いつからそう感じていたか
思い出せないくらい
 
どこにいても
誰といても
 
ここにいてもいいのかな。
 
ここには
私の居場所はない。
 
そう思って生きてきた。
 
そう思ってることが
当たり前だと気づかないくらい
 
誰もがそう感じてるのだろうと
疑ったこともないくらい
 
わざわざ口に出すまでもないくらい
 
根深く感じていた。

幸い、元々が
1人でいるのが平気な性分だったせいか
 
ここに自分の居場所はない。
ここに私は居てはいけないような気がする。
 
と察知すると、離れる力は持っていた。
(一匹狼の星回りらしい爆  笑
 
でも、やっぱり寂しくて。
 
若かりし頃
誰かと一緒にい続けられることが
自分の居場所なのだと信じていた。
 
でも、それも違った爆  笑
 
あれ?違ってるかも!
と気づいたのは、結婚して出産してから。
 
 
やっぱり
ここにいてもいいのか。
 
私の居場所はないって
思ってしまう。
 
1人じゃ無いのに。
支え合える家族もできたのに。
 
おかしいな滝汗
 
ええ歳して、忙しくなっても、母になっても
もがく日々は終わらない。
 
そんな中で
食に、心理に、レイキと出逢った。
 
ダシと中国茶を学び。
レイキ、カウンセリングや心理学を学び。
 
 
ここにいていい。
私は、私のままでいい。
 
の意味がやっとわかった。
 
 
私は、私のまんまで
存在していてもいい。
 
誰かの役に立たなくても
存在していてもいい。
 
何も持ってなくても
存在していていい。
 
何かできなくても
生きてて良い。





ずいぶん昔
心理学の師匠に、この疑問をぶつけたとき
「それは復讐だね」と言われた。
 
私は私のままでいます。
何か文句でも?
 
私がこんな風に感じるのは
あいつのせいだ。
 
そういう部分もあったと思う。
 
でも今は、
ちょっとニュアンスが変わってきてる。
 
ずっと不安で恐かったのに
突っ張って拗ねてただけだった。
 
ずっと抱えてた疑問
 
私、ここにいてもいいのかな。
 
 
私、存在していてもいいのかな。
生きてても良いのかな。
 
という意味だった。
 
ボケナスでも良い。
誰の役に立たなくても
存在していてもいい。
 
 
自分の肚に落とし込むために
体感したかったがために、もがき得たもの。
 
それがわかったとき
 
なんだそーだったのかポーン
 
シンプルすぎて
力抜けた。
 
上下を作り
良い悪いのジャッジを作り
価値の有る無しを作り
 
そこまでして得たかったのは
自分という無価値感の塊から避け続けること。
 
価値のあるなしは
誰かの役に立つかどうか
できるかできないか
持ってるか持ってないか
 
とかとか。
そんなもので判断できるはずがない。
 
 
私は、ここにいる。
確かに存在している。
命が尽きるまで生きてて良い。
 
 
見つけた答えは、
言葉にするとあっさりしたモノだけど
 
盛大にあがいていたと、今になって思う。
 
 
完全な1人劇場だけど
もがいて得たものは、とても大きかった。

 
ナリ君のブログ、とっても響いたよ。
そうとう長い期間、パニックだったなと思うもん。
 

と言っても
今でも、ここにいていいのかな?
は、たまーにやってくる。
 
私の責任でこうなったんかな。
って、落ち込んだりもする。
 
まあこれも仕方ない。
 
波なんで
そういうときもある。
 
感情は揺れ動くもの。
 
 
そんな時は、
ダシや中国茶、レイキを使って
自己肯定感をじわじわと感じる。
 
言葉と体感が大切。
 
歌も良いよね。
 
 
ここにいていいのかな?
って感じたとき。
 
聴いてみて欲しいな。
 
米津さんのカナリアは
全部包み込んでくれる。
 
泣くよ笑い泣き