極楽とんぼ ~it's a blow~
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

父にまつわる不思議な話

早いもので 父が亡くなって半年以上が過ぎた…


喪中なので 年末恒例の餅搗きも 年賀状書きもなかったので 何だか忘れ物をした気分…

あまりにも味気なかったので 大晦日位はちゃんとやろうと【こづゆ】や【茶碗蒸し】そしてカニも用意した


家族3人で食卓を囲んだけど いつもその場にいた父を逆に思い出し 何とも言えない気持ちに襲われた

大好きだった茶碗蒸しやカニ…
お腹を空かせていただろうから たくさん食べさせたかった😭


そして 新しい年になったわけだけど やはり年賀状が届く楽しみが無いのは淋しいものだ


お雑煮は買った餅で作った

やはり家で搗いた餅とは何かが違い 物足りなかった気がした


それでも六日間 朝はお雑煮をきっちり食べてたけど😅



ずっとブログを更新してなかったこの間 細々としたいろんな事があった


こうして毎日生活して行く中で 父への悲しみも薄らいで行くのだろう

でも 忘れたくない事は書いておかなければ!と強く思う不思議な事があったので 書き記しておこうと思う‼️




あれは父が亡くなった翌日

亡き骸は離れの座敷に寝かされた

枕元には簡易的な祭壇が置かれ 線香や花 水や枕団子が供えてあった


一晩中線香を絶やしてはいけないので 父の側には息子が寝てくれた


夜が明け 様子を見に行ったら 息子がこんな事を言った


「夜中にウトウトしてたら足音がしたんだけど お母さんコッチに来たか?」


私はもちろん行ってないし 兄や主人に聞いても 誰も離れには行っていない


「確かに足音したんだよなぁ…」

と腑に落ちない様子だった


そしてまたその日の夜も 息子が父の側に寝た


翌朝

「夜中また足音したから『じいちゃんか?』って呼び掛けたら足音が止まった!」

「オレ ちゃんとしっかり起きてたから 夢とかじゃ絶対ない!」

「あれはシッカリとした足音で 何かと間違うような音ではなかった!」


興奮気味に息子が言った


「えぇ〜っ?…そうかぁ…じいちゃんはいつも夜中に家中の見廻りしてたから そうかも知れないな…」


私自身そうは言っても 自分が耳にしたわけじゃないから まだ半信半疑


それが【確信】に変わったのは次の出来事だ!


納棺が済み その日は手伝いに来てくれてた人や家族みんなで夕食を囲んだ


食べ終わり 一通りの片付けが済んだ時 息子とマコトくん(通称マコチン)が何やら興奮気味に話している


このマコチンと言うのは 姪っ子の旦那さん!

実はかなりの霊感の持ち主😅


マコチンの若い頃の話になるが 東京の街なかで信号を渡る時 向こう側に居る人が普通と違って見えたから 何だろうと思ってずっと見ていたらしい

そして 横断歩道を渡るすれ違いざま その人が

『お前オレが見えるのか?』

と声を掛けて来たそうだ😱


それがあってから 自分は霊が見える事を認識したのだとか!


詳しくは書かないけど 他にも霊にまつわる色んな話を聞いた事がある


普段のマコチンを見ていれば 話を盛るタイプでもないし ましてや作り話などもする人ではないので 私達みんな マコチンは【霊感】がある!と疑わない



その日みんなで夕食を食べていた時 誰かがマコチンの肩をトントン!と叩いたのだとか…

『ん?誰だ?』

と思って振り返っても誰も居ない…

席を立っている人もない…



たまたま姪っ子が撮った上↑の写真を見ると マコチンの右には娘達 左側にはお義姉さんがいて 背中側は空いている

「あ〜!じいちゃんが叩いたんだなぁと思って オレすごく嬉しかったです!」

そう語るマコチンに私は言った
「でも 父ちゃんが肩を叩いたりするイメージないけどなぁ…?」

するとマコチンが詳しく話してくれた

父は 姪っ子家族が遊びに来て帰る時
「おじいちゃんご馳走さまでした!また来ます!」
と挨拶すると
「また来いよ!」
とニコニコ笑いながら いつもマコチンの肩をトントン叩いていたそうだ

