なにやら

尾崎豊の歌のようなタイトルですが。

 

昨日アップした記事に

もう少し補足してみる。

 

ここにいて良いのかな。

存在してて良いのかな。

生きてて良いのかな。

 

の裏側では、

 

自分の居場所

自分の世界を創りたいのに

 

その度胸もなく

誰かの居場所で、誰かの世界で

ああだこうだ文句言ってただけだった。

 

誰かのグループに属し

家族に属し

会社という組織に属し

 

思ったようにならないとき

拗ねて、いじけて

 

「ここは私の居場所じゃ無い」

 

なんて言い出す。

 

おえ笑い泣き

なんかめっちゃ嫌な奴じゃん。

 

そうだよ。

会社は、経営者の

学校は、国や役所の

家族は、親の

グループは、リーダーの

 

それぞれの方針に沿って進んでいく。

それが組織ってもん。

 

嫌だったら離れたら良い。

それだけのこと。

 

何が嫌なのか

どんな違和感を感じるのかは

覗いてみる価値はあるけど

 

そこで

居場所が無い

ここに居る価値がない

って、自己憐憫に陥って・・・を

繰り返してる場合では無い。

 

もちろん

そんな時期があったって良いけど

 

だから、どうしたい?ニコニコ

 

は常々、問うていく必要があるよね。

 

 

 

まだ小さい頃は

何かできてたら良しとされ

役に立たなくちゃいけなかった

状況だったのかもしれない。

 

期待に応えたかったし

喜んで欲しかった。

笑顔が見たかったのだよね。

 

今は、もう大人だから

自分で居場所を創れる。

 

大切な誰かのために

我慢をすることだってあるけれど

それは自分で選べる。

 

楽しんで生きていって良いのだ。

 

私、ネガティブ出身だなーって思うわ。

楽しむことがほんと苦手。

 

でも今やっと

スタートラインに立てたような気がするよ。

 

長かったなぁ。

 

 

昨日の記事。

 

 

 

 

 

身体の感覚を大切にして

毎日いろいろあっても

笑って過ごせる

そんな場所を創りたい。

 

それを拡大させたい。

 

食・食べることは、

常に私と一緒だった。

 

食い意地が張ってて

食いしん坊なのもよかった。

 

料理するのも、食べるのも好き。

 

食べたいという欲求は

どういうメカニズムから発生するのか。

 

生きていくための栄養だけなら

動物と同じだけど

人間は迷いながら選ぶ

錯覚するのが面白い。

 

大切な人と一緒に食べると、より美味しく感じたり

外からの情報で選んでみたり

(高いから美味しいはず、とか。

 

なんせ、美味しい!は、幸せ。

自分の人生の羅針盤でもある。

 

身体に良い悪いで選ぶより

美味しいかどうかで選ぶ。

 

そういう身体の基本を創るのには

やっぱりダシのうま味は必要。

 

自分を信じるって

身体を信頼してるってことなのかなぁって

思うの。

 

そんな話をしていく場所。

 

 

 

 

そのためには何が必要だろう。

何を辞めれば良いだろう。

 

辞めれば良いこと。

⇒普通でいようとすること。

 

何が必要だろう。

⇒勇気。

 

ってか、普通ってなんだろうね。

 

普通は

マイルール。

信じてること。

こうすべき。

 

これはみんなの頭にあって

脳内で創られている。

 

それぞれ違うからおもしろい。

 

 

 

普通じゃないのに

普通でいようとするから

おかしなことになる。

 

充分に普通じゃ無いのにね爆  笑

 

味噌にしたって、買う人がほとんどなのに

米麹から家で仕込んでる時点で

普通じゃ無い

 

ダシにこんなに執着してる時点で

普通じゃ無いし

 

借金があってもヘラヘラしてる時点で

普通じゃ無い

 

親との関係が良好じゃなくても

幸せ。

 

普通をぶっ壊していくには

どこまで自分を許してあげられるか。

だけ。

 

ツシマミチコ