本日の勉強会は、私の個人的な企画によって実現した勉強会であり、看護部長をはじめ、多くの人たちの協力によって実現したことに、まず感謝を申し上げたいと思います。それと同時に、私は皆さんに謝らなければならないとも感じています。なぜならば、これから私は、私たちのグループを批判します。そして、私たちの施設を批判します。また、皆さん方を批判します。そして最後に、今日の自分自身のあり方について批判をするからです。
私は今年の4月より、一般棟のΒチームを任されることになりました。主任としての責任を全うしようと努力する中で、私の内面にはある疑問が生まれ、その疑問が日に日に大きくなり、強烈な危機感にまで発達することになりました。今日はぜひ、皆さんにも私の中に生まれた疑問を共有して頂きたいと思います。皆さん静かに目を閉じて、自らの胸にこう問いかけてみてください。
『入職して3年目の一般職が、ここでは今以上の成長が望めないから、他の施設で自分を磨きたいと訴えられた時に、私たちはそれに反論できるだろうか?』
あらゆる戦略には、人材が不可欠です。どれだけ高尚な理念も、それを実践する人材がいなければ、ただの文字の羅列に過ぎないわけです。けれども、その貴重な人材を繋ぎ止める魅力が、自分たちに備わっているとは到底思えない。例え何の改善も見せなくても、経営という視点においては、事業は継続できるのかもしれません。けれども、私たちのモチベーションを維持するために重要な、企業の成長という意味において、私たちは重大な危機を迎えていると感じているわけです。
なぜだろうか?考え出すと様々なほころびが見えてきます。けれどもそのあらゆる欠陥は、たったひとつの致命的な欠陥によって生み出されていることが、突き詰めて考えると見えてくる。いったいそれは何か?キーワードは情熱です。
グループが主催する研修の中で、私たちは世間の流れについて学びます。今後の介護はこうあるべきだと、世間の先端に追いつこうと躍起になっています。言い換えると、私たちのグループは、世間が生み出した成果の後追いをしているわけです。なぜだろうと、私は疑問を持ちながら研修に参加します。私たちが本気になって、自らの持つグループメリットと可能性を最大限に活かそうとするならば、私たちは時流に乗るのではなくて、時代の流れを作る側になれるのだと、私は確信しています。けれども、どのような研修に参加しても、そうした情熱を感じることはありません。
はたして私たちの施設は、あるいは皆さん自身は、自らが持ちうる可能性を最大限に発揮していると言えるでしょうか?利用者により良い生活を送ってもらうために、スタッフが何かしらの提案をした時に、それが過去の習慣に照らし合わせて不都合があるからといって、安易に諦めることをしていないでしょうか?より良い提案と、過去の習慣がぶつかり合った時に、変更されるべきなのは、提案ではなくて習慣の方だと私は思います。それがマニュアルであれ、システムであれ、未来への活力を阻害する要素はただちに変更されるべきだと私は思うのです。けれども私たちは前例にしがみつく。過去に築かれた仕組みを忠実に守ることが、自分たちの仕事だと思い込む。それが偏った習慣であるにも関わらず、それまでの経験則からはみ出さないことが、利用者や自分自身を守る術だと信じている。
過去の習慣に縛られて、挑戦をためらう姿勢が、いったい何を生み出しているのかを、もう一度皆さんの胸に問いかけてほしいと思います。そこに遣り甲斐もなく、眼を見張る成果もなく、成長もなく、ただ代わり映えのしない業務だけが山積みになっている。もしもその事実を皆さんが受け入れるならば、この場で新しいスタートを切ることを約束しましょう。世間ではビジョンの重要性が叫ばれていますが、情熱なき場所にビジョンは存在しません。自らの本業に対する情熱こそが、斬新なビジョンを形成し、課題を鮮明にして、様々な挑戦を生み出していく。そしてその繰り返しにこそ、個人の可能性が掘り起こされ、確かな成長が育まれていくという事実を、素直に受け入れましょう。
