第9回 アムステルダム大会 <1928年5月17日~8月12日>
日本人初の金メダリスト誕生
小雨模様の中で行われた陸上・三段跳びで、織田幹雄選手が15メートル21という記録で見事に金メダルを獲得。日本人で史上初の金メダリストとなりました。また同じ競技に出場した南部忠平選手も4位に入賞しました。 >また、この大会ではそのほかの種目でも日本人選手が大活躍。印象的なメダリストを紹介しておきましょう。
人見絹枝選手/陸上・800メートル/銀メダル
当時、100メートルの世界記録保持者であった人見選手。期待された100メートルでは準決勝で思わぬ敗退。急きょ800メートルへの出場を決め、見事に銀メダルを獲得したのです。
鶴田義行選手/水泳・200メートル平泳ぎ/金メダル
2分48秒4のオリンピック新記録で優勝。日程が三段跳びよりも6日遅れだったため、日本人金メダル第1号とはなれなかったのです。また、水泳では800メートルリレー(男子)で銀メダル。100メートル自由形で高石勝男選手が銅メダルを獲得しました。
第一次世界大戦で第6回ベルリン大会は開催不能
第6回大会は1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし直前に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパは戦火に包まれました。そんな状況の中、ベルリン大会の開催は不可能になったのです。
戦争が終わった翌年、クーベルタンIOC会長は5年ぶりにIOC総会を召集。1920年に開催されるべきオリンピックの開催地を決めることが大きな議題でした。ヨーロッパの国はどこも戦争の深い傷跡を残しており、とくにベルギーも大きな被害を受けていたのですが、IOC総会では、あえてそのベルギーのアントワープを開催地に選びました。
「平和の祭典」をプレゼントすることで、喜びを分かち合おうとしたのです。
ベルギーの国民はその期待に応えて盛大なオリンピックとなり、第7回アントワープ大会は史上最高となる29ヶ国から2,668人の選手が参加して、23競技161種目が行われました。
日本人初のメダリストはテニスの熊谷一弥選手
2回目のオリンピック参加となった日本。陸上競技や水泳などではまだ世界との力の差があったのですが、テニスに出場した熊谷一弥と柏尾誠一郎の活躍が注目されました。シングルでは熊谷が銀メダルを。またダブルスでも熊谷と柏尾のペアで銀メダルに輝いたのです。
第5回 ストックホルム大会 <1912年5月5日~7月22日>
近代オリンピックの基礎が確立
オリンピックが各国内のオリンピック委員会ごとの参加となったことで「国とは何か」を改めて問うことになり、第5回大会開催に当たっては、さまざまな問題がありました。しかし、スウェーデンのバルクIOC委員は「IOCの認めたスポーツ領域は、政治上の領域とは異なる。オリンピックには政治上の領域に関係なく独立して参加する資格がある」と強く主張。着々と近代オリンピックの理想が確立されていったのです。この大会には28の国と地域から2490人の選手が参加。15競技108種目が行われました。
日本がオリンピックに初参加
1909年5月、クーベルタンからの呼びかけによって嘉納治五郎(当時、東京高等師範学校=のちの筑波大学=校長だった)がアジアで初めてのIOC委員に就任。ストックホルム大会への参加に向けて大日本体育協会を創設しました。
1911年11月18日、19日には日本で初めて国内選考会が開催され、短距離で優勝した東京帝国大学の三島弥彦と、マラソンで世界最高記録を作って優勝した東京高等師範学校の金栗四三の2人を日本代表としてストックホルム大会に参加したのです。
競技の結果は、世界の壁を痛感するものでした。短距離の三島選手は外国選手との体格差の前に100メートル、200メートルともに予選最下位。400メートルは予選通過したものの疲労のため準決勝を棄権しました。期待された金栗選手は炎天下のレースにもかかわらず外国人選手の無理なペースに合わせて走ったために32キロ過ぎに日射病で倒れてしまったのでした。