原文では北部地方のような田舎では、こうしたジャーティを越境するアプローチはしばしば相手方の家族を激怒させ、家族の名誉のために殺人沙汰になることも珍しくないと結んでいる。先に紹介したようにヒンドゥー教徒が守らなければならない最も基本的な生活態度はそれぞれの職業区分の中で懸命に生きることである。少年のアプローチはそれを妨害するものだという解釈もできる。原文を読む限りでは、ヒンドゥーの教えに背くようなことをさせて娘をたぶらかそうとしている男として殺害されたと読むのが妥当かもしれない。
おそらく少年はそういった事情を考慮せず(あるいは募る想いを抑えきれず)に少女にラブレターを書いた。故意か偶然か、それが少女の周囲の人たちの知るところとなった。少年は純粋な恋心からアプローチしただけだったかもしれないが、相手はそうは受け止めなかった。人間同士のコミュニケーションに誤解はつきものだが、これほど悲しい誤解のされ方があるだろうか。どういった事情があるにせよ、15歳の少年を惨殺して守られる名誉とは何だろうか。今生の生き方によって来世が決まるならば殺人などタブーの最たるもので、本末転倒も甚だしい。仮に少年に何らかの落ち度があったとしても、事件が伝える悲惨さは露ほども変わらない。
ちなみにこのビハール州はブッダが悟りを開いた土地・ブッダガヤのある州として知られるが、仏教の聖地で人間の煩悩はいまなお深い。少年の冥福と理不尽な悪習の一日も早い消滅を祈るばかりだ。