さて、次に講師による講義に移りますが、私たちの情熱が、どこに向かうべきかを示唆する内容になっています。ご本人も自覚している通り、講師もまた学びの途中でありますが、今までの私たちにはなかった新しい視点とフィールドを提供してくださる事と思います。今回の講義が、皆さんの新しい可能性の発掘に繋がることを期待しています。
自宅に贈っていただいた著作を、拝読させていただきました。本来ならば、無視されても当然の無名の介護士に対して、温かな配慮をみせてくれた貴方に、心が震え、大きな感動を味わいました。実は、一度はお礼の手紙を書き終えたのですが、伝えたいことがありすぎて、量が膨大になり、文才の無さから、自分で読み返してもしっくりこないところが多い。そこで今、こうして、手紙を書き直しているところです。
僕たちの職場というものは、目の前の利用者を解釈する時に、どこかで現在の状況から変更不可能な存在として捉えているところがあると思います。言い換えれば、私たちにとって、利用者は可能性を失った『灰色の老人』であって、こうした解釈により、知らずうちに利用者との関係性が構築され、実質的なサービス内容が決定されて、利用者の矮小化された生活が作られていく。けれども、そうではないと、力強く貴方は訴える。『利用者は無色透明の存在ではなくて、それぞれに様々な色彩を放っているではないか…』と。その声が、僕のような人間には大きな励みになるのです。
貴方に向けられた非難が、どういった内容なのかは僕には分かりませんが、少なくとも、『矛盾』に関連した非難があるとするならば、それは気にしなくても結構だと思います。
介護士として、利用者の可能性を最大限に引き出すケアを実践するためには、まずは、その人を肯定的に解釈する必要があります。けれどもそれは、介護観や老人観といった言葉でひとくくりにできるものではなくて、利用者ひとりひとりに対して、肯定的な解釈を個別に作り上げていかなくてはなりません。こうした思考過程を、僕は勝手に『価値創造』と名づけているのですが、深いところでは一貫した姿勢を保っているはずなのに、表面的には利用者によって違うことを言うのだから、他のスタッフからは、貴方は矛盾したことばかりを言っていると突っ込まれることになります。けれどもそれは、サラッと流せば良いことだと思います。
書きたいことが山ほどあるのですが、言葉として表現しようとすると、どうも整理がつかない。無理に言葉にして誤解されても哀しいので、少しずつ整理をしながら、貴方に伝えていきたいと思います。その意味では、この手紙を読み終えた時が完結ではなくて、むしろ序章であると理解してくだされば嬉しいです。
貴方への感謝を伝えるためには、自分の立場や状況。あるいはこれまでの歴史について説明しなければならず、とてもここで書ききれるものではありません。そこで、宮沢賢治じゃないけれど、印象的に表現したいと思います。
僕の前には、荒涼の大地が広がっていて、まるで人間味を感じさせない、荒れた風景が空間を支配している。何とかしたいと、僕は考える。けれども、目前をどれだけ見渡してみても、相談する相手もなく、協力者も存在しない。単独で苦悩を背負い、迷い続けながら、少しずつ、自分の設計図を描いてきました。けれども、本当は独りではなかったのです。僕はそれまで、自分の前方しか見ていませんでした。けれども、耳を澄ませば、背後から音が聴こえてくる。そこには貴方がいて、すでに立派な設計図を描き、建設に着手していたのです。独りではないという喜び。それは言葉では言い表せないほどの大きな感動でした。貴方の手のひらは、何と心強くて広いのだろうと、僕は今、それを感じて、味わい深い幸せを噛み締めています。
最後に、価値創造について、自分なりに考えた一例を、言葉にしたいと思います。認知症を抱えた高齢者は、機能障害を背負っていて、様々な不安に苛まれていると、これまでに自分が受けてきた認知症の研修では、共通してこうした不安心理を理解することが、適切なアプローチをするために必要な知識であるという風潮を、全面に押し出していました。けれども、僕はこれを真っ向から否定したいと思うのです。
