お父さん死んでください No.389 1月27日発

　脳梗塞で倒れた55歳の男性患者が、入院してきたのは、寒さがめっきり強くなってきた初冬の頃だった。
　運送業の会社に勤める彼は、長距離のトラックの運転中に発症し、そのまま地方の病院に収容された、という。
　梗塞の病巣は、かなり広範囲で絶対安静が必要な状態だった。意識も時折、昏睡状態に陥るという危険な状態が続いていた。
　それから二カ月、収容された病院で治療を受けてから、容態が少し安定したところで東京の病院に移送された。
【半年後に再発作】
　その後、脳梗塞の再発作を起こし、梗塞の病巣はさらに拡大、ほとんど植物状態になって昏睡が続いていた。
　当院に転院してくる時の紹介状には、「回復の見込みがほとんどなく、余命三カ月」と書かれていた。この先は長期療養と看取りをお願いしたい、と添え書きがしてあった。つまり、前の病院でも、助けることは不可能、とみているようで、入院の時ついてきた家族の顔にも諦めの表情が浮かんでいた。
【お願いですから、これ以上の治療はやめてください】
　入院のキーパーソン（身元引受人）の奥さんは、まだ50代そこそこだった。毎日のように夫の容態を気遣って面会に来る。
　ある時、病室を出た奥さんが、見回りをしている病棟師長をつかまえて、声をおし殺して訴えた。
「もうダメですよね。来る度に悪くなっているような気がします。もう、これ以上、あの人を苦しめたくないのです。これ以上治療するのは止めてください。」
「奥さん、大丈夫ですよ。今は、呼びかけても反応しませんが、時折目を開けることがあるのです。ですから、気を落とさないで頑張りましょう。」
　師長がそう答えると、彼女は首を左右に強くふり、「少し話を聞いてほしい」と目を潤ませた。それから小一時間、彼女は切々と家庭の急迫した状態を打ち明けた。
　高校に通う二人の息子がいることや、住宅ローンがまだ相当残っていること、それに、そろそろ傷病手当が底をついてきていること、などを打ち明けて、これ以上、今の状態が続くと経済的に破綻をしてしまうので、子供の将来を考えると夫の生命保険を当てにするしかなくなった、と言って顔を両手で覆い泣き始めた。
【死亡保険の受け取りには奥の手がある】
　奥さんと別れた後、師長は、すぐ事務長に相談すると、次のようなことがわかった。
『ローンの名義人が死亡したり、高度障害状態になった場合には住宅ローンの残高と同じ金額の保険が支払われる。』
　一方、生命保険については『高度障害状態に陥った時には、生命保険と同額の保険金を生存期間中に受け取ることができる』
　すぐ、その情報を奥さんに伝えると「これでほっとしました。」と言いながら、師長の手を握りしめて泣きじゃくった。
「あまりの将来の不安に、私、気が動転していました。もう、治療はしないでほしい、と言ったことは忘れてください。ほんとうは、主人にはたとえ意識が戻らなくても生きていてほしいのです。でも、子供の大学進学や、ローンの支払いのことを思うと、ほとんど毎晩眠れないの。でも将来の資金繰りの心配をしなくていいとわかって、師長さんの顔が女神に見えてきました。」

　その言葉に、師長も思わず、奥さんを抱きしめ背中をさすりながら、目を潤ませた。

東スポ　男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より