科学という万能選手の限界について
このような科学の進歩をまのあたりにして、われわれは近い将来、すべての自然現象は科学的に明らかになるのではないかと思うかもしれません。しかし、科学は自然を見る限定された見方に過ぎません。それは、数学的に表現できる範囲の記述を許すものに限られます。その範囲でさえも多くのことが分かっていません。なぜ、重力は引力だけなのか。なぜ、クウォークは9つ3世代存在するのか。原子はどんなメカニズムで安定しているのか。発見されていない反物質は何処へ行ってしまったのか。銀河系を支える為の質量が10倍足りないのに、なぜ、銀河系は安定していられるのかなどなど。
また、人の遺伝子の配列を解析する人ゲノム計画がほぼ完了したというニュースをご存知の方も多いだろうと思います。人の遺伝子は意外にも少なく約3万1千個だったそうですが、その遺伝子によって、生体の情報は先祖代々受け継がれ、いろいろな機能が発現していることになります。そのような不思議な機能はどのように創るのかまったく分かりません。分からないという意味は、解読は可能ですが、それを、われわれが造りだし、生命を与えることがまったく出来ないということです。それは、そんなに複雑な生命ではなく、単細胞である一番単純な生命さえも造ることができないということです。
このような意味でも人間の科学が自然をどれだけ知っているかということの範囲は狭いものです。また、最近、人間型ロボットが作られ始めていますが、それらが高性能になればなるほど、人間の肉体の超精密さ超高性能さが逆に際立ってきます。
また、科学はまだ意識や生命を直接扱えるレベルに達していません。分かっていることと、分かっていないことを比べたら、かの有名なニュートンが昔、図らずも漏らした、「私は真理の大海を前にして、浜辺で貝を拾って遊んでいる子供にすぎない」という言葉がそのことを最も上手く表現しているように思えるほど、ほとんどのことは分かっていないのです。さらに、感覚的なこととなると、なぜ赤は赤なのか、自分が見ている赤と人が見ている赤は同じものなのかどうか証明する手立てはありません。
また、意識となると、もっと分かりません。意識はどこにあるのか、意識はどこから来るのか、脳はどのように意識を作り出すのかなど、意識に関するほとんどのことが分かっていません。われわれが頭で分からなくとも自然は限り無い存在が整然と運行し、肉体や脳は休みなく働き続けています。
正誤の彼岸
善悪の彼岸
競争の彼岸
人間を縛る最高の呪縛の一つが競争原理である。われわれは競争原理に縛られている。そのように言われても、何を言っているのか、分からないという人は、その呪縛に完全に支配されている。この呪縛を解くには、すべての人々、行為、出来事を存在するという観点で見ることである。
競争原理の視点は、すべてのものに順番をつけることである。それは、資本主義の原理でもある。それは、エリート養成の原理であり、偏差値の原理であり、富と力の原理である。その世界はナンバーワンを目指す世界であり、間違ってもオンリーワンの世界ではない。
その原理は結果的に支配層と被支配層、成功者と失敗者という集団を生み出す。また、その原理は、犯罪、自殺、虚無、精神病など歪んだ現象を多数生産するリスクを持つ。
その資本主義に対する共産主義も失敗した。競争原理の働かない社会は沈滞し、思想統制や強制収容所の悲劇を生んだ。
それでは、理想の社会とは、どのような体制によって、実現されるのであろうか。現在の世界では、適度な競争原理は必要なことが、歴史的に証明されてきた。しかし、共産主義で実現されていた社会保障も必要としている。それを、名づけるならば、資本主義的社会主義というようなものになる。
その社会では、競争に勝たなければ、生活が出来ないのではなく、普通の日常生活は保障されるが、より良い生活を望むならば、いくらでも高度な生活が実現できるという社会である。それは、一つの価値観ですべてが決定されるのではなく、価値観の多様化が実現され、多くの可能性が準備された社会である。
今現在の世界は資本主義的な競争原理で統一されている。その頂点に立つのが国家的にはアメリカであり、世界に対して、その力をベトナム、クウェート、イラクなどで行使して来た。しかし、力での支配には限界がある。