認知症を抱えた高齢者は、記憶や見当識が障害されて、生活に様々な支障が来される。これは確かな事実でしょう。けれども、だからと言って、記憶が保持され、それなりに確かな見当識を持つ私たちが、必ずしも健全には生きていない。記憶があるからこそ、過去にとらわれて、未来を台無しにする人もいる。見当識が確かで、自分の方に正当性があることを理解しているからこそ、遅刻してきた相手を許せないこともある。僕のような小心者の人間は、いつまでも過去を気にして、クヨクヨする傾向が強かったのだけれども、忘れることの重要性を利用者から学んで、ずいぶんと人生が楽になり、未来を構築するために集中できるようになってきました。
自分の人生において、利用者は実質的に確かな意味を持ったのです。それは研修で口を酸っぱくして言われるような、中身の伴わない『尊厳』などではありません。確かに利用者は僕を救ってくれた。その実感が、利用者を見つめる僕の認識において、確かな光が帯びてくるのです。
僕たちの職場というものは、目の前の利用者を解釈する時に、どこかで現在の状況から変更不可能な存在として捉えているところがあると思います。言い換えれば、私たちにとって、利用者は可能性を失った『灰色の老人』であって、こうした解釈により、知らずうちに利用者との関係性が構築され、実質的なサービス内容が決定されて、利用者の矮小化された生活が作られていく。けれども、そうではないと、力強く貴方は訴える。『利用者は無色透明の存在ではなくて、それぞれに様々な色彩を放っているではないか…』と。その声が、僕のような人間には大きな励みになるのです。
貴方に向けられた非難が、どういった内容なのかは僕には分かりませんが、少なくとも、『矛盾』に関連した非難があるとするならば、それは気にしなくても結構だと思います。
介護士として、利用者の可能性を最大限に引き出すケアを実践するためには、まずは、その人を肯定的に解釈する必要があります。けれどもそれは、介護観や老人観といった言葉でひとくくりにできるものではなくて、利用者ひとりひとりに対して、肯定的な解釈を個別に作り上げていかなくてはなりません。こうした思考過程を、僕は勝手に『価値創造』と名づけているのですが、深いところでは一貫した姿勢を保っているはずなのに、表面的には利用者によって違うことを言うのだから、他のスタッフからは、貴方は矛盾したことばかりを言っていると突っ込まれることになります。けれどもそれは、サラッと流せば良いことだと思います。
書きたいことが山ほどあるのですが、言葉として表現しようとすると、どうも整理がつかない。無理に言葉にして誤解されても哀しいので、少しずつ整理をしながら、貴方に伝えていきたいと思います。その意味では、この手紙を読み終えた時が完結ではなくて、むしろ序章であると理解してくだされば嬉しいです。
貴方への感謝を伝えるためには、自分の立場や状況。あるいはこれまでの歴史について説明しなければならず、とてもここで書ききれるものではありません。そこで、宮沢賢治じゃないけれど、印象的に表現したいと思います。
僕の前には、荒涼の大地が広がっていて、まるで人間味を感じさせない、荒れた風景が空間を支配している。何とかしたいと、僕は考える。けれども、目前をどれだけ見渡してみても、相談する相手もなく、協力者も存在しない。単独で苦悩を背負い、迷い続けながら、少しずつ、自分の設計図を描いてきました。けれども、本当は独りではなかったのです。僕はそれまで、自分の前方しか見ていませんでした。けれども、耳を澄ませば、背後から音が聴こえてくる。そこには貴方がいて、すでに立派な設計図を描き、建設に着手していたのです。独りではないという喜び。それは言葉では言い表せないほどの大きな感動でした。貴方の手のひらは、何と心強くて広いのだろうと、僕は今、それを感じて、味わい深い幸せを噛み締めています。
