が発生し、その決着がついたのは安政元年(1854)に結ばれた日露和親条約によってであった。ロシアの代表はプチャーチン提督であり、日本の代表は勘定奉行・川路聖謨(としあきら)であった。幕府の方針は開国拒否であったので川路はプチャーチンの恫喝に一歩も引かず、開国拒否を貫いた。しかし米国から来たペリーに対して江戸城の幕閣は耐えきれず日米和親条約を結んでしまった。こうなるとロシアだけを拒否する訳にはいかず、場所を長崎から下田に移して交渉に入ったのである。 

 世界各地を巡っていたプチャーチン提督は川路との交渉を重ねているうちに尊敬の念を持つようになった。それは日本の武士道に対してであり、川路個人の聡明さに対してでもあった。提督の随行員ゴンチャロフは「日本渡航記」の中で「この川路を私達は皆好いていた。(中略)

 川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法を持って、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかった。(中略)

「明智はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」と書いている。

 川路は北方領土を四島として一歩も譲らず日露和親条約を結んだ。しかしこのとき安政大地震が起こり、プチャーチンが乗ってきたディアナ号が難破し駿河湾で沈没した。そのとき沿岸の漁民は自宅が津波で全滅しているのもかかわらず、小舟で救助に向かい、四百数十名、一人の死者も出さずに救い出したのである。更に西伊豆戸田に住居を建てわが国初の西洋式帆船「戸田号」を造り、全員を無事にロシアに送り届けたのである。このような徳川幕府の最後の外交官川路聖謨はロシア人を驚嘆させた外交交渉術と日本人の徳の深さを示し、日ロ友好の礎を築き明治政府に引き渡したのであった。彼は幕臣として徳川家に忠誠を尽くし、江戸城引渡しを聞くと自刃した。最後まで武士道を貫き通した人物であった。

 昭和20年9月3日ソ連によって不法占拠された北方領土は何度か返還される機会があった。最初は昭和31年に鳩山内閣による、日ソ平和条約締結交渉時だった。このとき二島返還が明文化されていたが不調に終ってしまった。その後ソ連が崩壊し、新生ロシアとなりエリツィン、橋本会談など具体的な交渉が行われたが、何れも不調に終っている。森元首相は二島先行返還の方針で交渉し、前進したかに見えたが小泉内閣の田中外相により潰されてしまう。交渉の最大のネックは「四島一括」であった。日本側の主張は四島の帰属が日本にあることをロシア政府が認めれば返還の時期、様態、条件は柔軟に対応するという新方針を打ち出していた。しかし交渉が進むとこれに対し「弱腰外交」などと反対を唱えだす人々が必ず出現し潰しにかかった。

 その最大の勢力は「右翼」に他ならなかった。かつての日本青年社がその一員であったこともまた事実である。しかし日本青年社は年前の訪ロを契機に大転換を行ったのである。その時の決意を「ルビコン川を渡った」と雑誌アエラに語ったのだ。

 今回次期ロシア大統領プーチン氏が日本との領土問題の解決に積極的姿勢を見せたことは恐らく最後の機会になるであろう。武士道精神を重んじるプーチン氏が日本青年社の誠意に答えてくれたと考えるのは穿った見方であろうか。いずれにしても日本青年社の方針は明瞭である。実効支配が67年も続いた現在、日ロ交渉がいつまでも平行線を辿っているならば領土問題は解決しない。日ロ両国政府がお互いに国民感情を和らげながら、そして妥協点を見出しながら、それが段階的なものであっても領土返還を実現させなくてはならない。これこそが現実的な道であり、そうすることによって豊かな海洋資源と漁民の安全確保することこそわが国の国益になるであろう。

 原理主義的な「四島一括返還」を唱え、交渉を挫折に追い込む勢力に対しては断固反対しなければならない。なぜならば実効支配がこれ以上続くならば北方領土は永遠にロシア領として固定化されてしまうからである。その証左に中国政府が尖閣諸島に巡視活動を最近開始した理由を「実効支配が五十年続くと国際法の判断で尖閣諸島が日本の領土として定着しかねない」と言っているように領土問題では実効支配の年数が重要な意味を持つのだ。