われわれが目指さなければならない社会は、得意な分野の能力を、それぞれが十二分に伸ばせる社会である。好きでもないことを、競争原理に従って、競い合う社会ではない。本来、仕事は傍(はた)を楽にするための行為である。それを証して働く(傍楽)という。
ためいき
「ためいき」
われわれは時々「ためいき」をつく。「ためいきとは心配・失望・感動などの時に思わずもらす大きな息のこと」と辞書にはある。
ここでわれわれが表現したい「ためいき」とは、われわれが生きていることによって、この表面に見えている現実と、それらを奥で精妙に成り立たせている本質とのギャップを感じた時にわく、一種独特な感覚のことと定義されるようなもののことである。それは身体的動作を超えた感覚であり感情であり情緒のことである。
歴史的に有名な人物のためいきを、われわれは作品を通して感じることが出来る。ゲーテは最晩年に「ファースト第2部」を書いたが、理解されないという理由から、それを封印した。このいきさつを知ることはゲーテの深いためいきを聞くことにほかならない。才能にも世の栄華にも十分に恵まれたゲーテがそれでもなお充たされない思いを感じさせる深いためいきを多くの人は下記のあまりにも有名な詩に感じることであろう。
<旅人の夜の歌>
峯々に 憩いあり
梢にかよう 風もなく
森に小鳥の声もやみぬ
待てしばし やがて
なれも憩わん
次の詩からも高村光太郎の深いためいきが聞こえてくる。われわれの人生は偶然の結果であり、一種の戯れであると確定的に決まっているものであれば、どんなにか楽なものであろう。しかし、戯れではないと思うと、なぜ、なぜ、なぜと多くのことに疑問が湧き、どうにかしてほしいと「ためいき」をつくことになる。
<生けるもの>
何事も戯にして、何事も戯ならず
戯ならずと言はむにははあまりに幼し
戯なりと言はば自ら悲し
我も生けるものなり
-後略-
次の詩からも北原白秋の深いためいきが聞こえてくる。われわれの多くは社会的日常生活を必死に営んでいる。しかし、忙しい合間にその生活をしみじみとかえり見た時、これらの生活は何の為にしているのか、人を蹴落としたり、蹴落とされたり、会社の為に犯罪ぎりぎりの行為をしたり、明らかに、自分の為にも人の為にもならないことも、平気でしなければならない人生とはなんなのだろうかと。そこに「さびしさ」や「はかなさ」や「情けなさ」が漂うことになる。
<落葉松>
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
-後略-
次の詩からも宮沢賢治の深いためいきが聞こえてくる。深い宗教心を持った宮沢賢治の現実に対する見方がそこにある。「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」や「そのとうりの心象スケッチ」や「こころの一つの風物」や「虚無」といった宮沢賢治の心象的世界にちりばめられた「ためいき」を感じることが出来る。
<春と修羅(序)>
わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける因果交流電燈の
ひとつの青い照明です(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね(すべてわたくしと明滅しみんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられたかげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆は宇宙塵をたべ、
または空気や塩水を呼吸しながら、それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりである程度まではみんなに共通いたします
-後略-
中沢新一の対称性人類学の公理系からも、中沢新一の「ためいき」を聞くことができる。無意識の領域にある流動的知性の脱領域性や高次元性や対称性、さらに脱時間性や自他不分離性はわれわれの日常の性質ではなく、非日常の隠れた本質である。これらの性質から日常は「空」であり、「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」であり、「からまつ林」であり、「戯れ」であるように感じることになる。無意識の本質を知らないわれわれは池に浮かぶ浮き草のように、あても知れず流れや風に翻弄された末の一時の静寂に、はかなさを感じ「ためいき」をつく。