最後に、価値創造について、自分なりに考えた一例を、言葉にしたいと思います。認知症を抱えた高齢者は、機能障害を背負っていて、様々な不安に苛まれていると、これまでに自分が受けてきた認知症の研修では、共通してこうした不安心理を理解することが、適切なアプローチをするために必要な知識であるという風潮を、全面に押し出していました。けれども、僕はこれを真っ向から否定したいと思うのです。
認知症を抱えた高齢者は、記憶や見当識が障害されて、生活に様々な支障が来される。これは確かな事実でしょう。けれども、だからと言って、記憶が保持され、それなりに確かな見当識を持つ私たちが、必ずしも健全には生きていない。記憶があるからこそ、過去にとらわれて、未来を台無しにする人もいる。見当識が確かで、自分の方に正当性があることを理解しているからこそ、遅刻してきた相手を許せないこともある。僕のような小心者の人間は、いつまでも過去を気にして、クヨクヨする傾向が強かったのだけれども、忘れることの重要性を利用者から学んで、ずいぶんと人生が楽になり、未来を構築するために集中できるようになってきました。
自分の人生において、利用者は実質的に確かな意味を持ったのです。それは研修で口を酸っぱくして言われるような、中身の伴わない『尊厳』などではありません。確かに利用者は僕を救ってくれた。その実感が、利用者を見つめる僕の認識において、確かな光が帯びてくるのです。
『出掛けよう』という外出支援を自施設でも行っているが、資金の面で家族の負担を増やすことはできないということで、いつも近場の公園ばかりに行っている。本音を言えば、資金面の課題ばかりではないだろう。障害を背負った利用者が、外出しようとすれば、公園辺りが無難であろうというスタッフの心理が、確かにそこにはある。
障害を背負うことで、利用者の内部には様々な諦めの感情が芽生えている。重度の片麻痺を背負った自分が、居酒屋で家族と酒を呑み交わすことなどもうないだろうと、自らの人生について、ひどく矮小化されたイメージを持って、頑なにそれを信じ込んでいる。そうではないと、介護士は叫ぶ。人生を諦める必要はない。介護士が貴方の半身を受け持つのだから、貴方は社会との接点を捨て去る必要はない。介護士という資源を活用することで、貴方は想いのままの人生を謳歌できるのだと…それを信じて、果敢な挑戦を続ける姿勢こそが、介護士の原点であり、外出支援の意義であろうと僕は思う。
けれども実際は、利用者が抱く矮小化されたセルフイメージと同じ視線で、介護士も利用者を見つめている。実際の利用者の可能性ではなくて、介護士のイメージによってケアが展開されて、利用者の生活はどこまでも縮小されていく。社会が利用者を拒絶しているのではない。利用者にとって身近な周囲の認識が、利用者を狭い殻に閉じ込めていることを、介護士は深く理解するべきであろう。
障害を背負うことで、利用者の内部には様々な諦めの感情が芽生えている。重度の片麻痺を背負った自分が、居酒屋で家族と酒を呑み交わすことなどもうないだろうと、自らの人生について、ひどく矮小化されたイメージを持って、頑なにそれを信じ込んでいる。そうではないと、介護士は叫ぶ。人生を諦める必要はない。介護士が貴方の半身を受け持つのだから、貴方は社会との接点を捨て去る必要はない。介護士という資源を活用することで、貴方は想いのままの人生を謳歌できるのだと…それを信じて、果敢な挑戦を続ける姿勢こそが、介護士の原点であり、外出支援の意義であろうと僕は思う。
けれども実際は、利用者が抱く矮小化されたセルフイメージと同じ視線で、介護士も利用者を見つめている。実際の利用者の可能性ではなくて、介護士のイメージによってケアが展開されて、利用者の生活はどこまでも縮小されていく。社会が利用者を拒絶しているのではない。利用者にとって身近な周囲の認識が、利用者を狭い殻に閉じ込めていることを、介護士は深く理解するべきであろう。
