(1) 第三界

 はっと、顔を上げた。
 何か熱いものが、頬を滑り落ちる。
 それが何かわからないまま、朦朧とした意識であたりを見まわす。
 人の背中、背中、背中。
 俯き加減に背を丸めた若者たちが、空間を埋め尽くしている。
 不自然な沈黙と、紙の上を滑る鉛筆の音に満たされた世界。正面の壁は緑色をしていて、白い文字が大きくかかれている。

 二. 国語総合 

 呆然と視線を巡らせると、たった一人、顔を上げている人間がいた。
 目と目があう。
 柔らかそうな髪をついとかきあげ、そいつはにやり、と笑った。
 その意味ありげな笑いに、首をかしげる。
 と、再び、頬を何かが転がり落ちた。
 あれ、と手を当てる。なにか、水のようなものが、指先を濡らした。
 
   *    *   *
 
「──で、どんな悲しい夢を見たわけさ?」
 廊下を足音をひそめて歩きながらそう問われ、千島真志は困惑に首をかしげた。
「覚えてない」
 夢の内容を覚えている人のほうが、少数派なのではないだろうか。真志はそう思う。夢を見たことは覚えていても、内容なんて。
「んな事言って、実際お前、泣いてたじゃん。それだけ強い夢をさ、簡単に忘れられるもんか?」
「本当に泣いてたか?」
 一瞬あきれた顔をして、それから破顔したのは、同級生の西尾要だった。彼が気転を利かしてくれたおかげで、真志は期末考査中の教室で、間抜けな顔を周囲にさらさずに済んだのだ。

「まったく、なんで自分のことなのに、そんなに鈍いかねえ。俺なんて、お前までアンカーになっちまったかと心配したのに」
「何だ、アンカーって」
「知らないの、お前?」
 要の問いに無言で頷いて、真志は口元に指を立てた。
 締め切った教室の一つから、監視の教師のものらしい咳払いが聞こえた。ふたりは顔を見合わせ、とりあえず教室棟から抜け出すことにした。

 考査中の校舎は、静かなのに不思議な煩さに満ちている。問題用紙に向かって必死に戦っている生徒たちの、その思考の音が現実に漏れ出しているかのようだ。息の詰まるような不思議な圧力を感じながら、真志はたった今まで見ていた夢のことを思い出そうとした。
 目覚めてしばらく、自分が高校生であることや、期末考査の最中であることなど、まるで忘れていた。いや、要が教室を抜け出す手助けをしてくれるまで、自分がどこにいるのかさえ解らなかったのだ。
 そんな変な夢の見かたを、今までしたことなどない。
 ましてや、泣く──涙を流す、なんて。

 例えば自分が何か精神的な苦しみを抱えているとして、それを夢に見て泣くなんて事が、有りうるのだろうか。現実に涙を流したことが、記憶に残る限り小学生の頃以来、十年ぶりだとしても。
 手もとの答案用紙は、不思議なことに全て埋まっていた。解答を埋めた記憶がないのは問題だが、少なくとも開始直後に居眠りをしたわけではないという事だ。
 自分の普段の解答スピードを考え、夢を見ていた時間を計算してみると、思ったほど長くはない。十分、せいぜい十五分という所だ。そんな短い間に、どんな夢を見れば泣けるのだろうか。
 と、隣を行く要が大げさに息を吐いて伸びをした。
 二人は教室棟を抜け、部室や図書室が並ぶ北側の渡り廊下へと到着していた。
「っはー。やっと開放されたぜ。あの廊下一杯の、重苦しい雰囲気。やだやだ。なんであんな、暗くなるかねえ、テスト中の若者は」
 お前だって若者だろうと内心でつっこみながら、真志は口の端で笑った。
 入学してまだ半年だが、どんな時でも軽妙で楽しげな態度を崩さない要のことは、少なからず印象に残っている。
「お前くらいだろう、テスト中も前も後も、変わらないのは」
 真志の言葉に、言うねえと要は口笛を鳴らす。
「お前がそんなに俺のことを見ててくれたとは、光栄だね」
「目立つからな」
「千島ほどじゃないと思うけど? ま、いいや。お礼にコーヒーをご馳走しよう」
 どこでだよ、と尋ねる間もなく、要は図書館の入り口脇に設けられた司書室へと、要を案内したのだった。
 そう言えばこいつは、図書委員なんて意外な役を務めていたのだ。