<対称性人類学の公理系>
Ⅰ「野生の思考」はいまだに私たちの「心」で作動を続けている。私たちの「心」の基体をなす無意識が、不変の構造を保ち続けているからである。
Ⅱ 無意識は数万年前ホモサピエンス(現生人類)の脳組織におこった革命的な変化をきっかけにして形成され、私たちの「心」の基体をかたちづくってきた。このとき、分化された知性領域を横断する流動的知性が発生したのである。
Ⅲ 流動的知性は、脱領域性、高次元性、対称性などの特徴を持っている。
Ⅳ 流動的知性である無意識は、対称性の論理に従って作動をなす。
(1)過去-現在-未来という時間系列を知らない。
(2)自己と他者の分離がおこなわれない。
(3)「心」の基体では、部分と全体が一致する。
Ⅴ 対称性無意識の働きを組み込んでいないどのような理論も、ホモサピエンスの「心」を本当に理解することはできない。
三木成夫が在世中に出版した著書は、『内臓のはたらきと子どものこころ』『胎児の世界』の二冊であるが、死後、五冊の著書が出され、その業績は、生前よりも死後において高く評価されている。三木成夫の学問は「生命形態学」と呼ばれている。三木成夫が高く評価されているのは、専門の学問よりも、それらの学問を通して語る三木成夫のものの見方や三木成夫自身の人間性である。
三木成夫の未完である生命形態学からも深い「ためいき」を聞くことができる。形態学とは、植物や動物、社会的文化的現象に見られるさまざまな“かたち”に精神や知性の働きを直接読みこんでいく学問的態度の総称ということになる。それは、現象の背後に何か虚構の理屈や尺度をでっちあげる背後世界の撤廃をはかり、西洋文化のなかに脈々と続いてきた、内面と外面、精神と物質、神と被造物といった二元論的区別を文字通り取り払う。
時間と空間について
[時間について]
時間は「順序」であり、「運動の数」であり、「エントロピー」であり、本にふられた「ページ」であり、「記憶の数」であり、「空間の1つの座標」である。運動の法則にとって、時間は順序のパラメーターでしかない。その順序を展開する規則は一定なのか、可変であるのかが、時間自身の性質なのか、違う力が働いているのかによって変わるので、熟考を要する。時間が早く進むことと、変化が早まることは、結果的に同じ効果を生む。ニュートン力学では、どの慣性系から見ても、運動の順序は入れ替わることはなかった。相対性理論によって、運動の順序は、慣性系の相対速度によって、変化することが分かった。光速になると、時間は進まず、順序である時間は消滅する。つまり、光と時間はイコールになる。この状況は、ビックバン直後に起こっていたことである。ここでは、時間と光の統一場が成り立っている。
[空間について]
空間は「配置」であり、「本の1ページ」であり、「時間の3つの座標」である。運動の法則にとって、空間は位置のパラメーターでしかない。ニュートン力学では、どの慣性系から見ても、物質の配置は変わることはなかった。相対性理論によって、物質の配置は、慣性系の相対速度によって、変化することが分かった。光速になると、位置は点に収束し、位置である空間は消滅する。この状況は、ビックバン直後に起こっていたことである。ここでは、空間と光の統一場が成り立っている。
われわれの空間が、もともとユークリッド空間であると考えると、一般相対性理論によって考えられている、曲がりくねった空間は、物質がそのような空間の中を運動するように見えるだけの、見せかけの空間であると、考えなければならない。この問題は、昔から議論されてきた問題である。電磁気学から発達した場の考え方は、空間を空虚なものとは考えず、エネルギーが充満し、ある性質を持ったものであると考えている。その時も、そのエネルギーによって、空間自身が歪まされているのか、そのエネルギー場によって、運動が制御されるのか、2つの考え方が可能である。
物理学的時間を検討する
Ⅱ.物理学的時間を検討する
物理学において時間は欠かせない要素である。それは、物理学の中心的な研究課題である物質の変化・運動が時間の関数であることに拠る。それらが時間と関係を持たない関数で表わされていたならば、物理学において時間は無視されていたことであろう。
