今日、日本人の多くは大学や専門学校へ通う。しかし彼らのキャンパスライフを見るに、関心意欲はただの口上ではないかと疑ってしまうことがある。一方で懸命に学ぶ者も、また最初から高卒で働きだすことを希望する者もいる。一体何が正解か。

 この小説は怠惰で自制心がなくそのくせプライドの高い男、貫多が中学卒業後に人足として働き、その日暮らしに生きるさまを書いたものである。

 実際、今の日本には貫多のように生きる者はどれくらいいるだろうか。もちろんこれは中卒で働きだすという意味ではない。今日が良ければそれで良いという生き方のことだ。なおこの言葉は2つの捉え方ができ、1つは毎日が良い日になれば良いというもの。しかしこれは不可能に近い。苦しい日、辛い時期。そういった時が誰にもある。むしろその時を乗り越えて楽しい日々を迎えるのではないか。一方、今日だけが楽しいという生き方ではこの意味のある苦しさが存在しないため、将来的な豊かさを手に入れにくいだろう。つまり私が言いたいのは、今日だけ楽しいは本当に今日だけが楽しく、そんな生き方を所望するなんてありえないというとこだ。しかし、私の周りにはそういう人がいくらか確認できる。果たして彼らには何が見えているのか。また自分は彼らと違う道を歩めているか、時々恐ろしくなる。

 自分にとって善いと思うもの、美しいと感じることを知り、そこに向かいたい。もちろん初めはうまくいかないだろう。しかしそこで理想は曲げたくない。美しいものを汚いと評するとき、自分自身が一番悲しい思いをするから。

 周りに流され易い人ほど名門大学へ行くべきだと思う。その環境が人を立派に育てるだろう。

 

 

 

授業の合間にお読みください

 

「苦役列車」作:西村賢太