 多くの保守派の人々が「四島一括返還」の旗を下ろすなと言っていることは我々も知っている。その人々が「返還反対派」だとは思わない。しかし「一括でなければダメだ。」と主張することが返還を遅らせ、最終的には返還を不可能にしてしまうことを理解すべきであると思う。

 我々は尖閣諸島を27間実効支配し、中国から守り抜いてきた。そして今、ロシアから北方領土を還させようと全力で取り組んでいる。口先だけではなく、行動で領土問題を解決しようではないか。


 日本青年社は運動家の集団である。

 50有余年にわたって民族運動に携わってきた日本青年社。日々の活動と存在が大きく変化する中で、平成11年に右翼民族派改革元年・新たなる民族運動の構築をスローガンに掲げた意識改革と体質改善を図った日本青年社の前号に引き続く、特別企画・「日本青年社の目的とその活動を語る」座談会の記事を掲載。今回は、農業問題とTPPに続く領土問題を掲載します。

戦後の農業形態とTPP

【杉山】 日本の農産物は高品質だから果物なんかもちゃんと甘いし管理も行き届いているよね。東南アジアなんかに行ったときミカンなんかを食べると全然違う。日本では絶対に商品にならないような物も店頭にあるよね。

【富施】 そういうところにも農産物の生産をあげて輸出を増やすヒントがあるんですね。

【大久保】
 日本人は無関心かも知れないけど日本には豊かな水と四季があるし、農産技術があるからそれができるんですね。

【杉山】
 そうなんだ。ああいうのを見ると日本の農業と言うのは輸出という形に転換できる要素はいくらでもあるんじゃないかと思うね。それも政策次第だというような感じがするけどね。

【篠塚】
 さっき加藤さんが言った工業製品というか産業の方で得た利益を輸出できるような農業生産を応援するというようなことが本当の政治じゃないのかな。

【大久保】
 でも工業製品にしても工場がこれだけ海外に拠点が移してしまえばいずれどうなるかと言うことも起きてきますね。

【杉山】
 だからTPPに参加することで関税の障壁を取っ払う必要があるんじゃないの。農業を教えない教育の問題がある

【大久保】
 今話してる問題と関係あるかどうか分からないけど、私は学校教育に農業の単位を加えて学生に強制的に単位をとらせるようにすれば農業をみんなが知ることができると思う。そうしていけば農業の未来というか、もっと農業に興味をもつ若者が出てくるのではないかと思いますけどね。

【加藤】
 大賛成ですね。日本が近代国家になる以前は農業国家だったわけじゃないですか。だから学校で農業を教えなくても周りに農家が多かったから必然的に農業というものを理解できたし、農家にもご苦労様とかありがとうというような感謝の気持ちも育ったと思うんだけど半世紀以上前の敗戦によって工業国家へと移り変わっていくうちに国民が農業を忘れてきた部分がすごくあると思いますね。

【大久保】
 それと同時に敗戦を境に農地改革が行われたことが農業を小規模にしてしまったんじゃないのかな。

【杉山】
 小作人制度を廃止した農地改革ね。あれが農業を細分化してしまったね。

【大久保】
 そうです。ですから農業を小さくしてしまったことも一つの問題があるんではないのか。

【司会】
 今回の座談会は農業問題がテーマですから、どうしてもTPPを避けて通れないのですが、総合すると今の日本はTPPに参加することは当然である。日本はTPPを次なるステップとしてとらえて、これからは色々な弊害に縛られている農業のあり方を見直して世界に門戸を開いた農業改革に取り組むべきだ。それとあらゆる分野において関税が撤廃されるのだから世界屈指の技術力を持つ日本は、工業製品の輸出を更に強化すると同時に、産業界が得た利益で農業支援をすれば日本経済の活性化を図ることも可能になるということですね。

【杉山】
 簡単に言えばそういうことだよ。

【司会】
 それともう一つはさっきも言ったけど政治家が農家を選挙の票田としていること。これも農業を衰退させてきた大きな原因の一つでしょう。

【加藤】
 そうだと思います。ですから日本青年社はそのことも含めてTPPに賛成しているわけですから農業を見捨てるということではないんです。日本青年社は「農業は国の宝」「米は日本の宝」と考えています。それと「食糧自給率の向上」も日本青年社が取り組む運動の大きなテーマですから。