[ニュートン力学の時間]
時間の性質を地上での変化・運動から宇宙全体の変化・運動にまで同様に適用し、大成功を収めた最初の例がニュートン力学であった。
ニュートン力学における時間の性質はわれわれが考えうる時間の性質の中で最も単純なものである。その時間の性質とは無限の過去から、無限の未来まで、宇宙のいかなる場所においても一様に流れる、悠々として、われわれの感覚を安心させる最もシンプルな時間である。そして、その時間はどの一点も他の点と区別がつかない直線的な性質を持つ時間である。その時間においては、過去も現在も未来もまったく区別されていない。さらに、その時間はわれわれの意識とは関係を持たない客観的なものと考えられている。宇宙に意識が存在しなくても、物質は時間と共に変化・運動を繰り返すと見られている。さらに、ニュートンは時間を物質の変化・運動とも独立な存在として捉えていた。それは時間を実在するものと見る観点である。その時間をニュートンは絶対時間と呼んだ。
[アインシュタインの特殊相対性理論の時間]
その時間に対して変更を迫る体系がアインシュタインによって提出された。ニュートン力学の確立から約200年後(自然哲学の数学的原理「プリンキピア」1687年、特殊相対性理論1905年)のことである。その理論は特殊相対性理論と呼ばれ、そこで主張されている時間はニュートン力学の時間のように一様に流れない。時間の流れ方は測り手の速度に依存する。また、ニュートン力学で当たり前であった宇宙全体の同時性も成り立たない。空間的に異なる場所での時間はその都度、光を媒介にして定義しなければならない。しかし、もし光が無限大の速度を持つならば、ニュートン力学の時間と特殊相対性理論の時間は完全に一致する。光速が有限であることにより、この理論においては時間を空間と完全に分離して考えることが出来なくなった。そこで、一般にもこの世界は4次元の世界であるなどと言われるようになった。また、相対論において特徴的なことは、瞬間に伝わる情報(ニュートン力学では重力は瞬間に伝わる)は存在しないということ、つまり、電磁波にしても、重力にしても、他のすべての波動や物質の運動にしても、光速(毎秒約30万km)を上限として、有限の速度で伝播・運動していることを発見したことである。
[量子力学の時間]
永遠という今
永遠という今
-流れるように見える幻想の時間ではなく、実在する永遠の今にアクセスする為に-
1.唯我独尊:あなたにとって、あなたのみが宇宙で唯一の実在である
2.諸行無常:あなた以外のすべてのことには、まったく常がない
3.諸法無我:あなた以外のすべてのことには、まったく主宰性がない
4.只管打坐:想念を停止・統一し只坐ることに優る状態は存在しない
5.光の速さは光源の運動に関係なく一定である:光にとって空間は存在しない
6.楽しい現実とは楽しい現実を創るあなた自身である
7.如何なる状態であろうと、あなたの現実は完璧に創られている
8.宇宙の何処を探してもあなた以外の何ものかを見つけることは出来ない
9.すべては意識の中での出来事である
10.今ここに100%の信頼と共にただ在ることに優る状態は存在しない
11.客観的世界は主観を通してのみ存在する
12.現実世界は光(フォトン)が形を変えたものに他ならない
13.[eiπ=0-1] 自然対数とiとπと1と0の不思議な関係
14.[v(頂点)-e(辺の数)+f(面の数)=2]3次元での多面体はこの関係を逃れられない
15.[1.0000…=0.9999…:証明1/3=0.3333…両辺を3倍]実数はこの世界のものでない
16.あなたの(顕在及び潜在)意識の定義通りの現実が現われる
17.思い通りにならない時、それが思い通りだと知ろう
18.今この瞬間に悠久の時が閉じ込められている
19.何時でも、宇宙に意味と原因を与える張本人はわれわれ自身である
20.時間・空間・宇宙は壮大で華やかで緻密なイリュージョンである
21.実在するものは今、ここ、われ
22.時間はサイコロジカル・プロセスであり、未来と過去は視点の異なる今である
23.観念が先にあり、意識が創るイリュージョンがそれに従う
24.あなたを嫌う誰かがいるのではない。嫌う誰かとはあなたである
25.あなたが嫌う環境があるのではない。嫌う環境とはあなたである
