君は漁火のごとく今も輝く No.388 1月25日発

　鹿児島の医専を出てから、北の大地に魅力を感じ、インターン（今の研修医）を釧路の病院で行うことになったことから、彼の人生は大きく変わった。
　インターン生活が終わった頃、知床半島の無医村で、医者を募集していることを知る。
　北国に来た以上、流氷の押し寄せる光景を一度は見ておきたい、と思い応募したのがきっかけで、赴任した人口３千そこそこの村で、それから20年近く、医者が居着かない診療所で村人の命を助けるために、夜は枕元に電話を３台も置き、急患の往診依頼におちおちと寝てもいられない生活を強いられることになった。
【病気になったら医者に診てもらうより、寺の住職に相談したほうが早い】
　当時の村の医療は惨憺たるもので、いくら医者がいないからといって、いざ、という時に獣医さんや、病気をトランプで占う患者たちからトランプ医者と呼ばれた医者が、白衣を着ている状態だった。
　村人は、家に病人が出ると、葬式の相談を始めるほど医療には見切りをつけていた。
　そんな村では、新米の医者の彼が神様のような存在になるのに、そう時間はかからなかった。
　赴任してから1年間に、80例もの盲腸手術を手がけた。
　５年も経つとすっかり腕を上げ、村にとってはかけがえのない医者として、村人の信望を一身に集めていた。
　知床半島と国後島に挟まれた根室海峡は、彼の期待を裏切らなかった。冬は、一夜にして流氷が海峡に流れこみ、海を真っ白に染めてしまう。また、春になるとニシンが群来（くき）てきて産卵をし、海岸から沖合まで海の色が見事なほどの灰白色に変わる。その光景に、往診の帰りにしばしば足を止めて見とれるほどだった。
【再度研鑽を積み神様は戻ってきた】
　その後、彼は札幌の大学へ６年近く籍を置き、外科を学び直し、博士号を取って村に再び戻ってきた。
　外科医として腕を上げた彼の元には、連日患者が押し寄せ、彼の手から聴診器とメスが離れることはなかった。同じ僻地医療に情熱を燃やして赴任してきた、彼の片腕となった看護師と、やがて所帯を持ち、目の回るような多忙を極める生活の中でも、いくらか心に安らぎが生まれてきていた。
　その矢先、彼は思わぬ大病におそわれた。
　恐らく、休みなく患者の治療に追われる日々の生活と、たった一人しかいない村にとってはかけがえのない存在になった緊張感からくるストレスが、彼の体を知らず知らずの内に蝕んでいたに違いない。
　ある、冬を間近に控えた晩秋の肌寒い日だった。彼は口から大出血をしてしまうことになる。胃十二指腸潰瘍による吐血だった。
　彼一人しかいない村の診療所では、手の施しようがなく、必死に介護にあたる妻の看護師でも処置は無理だった。
　緊急の知らせに村長は、すぐ自衛隊にヘリコプターの出動を要請。彼を札幌まで緊急搬送することに決めた。
　瞬く間に、その知らせに駆けつけてきた村人は、ヘリコプターを取り囲み、彼の容態を気遣っている。いよいよ飛び立つ時、「先生、死なないで。生きて帰って来てね。」村人たちの絶叫する声の中で、奥さんに付き添われた彼は飛び立っていった。
　懸命の回復処置が行われたが、彼にはもう二度と僻地の医療に携わる体力は残っていなかった。
　今でも彼は、知床の人々の心の中で漁火のような光を放ち、慕われ尊敬され続けている。

東スポ　男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より