【杉山】
 そうなんだ。我々は農業を育てるんだよ。それとTPPの政治的な側面は基本的な部分には対中国政策があるんだね。だから反対をしている政党や人たちを見てみると、本心はわからないけどアメリカを敵視している組織体。いわゆる親中派といわれる中国寄りの人たちもほとんど反対ですよ。中国側につくのかアメリカを中心とした自由主義圏につくのかと言うようにね。だけどこのような感情論で判断してはいけないと思うね。

【大久保】
 それと中国はTPP参加国ではないけど、今までのような中華思想と膨張主義を振りかざしていたらどこにも相手にされなくなるだろうし自由貿易に賛成していかなければ中国自体ものいずれは衰退して消滅しちゃうんじゃないの。

【亀田】
 それは可能性はありますね。あれだけの人口増加の中で経済に陰りが見え始めているんだからこれからの食糧事情は決してよくなるとは思えません。下手をすれば食糧問題が大きな暴動引き起こす可能性すらありますからね。

【大久保】
 それと杉山さんの話だけど、中国は砂漠化が進んで水がなくなって来ているんじゃないかな。環境汚染なんかを見てもこの先の食糧自給率は間違いなく下がってくると思いますね。

【杉山】
 あの国は世界で一番人口が多いんだけど、あれだけの人間を食わせるということは大変なことなんだね。少し前までなら貧しい生活の中でそれなりに食わせることはできたけど今は経済が豊かになってうまいものを食うようになってる。それをこれからの中国人全体に食わせるとなると中国自身の力では自給ができなくなってくるんじゃないの。だから中国だっていずれは食糧輸入国に転化せざるを得なくなると思うね。

【加藤】
 実際にそうなっていますから日本の戦略上において逆に中国とどうやって付き合っていくのかを考えなくてはならない。またTPPに中国は入ってないですけど他にも入ってない国が結構あるじゃないですか。50年先に中国の人口を抜くと思われるインドもそうですけど、日本は先ずそういう国との交易も考えていく必要があります。

【杉山】
 TPPだって米国のアジア太平洋新戦略なんかを見ると、ただアメリカだけのためのTPPではなくてその辺のところをしっかり考えた上での対中国政策ということも確かだからね。

【司会】
 今日本の農業とTPPについて議論していますが、TPPはこれからどういう方向に向うか、そして日本がどのように臨むかという段階ですから国内で賛否を争うのではなくむしろ一枚岩になって今後の交渉に臨むべきであり、そこからメリットのある確実な政策を作り出していくことこそが重要だと思いますね。



食糧問題と人口増加は切り離せない問題


【杉山】
 話は変わるけど、農業問題と絶対に切り離すことのできない問題としていつも思っているのは爆発的な世界人口の増加だね。人口増加の状態がこのまま進んで行けば、いずれ食糧が欠乏する国が出てくるでしょう。そうすると食糧争奪戦が起ることは目に見えているわけですよ。とんでもない悲惨な状態が世界中を巻き込んで起きてくる可能性だってあると思います。

【加藤】
 20世紀に油を奪い合った戦争のような食糧争奪戦ですか。

【杉山】
 そうだね。医療が進歩して人類が長生きする。それ一つ見ると非常に幸せな世界がきたように見えるけど全体として考えたときに非常に不幸な時代に実は突入していくということもある。人類の末期に向って世界中が突入していくような恐ろしい時代に入ってきたと感じるんですね。

【大久保】
 そうですね。人類が長生きするということはどうしても食糧の需要と供給バランスが崩れてしまって需要の方が大きくなるわけだからそういう問題も起ってくるでしょうね。

【杉山】
 この問題はこれからも注視していかなければならないことです。だから我々は農業を産業も全部含めて今日本は何をすべきか、これからどうして行くべきかとうことに今まで以上の関心を高める必要があります。本当はこういうことを国家のかじ取り役である政治家が一番しっかりしなければいけないことなんだから、これからの選挙は国政も地方もだけど有権者がそういう意識を持って投票して欲しいですね。

