この世で一番美しい花瓶 No.387 1月23日発

　Tさんの奥さんは、すでに78歳で天国へ召されていた。二人が元気なころは、年金が合わせてひと月15万円ほどあったので、家は借家で毎月賃料は5万円ほどかかったが、何とかやりくりして払い続けてこれた。しかし、今年85歳になったTさんは一人になると、年金はひと月8万円に目減りしたので、とてもその家賃を払い続けることは困難になってきた。
【入院費と家賃の支払いで苦悩が増大】
　Tさん自身、妻が亡くなった後、脳卒中で倒れた。奥さんの死と重なってめっきり気弱になり、見舞いに来る友人達も心配そうにして顔を曇らせて帰って行く。入院が長引くと入院費が大きな負担になってきた。多少の老後の資金は蓄えていたが、毎月収入より支出が多くなると、通帳を開くことも憂鬱になってきていた。やはり、入院をしていて家賃を払うことは無理なのかもしれないと思うと、思わずため息が出てしまう。
【家賃の負担分は結局放棄】
　しかし、Tさんは、長年住み慣れた住宅を解約するのはなかなか踏ん切りがつかなかった。なぜなら、借家には、まだ妻の遺骨や位牌がそのまま安置されている。できれば、そっとそのままにしておきたいという気持ちが強かった。

　しかし、入院が半年を過ぎるころ、Tさんは自分の病状が決して良くないことを自覚するようになり、やむを得ず、借家はやはり諦めるしかないと思いはじめた。ただ二人が元気なころ、長年かけて集めた趣味の骨董品の中には、どうしても処分できない想い出の品があった。思案の挙句、彼はすっかり自分の娘のように親しくなった病棟師長に、こんな話を持ち掛けた。

「師長さん、実は家に手放せない有田焼の花瓶があるんだけれど。ここを私の終の住処に決めたから、私がいなくなった後はどこかに飾って、バラの花でも入れてくれないかなあ」

　そう話すTさんの懇願するような表情をみつめていると、師長は嫌とは言えなかった。その数日後、Tさんは歩けるうちに部屋を片付けたいと言って、手伝ってくれる友人と一緒に出掛けていった。そして、花瓶をいかにも愛おしそうに抱きかかえながら戻ってきた。Tさんがこだわるだけあって、実に美しい色合いの有田焼だった。その花瓶は枕もとの床頭台の扉の奥に保管することにした。
【花瓶は永遠に二人の愛を残して…】
　それから２ヵ月後、容態が急変。身寄りのないTさんは、師長たちの取り囲む輪の中で天国へ召されていった。

　出棺の日がやってきた。師長は床頭台の扉を開け、見事な絵柄の花瓶を取り出し、彼の冷たくなった腕にそっと抱きかかえさせた。その様子を見ていた私は、最後の合掌をしながら、「花瓶の中の奥さんを直接抱かせてやりなさいよ」というと、師長は目にあふれる涙を拭こうともせずに、「先生も知っていたのね、じゃあ、いっしょに天国へ送りましょうね」と大きく頷いた。

　しかし、花瓶はいくらTさんが望んでも、棺に納めることはできない。やむを得ず、花瓶の中の奥さんの喉仏（のどぼとけ）を彼の懐に忍ばせて出棺することにした。残された花瓶は、待合室の鍵のかかる書棚にバラの造花を入れて飾り、奥さんの残りの遺骨は、知り合いの住職にお願いしてお寺に安置してもらうことになった。いずれ二人の遺骨は永代供養をしてもらうことにお願いした。

　今となっては遺品となった、その有田焼の花瓶を見つめていると、旦那さんが愛おしそうに抱いている姿を思い浮かべ、私も師長も思わず手を合わせてしまう。そして、仲の良かった夫婦が、有田焼を買い集めた頃の元気な姿を想像して、思わず目頭が熱くなった。

東スポ　男の羅針盤「男の生き方、男の死に方」編より