私は当時福島で被災しました
あれからもう13年が経つんですね
震災当日のことは
今だにはっきり覚えていて
忘れられないですね
忘れちゃいけないとも
思っています
激しく揺れながら近隣の屋根瓦が
たくさん落ちてきた光景や
バリバリと音を立てながら
家屋の外壁にヒビが入っていく恐怖
上から落ちてくるものを
避けるために
会社の駐車場の真ん中に
社員が集まりるが
揺れで立っていられなかったこと
揺れがおさまって
自宅に帰るいつもの道路には
大谷石のブロック塀が倒れていて
車を停めて倒れたブロックを
路肩に寄せないと通れなくて
なかなか家に辿り着けませんでした
家の中はぐちゃぐちゃで
リビングのドアを開けると
当時飼っていた犬と猫が
私の姿を見るなり
走って抱きついてきました
2匹とも体がガタガタと
震えていました
その後すぐに帰ってきた息子と
近くの大きなドラックストアへ
買い物に行くと
たくさんの商品が床に落ちていて
閉店していました
近くのコンビニへ向かうと
お店の外まで人が並び始めた頃で
中に入ると商品がみるみるうちに
無くなっていくので
何でもいいから食べるものを
カゴに入れてたような状態でした
その時は手にしたものを
一度陳列棚へ戻してしまうと
他の人がすぐにカゴに入れてしまうので
迷っている暇はありませんでした
震度5近くの揺れが夜中も続く余震に
恐怖で一晩中眠ることが
できませんでした
夫の安否確認が取れず
携帯電話も繋がらない
夜中に顔を見に帰ってきた夫を見て
ホッとしたのも束の間で
すぐに夫は職場へ戻りました
地震被害だけでも
これから先の生活が不安なのに
福島は原発問題もあって
放射線という目には見えない
恐怖との戦いでした
国で発信している情報
地元で発信している情報
何が本当で何が嘘なのか
何を信じていいのかが分からない
こんな危険な場所に
子供達を置いてはおけないと思って
いる矢先に友人から
「子供達をこっちによこして」
と連絡をもらい
県外に住む友人に子供達を預かって
もらいました
本当にありがたくて
新幹線に子供達を乗せた時
いろんな感情が溢れて
涙が止まりませんでした
震災の時は
隣の栃木県の那須塩原までしか
新幹線が動いておらず
駅まで車で送っていく途中
国道をティッシュを両手に抱えた
お婆さんしか人の姿を見ませんでした
往復の道中にすれ違った車は2台だけ
夕方薄暗くなった帰り道
住宅群には灯りが3件しか灯いて
いませんでした
とにかく人がいなくなっていた
恐怖感しかなかった
宅急便も放射線の心配からか
福島から荷物を出すことが
できませんでした
地方は車社会
生活に欠かせないものだけど
車にも乗れなかったんです
1回の給油に10リッターしか
レギュラーガソリンを
入れてもらえなかったから
当時の我が家は
ハイオクガソリン車に
夫も私も乗っていました
この時の教訓で
今は燃費のよい国産車に
乗り換えました
震災時はまだ寒い時期なので
車で寝泊まりをしていた人が
練炭で暖をとり
一酸化炭素中毒で亡くなるという
痛ましいニュースを毎日のように
目にしました
我が家もガソリンを使わないために
夫も私も会社へは自転車や徒歩で
通勤をしました
夫は仕事柄福島を離れるわけには
いかなかったので
当時私が乗っていたステーションワゴン
の車に荷物を積んで
すぐに子供達のところへ行けるように
準備はしていました
あの時の空気感、におい、光景は
今でも忘れられない
緊急地震速報音は今でも苦手です
私は高校の時に水害で自宅が水没
した経験もしているので
震災の大変さは痛いほど
感じています
同じように震災にあっている人に
「大変だったね」
と軽々しく口にできないところも
正直あります
本当に大変だったから
震災から13年目を迎えた今日
こんなに穏やかで暖かい日を
過ごせることに
感謝しかないです
青い空と眩しい太陽
そこまでやってきている春を
感じながら
まだ寒さが残るキリッとした
空気感が心地いい
この日常を五感で感じられる
穏やかで豊かな時間が
とても幸せだな
これからもずっと続きますように
そして
たくさんの人達も穏やかな日常を
過ごせていますように