【司会】
 有り難うございました。農業問題は非常に奥が深いし幅が広いんですが今回のTPP参加は、敗戦後の農地改革によって最小化された農業を再生するために現在の農業政策、それと農家の上にあぐらをかいている農協や農業団体の構造改革の実現、それと近視眼的な日本の政治を世界に向けさせ大きな切っ掛けになるということが語られたと思います。また今度農業問題をテーマにした座談会があるときに日本の農業が少しでも前進していることを期待して次のテーマに移りたいと思います。




日本青年社が取り組んだ尖閣諸島問題27年の闘い



【司会】
 それではここで昭和53年から取り組んだ尖閣諸島実効支配活動について話を進めたいと思います。領土問題は主権国家にとって極めて重要なテーマです。我が国は現在3つの領土問題を抱えていますが全ての領土問題は戦後に起きたにもかかわらず何一つ解決されていません。その中で日本青年社は尖閣諸島に深く関わってきました。ですから日本青年社は領土問題のオーソリティーでもあるわけですが日本青年社が取り組んだ尖閣諸島実効支配27年の闘いを振り返りながら、平成17年2月の国家委譲に至るまでの経緯をそれぞれの体験談も含めて話を進めてください。



尖閣諸島の歴史的経緯


【富施】
 南西海域の尖閣諸島は明治28年1月14日、国際法に基づいて日本に編入された日本領土です。また中共が尖閣諸島は明治28年4月の下関講和条約が締結されたときにドサクサのまみれて奪われたという記事を読んだことがありますがそれは大きな間違いです。何故ならば講和条約は明治28年4月17日に締結されたんです。ですから尖閣諸島が日本領土となったのはその三ヶ月前でありそれまでは無主地だったんです。ですから尖閣諸島は国際的にも歴史的にも日本固有の領土です。

 それと昭和20年の戦争終結からある時期まで沖縄は米国の統治下に置かれましたが、昭和47年の沖縄の本土返還のときに尖閣諸島も日本に返還されてます。この年は日中国交正常化も締結されていますが実は中国も台湾も尖閣諸島は日本の領土であると認めていたんです。ところが昭和43年に行われた国連の海洋調査団が東シナ海の海洋資源調査の結果が同44年に公表されたことからこの海域が脚光を浴びるようになりました。そして同45年に日本政府が東海大学に託して海底調査を行った結果、海底に石油の根源石である海成新第三紀堆積層が、尖閣諸島を中心に約20万キロ広がり、層の厚さも3000メートル以上に及んでいることが明らかになったことが領土紛争の発端となったんです。

【加藤】 それと台湾が尖閣諸島の領有権を主張する理由は、米国の当時の大使が、尖閣諸島を含む台湾北東海域の探査権を許可したことが紛争の発端になりました。

【司会】
 このような事実を殆どの国民は知りませんね。

【大久保】
 昭和53年8月に日中平和友好条約が締結されたんですが、その四ヶ月前に4月に中国の武装漁船200隻近くが日本領海に侵入して尖閣諸島を取り囲むという事件がおきたんですが、政府はこの領海侵犯に対して毅然とした対処ができなかったことに危機感を覚えた民族派団体は、尖閣諸島に上陸して日本の領土主権を主張しました。このとき日本青年社は魚釣島に上陸して灯台を建設したんです。
 以来平成17年までの27年間、尖閣諸島魚釣島に上陸して灯台の保守点検と領土の実効支配に取り組んできました。そして平成16年の政府の申出により平成17年2月に無償で国家に委譲しました。現在は海上保安庁が灯台の維持管理してます。

【杉山】
 日本青年社が尖閣諸島に灯台を建設した意義というのは凄く大きいね。他国でも結構領土問題があるんだけど、そこが自国の領土であることを主張する一番オーソドックスで有効なのが灯台だよね。だから日本青年社はただ上陸するだけではなく尖閣諸島に灯台を建てることを考えた我々の先輩は凄いと思うね。



尖閣諸島問題の資料について


【司会】
 今の話にあった歴史的経緯と日本青年社が取り組んだ27年にわたる尖閣諸島実効支配活動はHPに公開していますが他にも資料はあるんですか。

【亀田】
 日本青年社が制作した「灯台建設から27年 魚釣島灯台国有化」と言うDVDがあるのでそれを見れば大体のことはわかると思います。それと政治学者の殿岡昭郎氏が執筆した「尖閣諸島・灯台物語」が高木書房から出版されていますからこの本を読むとその時々の時代背景を知ることもできます。最寄の書店に注文すれば店頭になくても取り寄せてくれます。