 司書室の中は無人だった。主である司書の女性は、留守にしているらしい。
「司書の先生は?」
「ああ、まっちゃんの所だろ」
 きっとまたオセロでもしてんだぜ、と保健室の女性教諭の名前をあげ、要は司書室の奥のソファーに真志を座らせる。
 四畳ほどの司書室の一番奥には、二つほど事務机が並んでいる。その手前にはどこかから持ちこまれた古いソファーが置いてあって、これまたどこかの廃品を拾ってきたような、低いサイドテーブルとセットになっていた。
 サイドテーブルの向こう側には、小さいながら備え付けのキッチンがあって、そこには色々な種類のマグカップや湯のみ茶碗、急須やシュガーポットといった道具が揃っている。
 要は、手慣れた様子でヤカンを火にかけ、造り付けの棚をごそごそと探っている。やがて、サイドテーブルの上にティースプーンと砂糖、クリープにインスタントコーヒーの瓶が並べられた。
 友達の家にでも遊びに来たようだと、場違いな光景に真志はあきれた。運動協議会の部にしろ、学芸協議会所属の部にしろ、各々の部室には電気ポットがあったり、ソファーがあったり、所属する生徒たちが工夫を凝らして居心地の良い空間にしようと努力しているのは知っている。
 しかし同様の行為が、司書室なんて一種公的な場所でも行われていたとは、思いもよらなかったのだ。

「うわ、呆れられちゃったな。慣れてるとは言え、お前にまでそんな顔されると、俺、ショックかも」
 思ったことが、露骨に顔に出ていたのだろう。振り向いた要が苦笑しながら言った。
「俺にまで?」
「いや、千島ってさ、あんまり顔に出ないじゃん? クールで通ってる男に、呆れた顔されるなんてさ、悲しいことだよな」
 思わず自分の顔を手で撫でながら、真志は言い訳をする。
「一年の癖に、やけに馴染んでると思って感心しただけだ。お前らしいよ」
 どこの部室だって、入学して半年しか経たない一年生の居場所はあまりない。一年のうちは教室や屋上で昼食をとって、三年が卒業したところで本格的に部室の住人になるのが、大半の部の慣例だ。
 要は嬉しそうににこにこしながら、一番奥に立てかけられていたパイプ椅子を取ってきて真志の向かいに座った。
「そこはほら、俺の人徳だから──と言いたいところだけれど、実際は違うんだな。毎週一日は当番でここに詰めなくちゃいけないからさ。自然と馴染んじまうんだ。先輩方にお茶やコーヒー入れるのも、一年坊の役目だし」
 俺、図書委員になって初めてインスタントコーヒーの淹れ方知ったよ。そう苦笑しながら、沸騰したヤカンの火を止めるために、要は機敏に立ち上がった。
 小さなテーブルの上に、ペンギンの模様のマグカップと、ごく普通の湯のみ茶碗。二つになみなみとコーヒーは作られ、茶碗の方が真志に差し出される。
 それ、お客さん用だからさ、変だけど勘弁な。そう言いながら、流しの上の棚に重ねられている、同じ茶碗を指で示して、要は笑った。>

「でさ、思い出せそうか?」
 ゆっくりと温もりを飲み干した真志が、ほっと息をつくのを見計らったかのように、要が口をひらいた。
 真志は首を横に振る。そもそも、思い出そうという気持ちすらなかったのだ。
 こいつは何故、他人の夢なんか気にするのだろう。要の真意が掴めなくて、真志は彼の顔をまじまじと眺めた。
 要は、投げつけられた視線には気がつかないそぶりでマグカップを覗きこみ、軽薄な感じの笑みを浮かべた。投げ出された膝の上で、長い指が何かを測るようにリズムを取っている。
 やがて、空になったマグカップを手の中でくるりと廻し、彼は真志の顔を覗き込むようにして問いを口にしたのだった。

「……お前さ、シャンバラって知ってるか?」