『下町の赤ひげ逝く』 No.397 2月15日発

【めしを食わずに患者を診る男】

　彼は、とにかく患者を診るのが好きだった。急患が飛び込んでくると、食べ始めた夕食を中断して、患者の治療に没頭する男だった。

　たちまち下町の赤ひげとして尊敬を集め、彼の病院はいつも彼の診療を求める患者であふれていた。

　同業者の我々医者の目から見ても、その診察光景は頭が下がるほど丁寧で、どこまでも患者に寄り添うという熱気が、側で見ていても肌で感じられたものだった。

　だが診療のムリがたたったのか、70半ばで脳梗塞で倒れ、長い闘病生活の末に召される日がやってきた。

【「薬半分、医療半分」が彼の合言葉】

　彼が旅立つ日、不運にも体調を崩し駆けつけることが出来なかった私は、弔電で彼の人生を、参列した多くの人々に訴えた。その言葉が、彼の人柄や赤ひげとしての存在を永久にみんなの心に残す、と信じて疑わなかったからだった。

　弔電

「先生！あまりにも早過ぎる旅立ちの報に接し、無念でなりません。

　先生は、私にとってはかけがえのない心の宝石です。その存在を失ったことに涙を禁じ得ません。先生の面影と共に、終生忘れることのできない言葉があります。

　それは、先生がいつも口にしていた「医療は薬半分、心半分」という含蓄にとんだ言葉です。

　先生の凛とした白衣姿を思い出すたびに、この言葉はいつも胸に響いてきます。もう一つは、先生を慕って訪ねていく患者さんたちの言葉です。診察室に入ると、白衣姿の先生に後光が指して見えて、思わず心の中で手を合わせてしまうというのです。

　先生ほど医療が好きで、患者に優しい医師は、他に覚えがありません。

　先生にとって、白衣を纏うことは天職だったのだと思います。医師としての人格、医療の技術に関しては、私はその千分の一にも及びませんが、先生の学兄としての見識を慕いながら、残された人生を生きたいと思います。

　先生の最後の電話は、ひと月前でしたね。殆ど声を出さずにいる先生の息遣いの中に「会いたいねェ、昔話がしたいねェ」というつぶやきがはっきりと聞こえてきました。

　それにも拘わらず、旅立ちの枕元に駆けつけることが出来なかったことをお許しください。でも私には、先生が永遠に旅立つとはとても信じられません。いつまでも側にいて、叱咤激励をしてくれるものと、勝手な我侭（わがまま）ですが甘えたい気持ちでいっぱいです。

　私にとって先生は、永遠の師であり、かけがえのない友人であり、そして兄弟以上の仲だと思うと、とても先生の存在感を忘れることはできません。どうぞ、先生の親類の末席にいつまでも置いてください。そして時々当直室のドアを叩き、今迄と同じように助言をして、人生の道標（みちしるべ）になってください。

　長い闘病生活で、ほんとうに疲れたことと思います。少しゆっくりと休まれて、また夢の中で昔話をしましょうネ。」

【美幌峠（びほろとうげ）に残る友情の歌碑】

　ご縁があって、美空ひばりさんが歌った『美幌峠』の詞を私が書いてから40年程経っている。その出来上がったデモテープを彼女に聞かせたのは、主治医の彼だった。

　その時は、点滴をしながら、じっと聞いているひばりさんが、その詞にどんな印象を受けたかハラハラしながら伺っていると、出されたコーヒーカップがカタカタ音を立てるほどふるえた、という。

　それがきっかけで、ひばりさんは『美幌峠』を吹き込むことになった。

　その二人の友情は、美幌峠の霧の中で歌碑と共に今も固く結ばれている。

東スポ　男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より