 あの灯台があったから毎年我々が尖閣諸島に行くたびにマスコミが報道していたし、もし灯台がなかったら尖閣諸島の報道はされなかったのではないかな。もしあの灯台がなかったら日本の国民は尖閣諸島の存在もわからなかったと思いますね。

【篠塚】
 私は尖閣諸島は国家の生命線だと考えているんです。と言うのは我が国のエネルギー供給路を見れば判るように日本のエネルギー資源である石油の80%は中東から運ばれてくる。その石油タンカーの航行ルートはペルシャ湾、インド洋、マラッカ海峡、東シナ海を経て運ばれるんです。それを考えると台湾海峡や尖閣諸島は国家の重要な生命線ということになります。ですから尖閣諸島は絶対に守り抜くべきですね。



尖閣諸島の位置と活動


【司会】 それと一昨年9月7日に中国漁船が領海侵犯して海上保安庁の巡視船に衝突するという事件がおきました。このことによって尖閣諸島は多くの国民が知ることとなりましたが、その島がどこにあるかというとまだまだ曖昧のようです。ではここで尖閣諸島の位置と活動について伺います。

【大久保】
 尖閣諸島は、東シナ海の日本領海内にある五つの島と三つの岩礁によって形成されています。わかりやすく言うと東シナ海の真ん中に位置する孤島ですが、行政区は沖縄県石垣市ですから島の一つひとつに地番がついます。

【司会】
 石垣市が行政区といいましたが石垣島からどれぐらいの距離があるんですか。

【富施】
 約175キロです。石垣港から船で行くんですが魚釣島まで5時間半ぐらいかかるんです。

【司会】
 どんな船ですか。

【富施】
 最初は100トンの鋼鉄船で魚釣島に行きましたが、その後は4トン前後の漁船です。小さいですよ。

【司会】
 尖閣諸島魚釣島にはじめて上陸したのが昭和53年ですが平成17年に国家委譲した灯台はそのときに建てた物ですか。

【富施】
 そうではありません。昭和53年に尖閣諸島に上陸してから10年を迎えたことを記念して昭和63年に建て替えたのが現在の灯台です。また最初に灯台を建てたときは太陽光電池がなかったので風力を利用した灯台でしたが、建て替えたときに太陽光電池に変えたんです。

【司会】
 灯台建設の資材はどのようにして運ぶんですか。

【富施】
 灯台のパーツ、パーツと言っても一つ30キロと言うのもありますが、それを船で運ぶんです。それ以外にセメントとかセメントをねる水や食糧もあるので島に上げるときは一苦労でした。それで島には電気がありませんから全部手作業ですね。腰が立たなくなりますよ。

【司会】
 そうですか。大変な作業ですね。この昭和63年に立て替えた灯台はすでに一級灯台の資格を備えていたそうですが。

【加藤】
 そうです。この灯台を作った会社は日本の航路標識の98%を造っている会社ですから設計の段階から一級灯台の基準で制作しました。そして灯台を建設してからも海上保安庁が検査して一級灯台に不足しているところを教えてくれるんです。そうすると我々が指導に従って灯台の装備を整えるわけですから、この時点で尖閣諸島の灯台は一級灯台の資格を備えていたので第11管区保安本部灯台課に「灯台許可申請」を提出しました。このとき海上保安庁は妥当なものとして申請書を受理したんです。ところが外務省がこれにクレームをつけたために不許可になりました。このクレームについて外務省の事情を知っている人から「今の日中関係は非常に微妙な時期にきている。それは天安門事件の際に他の国は中国に対して強硬姿勢をとったのにも関わらず日本は『中国への内政干渉』として軟弱だった。特に外務省中国課は“親中派”で固められていて中国の機嫌をとりそこねてはマズイという思い入れがあった」ということを聞いたので日本青年社は直ぐ外務省に厳重抗議をしました。