26.創造主はただ存在する。それによって全ての創造が可能になる
27.すべての存在、すべての考え方、すべての行為はすべて真実である
28.われわれが本当のわれわれである時にのみ安心立命する
29.われわれ一人一人は底無しに優しい神の目を持っている
30.どの部分も全体(ありてあるもの)の一部であり、全体の無限性を併せ持つ
31.われわれが外なるすべてを受け入れた時、それらも内なるものであることを知る
時間は実在するのか
Ⅰ.時間は実在するのか
われわれは時間の中で生活していると思っている。時間がなければ、ものごとは進まないと思えるし、変化や運動も不可能のように思える。時間には、変化や運動などの基礎となる性質とともに、過去・現在・未来という三つのブロックに現象を区別する働きがある。その区別は今を基準にして、記憶としての過去と、ものごとが起こっている今と、想像としての未来を厳密に区別する働きを持っている。また、起こってしまった過去は現在から見て遠いか近いかによって整然と配列可能である。
しかし、この単純素朴な時間の観念はやや深く時間について考察すると、矛盾に突き当たることになる。それは現在とはどのような大きさを持つ瞬間を表しているのかという問題である。現在に少しでも大きさを持たせると、現在という瞬間は過去も未来も含むことになる。そのような観点から、現在には大きさを持たせることは出来ない。つまり、大きさのない幅ゼロ(秒)の瞬間が現在であるとしなければならない。その結果、そこでは運動はありえず、すべてのものは静止していることになる。そして、静止した現在の瞬間であるゼロ(秒)をいくら集めても、有限の値にはならない。つまり、運動は存在しないということになる。これがゼノンの飛ぶ矢のパラドックスと呼ばれる議論である。
哲学者が主張する時間には、プラトンの永遠の影としての時間、アリストテレスの運動の数としての時間、ゼノンのパラドックスとしての時間、カントの主観的アプリオリな直感形式としての時間、アウグスティヌスの心(魂)の働き(延長)としての時間、ベルグソンの純粋持続である時間、マクタガードの実在しない時間などがある。
時間について考える時、問題となるのは、時間が実在するかどうかという問題である。時間が存在するかと問われれば、時間は存在する。存在は主観的でも想像でも構わない。しかし、時間は実在するかと問われた場合、簡単に答えるわけにはいかない。実在性とは、主観的観念・想像とは独立な、客観的・現実的な在り方であり(広辞苑)、厳密には本物性、独立性、全体性、無矛盾性(「時間は実在するか」入不二基義著:講談社)などを満足するものでなければならない。
哲学の分野では時間と呼ぶ概念は実在しないという結論を下す方向に向かって進んでいるように見える。その方向の極めつきがマスタガードの時間の非実在性の主張である。時間が実在しないという主張を認めるとどのような事が導かれるのであろうか。われわれが経験する変化や運動は、それ自身では静止しているが、われわれの意識の働きによって動いているように見せられているということである。われわれの意識がないところでは変化や運動は存在しない。それは例えれば液晶分子と電圧の関係、フィルムと映写機の関係などに当たると考えられる。
見方の力学
①見方の力学
見方を変えることによって、すべてのことが変化する。これは哲学的な命題ではなく、物理学的な命題なのである。第一に「われわれはすべてのことを知っている」。第二に「すべてのことに判断を加えてはならない」。これらの見方は学校でも教わらないし、親にも教わらない。それどころか、われわれはこの命題の逆のことを教えられてきた。つまり、「われわれは何も知らないから勉強しなければならない」「すべてのことを速やかに判断しなければならない」と。しかし、私は言う「われわれはすべてのことを知っている」「すべてのことに判断を加えてはならない」と。このことによって、どのようなメリットがあるのだろうか。「われわれはすべてのことを知っている」という宣言によって、われわれはすべてのことを知ることになる。「すべてのことに判断を加えてはならない」という行為によって、すべてのことを制限することなく平等に見ることが出来る。
[注:この見方は社会生活を超越する為のものであって、社会で成功する為のものではない。]