【司会】
 許可申請はそのときだけですか。

【富施】
 平成元年7月に第11管区保安本部灯台課に「灯台許可申請」を再提出した後に本庁灯台部から灯台の申請者を地元の人に変更するよう通達があったので、石垣市在住の関係者の名前にして申請したんです。このときに海上保安庁灯台部が灯台を「魚釣島漁場灯台」と命名したんです。

【司会】
 それで受理されたんですか。

【富施】
 その年の8月に名義人を地元の人にして第11管区保安本部灯台課が灯台許可申請をしました。そして翌年(平成2年)6月に第11管区保安本部灯台課の専門家8名が魚釣島に上陸して、申請者代理人立会いのもとに「魚釣島漁場灯台」の検査を行った上で指摘された箇所を全部保守工事したんですが、10月4日に海上保安庁から、先の第11管区保安本部灯台課に提出した灯台申請許可について「対外的な問題が介在してるので許可はしばらく猶予期間が欲しい」という連絡があったんです。ですから12日にその旨をたずねたら「政府内で検討を進めているので、結論が出るまでしばらく時間がかかる」ということでした。



「不作為の審査請求書」を提出


【司会】
 その後はどうなりましたか。

【富施】
 その年の12月に海上保安庁の丹羽長官に「不作為の審査請求書」を提出したんですが翌年3月に海上保安庁から「現在関係官庁と検討中、結論を延期とした」旨の回答がありました。その後何度となく「灯台許可申請」を提出しましたが、外務省がその度に「時期尚早」という曖昧な理由で許可を拒否したんです。これは石原都知事も新聞やテレビで話してます。

【司会】
 富施さんは現在の日本青年社で一番上陸回数が多いと思いますが以前に尖閣諸島周辺海域を航行していた外国船籍の船が台風で難破したとき、日本青年社が建てた魚釣島の灯台があったので助かったということがありましたね。



貨物船乗組員が灯台の灯に救われる


【富施】
 昭和56年です。当時、日本青年社の上陸隊が宿舎として使用していた建物が壊されていることを発見したんですが、その原因は前年度の昭和55年8月に台湾の基隆から神戸に向っていたフィリピン船籍の「MAXIMINA STAR号」が、台風に巻きこまれたときに魚釣島の灯台を発見して島に乗り上げて難を逃れたことがあるんです。このときに乗組員23人が我々の宿舎を利用したことがわかったんですが「M・S」号の救援活動に当たっていた海上保安庁第一管区保安本部は「同船は魚釣島の灯台の灯を発見して同島に乗り上げたものであり、いわば緊急避難したものと思われる。万一灯台の灯を発見しなかったら23名の乗組員の命は失われていただろう」と証言してるんです。

【司会】
 そんなことがあったのを誰も知らない。

【富施】
 こんなこともありました。平成7年6月に上陸したとき琉球大学の学生が499トンのフェリーで尖閣諸島の生態系調査に来ました。そのフェリーが調査を終えたら我々を乗せて石垣島に戻るということから、我々は魚釣島に上陸して漁船を帰してしまったんです。ですから魚釣島に4日間ほどいたんですが、この調査船から下ろしたボートが大きくて何度も挑戦するんですが魚釣島に入江に入れない。ですからフェリーは魚釣島上陸をあきらめて沖合いの方に離れていったんですが、それを見て我々は3人乗りのボートで沖に向ったんです。それをフェリーの乗組員が見て100メートルぐらいのところで船は止まりました。ところがボートで船に近づいてみると横のハッチまで高さが4メートルぐらいあるんです。ですからうねりが大きく上がったところで船腹のハッチに乗り移ったんですが、あとで写真を見たら、我々が乗った小さなゴムボートの周りに鮫がいるんです。そうですねボートと一メートルぐらい離れたところに鮫の背びれが写ってたんです。これは驚きましたね。
 それと魚釣島まであと二時間ぐらいのところで大きな鯨を見たこともありました。みんなで感動しました。

【司会】
 そのような苦労を重ねながら平成8年に魚釣島の隣にある北小島に新たに灯台を建設しましたが、そのときは杉山さんも上陸してますね。

【杉山】
 昭和53年に灯台を建設したのは富施さんが言うように日本の領土主権を世界に主張する目的がありました。しかしこの海域は岩礁が多いので航行する船舶にとって危険なところでもあったんです。ところが我々が魚釣島の灯台を建設したことによってこの海域を航行する船舶は凄く助かったんですね。だけど魚釣島灯台の灯だけでは、東シナ海全体をホローすることができないということで隣の北小島にも灯台を建てようということになったわけです。

【司会】
 北小島の灯台はそういう理由もあったんですか。

【杉山】
 そうなんです。魚釣島の灯台と宮古島の灯台、そして北小島の灯台を合わせると東シナ海を290度ぐらいだったと思いますがホローできたんです。ですから我々は北小島に灯台をもう一基建てて360度ホローすることも考えていたんです。

【司会】
 それは壮大な計画ですね。それとさっき魚釣島に灯台を建設したときの話ですが島には電気が無いから全部手作業だと聞きましたが、北小島の灯台はどのようにして建てたんですか。

【杉山】
 灯台の部品や機材の運搬は魚釣島と同じですね。このときは漁船で七人で行きました。

【司会】
 その時の様子を聞かせてください。

【富施】
 灯台部品は事前に石垣島に送らせてありますが、灯台の建設資材は石垣島で揃えました。そして昼間のうちに船に積み込んで夜中の12時ごろ石垣港を出港するんです。
 それから六時間ぐらいかかるんですが、尖閣諸島につくころ夜が明けるんですが北小島は魚釣島のように入江がないから、島に船を直接接岸しなければならないのですが、波が高いので中々接岸することができず30分ぐらい掛かりましたね。それからみんなで灯台と機材を降ろして作業を始めました。

【司会】
 そのとき漁船はどうしてるんですか。

【富施】
 漁船は島から離れたところに停泊して待機してました。そうしないと船が岩場にぶつかると壊れてしまって戻ることができなくなりますからね。

【杉山】
 この時は香港のテレビ局が取材に来てたんです。

【司会】
 北小島にですか。

【杉山】
 石垣島にです。我々が石垣島を出発する日の昼間ですが、街に出ているとホテルから電話があって、外国のテレビ局がホテルの玄関前にカメラを据えて陣取ってると言うんですね。それで夕方ホテルに戻ると、このテレビ局が玄関の真正面にライトとカメラを据えて我々を待ち構えてるんです。

【司会】
 取材は受けたんですか。

【杉山】
 当時は、今もそうですが向こうのテレビ局は基本的に尖閣諸島は中国の領土だということを前提としているからそんな状態の取材は受けられません。

【司会】
 なぜですか。

【杉山】
 まずホテルに迷惑がかかる。それとそこで取材を受ければ全て相手のストーリーに作られてしまうからね

【司会】
 ということは。

【杉山】
 相手はカメラを向けて我々を挑発するでしょう。そうすると相手は自分たちの都合のいい映像をテレビで放送することが確実ですから。
 だから我々はホテルの裏口から入ったんです。それから夜中も裏口から出て岸壁に向ったんですが、この時も取材班はライトとカメラを玄関に向けて我々が出てくるのを待ち構えていましたね。

【司会】
 では石垣島を出港したのを取材陣は判らなかったんですか。

【富施】
 そうです。このテレビ局とは一度も接触しませんでしたから。
 でも北小島の上陸して3時間ぐらいしたらセスナで飛んできて上空を何回も旋回してました。写真を撮ったんでしょうね。

【杉山】
 この中に北小島に上陸した人もいますが、この灯台を建てたときはあまりに暑かったんで全員が低温ヤケド状態でしたね。

【司会】
 このときの灯台建設は2日掛かったようですが夜はどうしたんですか。

【杉山】
 夜は北小島で寝ました。寝ましたといっても斜めの岩場に体を横にしただけだからほとんど眠れなかったけど、あの夜空は忘れることができないですね。それこそ満点の星空でしたし、天の川もそのままの姿で見えました。人工衛星が飛んでいるのも見えましたね。
 それと昼間は暑いですけど夜は寒いんです。ですから次の日は午前4時半頃から作業を始めて、午後4時ぐらいに灯台を完成させたんですが天候が荒れてきたので急いで船に飛び乗り、帰りに魚釣島の灯台を点検してから石垣島に戻りました。夜中の12時ごろでしたね。

【司会】
 この灯台も「許可申請」を出したんですか。

【富施】
 平成8年の9月に許可申請を提出して受理されましたが、10月に前回と同じに「政府全体の判断により灯台の認可は保留する」として拒否されました。このときも11月に第11管区保安本部長に「不作為の審査請求書」を提出しました。

【司会】
 それとこの年の7月20日に日本はEEZ(排他的経済水域)を前提とした国連海洋法を発効しています。

【富施】
 そうです。ですから我々は7月20日に国連海洋法が発効された5日後の25日に北小島灯台の許可申請書を提出したんです。

【司会】
 それは受理されたんですか。

【富施】
 受理されました。そして海上保安庁本部は8月中旬までに回答するということになったんですが、その後から台湾と中国から尖閣諸島の領有権を巡る抗議が激しくなりましたね。確か8月17日だったと思いますが、梶山静六官房長官(当時)がこの抗議に対して「尖閣諸島の領有権は厳然と我が国にあると主張しており、合法的に政府がとやかく言うことではない」と述べてですね、政府は干渉せずという姿勢をとったんです。
 
また石垣市の大浜市長は、排他的経済水域を定めた国連海洋法条約を日本が発動したことや日本青年社が灯台を建設したことを巡って、台湾漁民が尖閣諸島魚釣島に漁船を大挙出動させて「中華民国国旗」を掲揚して領土権を主張するとの動きに対して、「尖閣諸島は石垣島の行政区であり台湾の領土ではない」との立場を表明しました。

【司会】
 当時は色々なことがあったんですね。



灯台の灯が消えている


【富施】
 ありました。それと灯台を建てた一ヶ月ぐらいあとに大きな台風が尖閣諸島を通過したとき北小島の灯台が45度の角度に傾いてしまったんです。このニュースは台湾の新聞の方が大きく出てました。我々は急いで島に上陸して修復したんですが、このとき参議院予算委員会でこんなことがありました。この議事録は私の手元にもあるんですが、ある議員が「尖閣諸島の灯台の灯がついてないという情報があるんですが、どういうことですか」と質問したら「気候の変化によって灯台の灯が消えてます」と答えたんですね。

 それに続いて「その灯台の灯が点いてるんですがそれはどうしてか」再度質問すると、今度は「気象の変化によって点いてる」と答えたんですね。日本青年社が直したことを知っていても言えないんですね。

【司会】
 中国への気兼ねでしょう。

【富施】
 そして9月26日に香港の「全球華人保釣代連盟」の「保釣号」が尖閣諸島海域に侵入して船から4人が海に飛び込んで一人は死亡するという事件がありましたが他の人たちは日本の海保が助けたんですよ。

【司会】
 そうでしたね。

【富施】
 それと12月7日に、「北小島漁場灯台の灯が消えている」と匿名電話があったので直ちに北小島に上陸して調査をしたところ灯台本体が人偽的に損壊して灯台の灯が消えていることを確認したので翌年の2月4日に尖閣諸島北小島漁場灯台損壊につき建造物損壊罪若しくは器物破損罪として氏名不詳の某外国人として告訴状を八重山警察に提出しました。

【司会】
 警察は事件として扱ったんですね。

【富施】
 そうです。しかしここでまた問題が出ました。我々は早く灯台を修復したいんですけど警察の実況見分が済まないと修理ができないんです。

【司会】
 でも告訴状を受理したんなら直ぐに実況見分をすればいいじゃないですか。

【富施】
 そうなんですけど警察は魚釣島に行く船がないから実況見分が出来ないというんですね。

【司会】
 警察だって船ぐらい用意できるでしょう。

【富施】
 でも警察の検分を待っていたら灯台の修理がいつになるかわからない。それで告訴を取り下げて灯台を修理して修復したんですが、これには別の意味もあったんです。

【司会】
 別の意味とは何ですか。

【富施】
 尖閣諸島で起きた事件の告訴を警察が受理したということは尖閣諸島は日本の治安が及んでいることの証拠じゃないですか。

【司会】
 なるほど。そうすると告訴も取り下げも尖閣諸島が日本の領土だということを明らかにしたということですね。

【富施】
 そうです。今度はその年の夏ごろにまた「灯台の灯が消えている」と匿名電話がありました。

続く