私はその場面を見た事がなかったけど 言われてみれば父は必ず玄関先まで見送りに出てたから 肩を叩いていたのもうなずける…


歳を取るにつれて いわゆる【霊感】は薄れて来た…と言っていた矢先の出来事だ


よく聞くのは《霊は自分をわかってくれる霊感のある人がわかる》という話

幸か不幸か霊感が全くない私に 例え父や母が側で何かメッセージを送っても 悲しいかな伝わらない😓

父が亡くなる当日の朝 私の名前を二度呼んだ あれを最期のメッセージとして受け止めたのが精一杯だ😭

父としても 自分の存在を知らせたくて 霊感のあるマコチンにアクションを起こしたのだろう!

その話を聞いてから
《父はこの家にちゃんと居る!》
そう確信出来たのは かなり大きかった

朝晩 祭壇に御膳をあげる時も そこに居る父に呼び掛ける言葉が自然と口から出た

『こういう事があったよ!』
『こんな風にするけど いいよね?』

間違いなく居る事を前提に 普通に話し掛ける事が出来たのは 私自身どれだけ慰めになったか知れない!

他にも 真っ暗なキッチンで「ゴトッ…」と音がしたり 父の部屋のドアが風もないのに「ガタガタ」したり いきなりメモ用紙が ヒラヒラ落ちたり…

それらは『あぁ父ちゃんだな…』と 何の抵抗もなく受け入れる自分がいた

【壇払い】が済み 初めての【秋彼岸】が終わった時 ふと『父ちゃんはもう家には居なくなったのだろうか?』と思った…
だけど それを確かめる事は出来ない…

でも 仏壇に線香やご飯をあげたりするのは きっとわかってくれているだろうし みんなを守ってくれているだろう事も信じている!

最後にもう1つ 霊的なものとは違うけど不思議な話がある!

私は何年も前から『父は亡くなるとしたら 7月22日じゃないか…』と言っていた
先にも書いたけど 私は霊感もないけど予知能力もない
しかし その予言通り父は7月22日に亡くなった!

じゃぁ何故そう思っていたか…

私のばあちゃんの命日は12月2日
その旦那さんであるじいちゃんは2月21日

12.2
2.21
察しのいい人なら もう気づくかも知れないが 命日の数字を見ると キッチリ逆になっている

「命日がまるっきり逆で 仲のいい夫婦だったんだな!」
と 話した事がある

そして 母の命日は2月27日!
上の祖父母の法則を当てはめ 導き出した日付は7月22日と言う訳だ😱


6月に入り 父の食欲が無くなって来た時
『もしかしたら 今年の7月なのか…』
と思った

6月中旬になってからは食事が摂れなくなり いよいよもってその日付が頭にチラついた

少しずつ 確実に弱って来る父…
そしてとうとう水分も受け付けなくなった

問題の日にちまでは6日ある!


同級生のお父さんは 水を飲めなくなって三日で亡くなった…と聞いていた
6日もいられないだろうから 7月22日というのはきっと違うだろう…


7月22日の朝 往診に来た先生が

「今日か明日だね…」


そう言われた時

『あぁ やっぱり今日旅立つんだな』


私は覚悟を決めた!


その夜 22時31分

父は安らかに104歳と10ヶ月の生涯を終えた😭


数字の妙と言うのか こんな事ってあるんだな…

不思議でならなかった


その後 葬儀屋さんとの打ち合わせで 告別式の日付けを提示されたが その日は7月26日…

亡き母の誕生日だ


告別式の会場には母も来ていて きっと見守っていたに違いない


今 父と母はどこにいるのだろうか…


今度家に来るのは春彼岸になるのかな?

二人が好きだったおかずを たくさんあげてやりたい!


父の叙勲

父が亡くなって四ヶ月が過ぎた


先日 父に【瑞宝単光章】なるものが 郵便局長さんから授与された!

Googleによると
『瑞宝単光章(ずいほうたんこうしょう)とは、日本の勲章の一つで、国や地方公共団体の公務、または公共的な業務に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた人に授与されます。』
とあった




あれは父が亡くなってすぐだった
お線香をあげに来てくれた局長さんから 思いがけない言葉を聞いた

「お父さまは長年郵便局で管理職もやられたので 叙勲の対象になると思います!是非申請したいのですがどうでしょうか?」

せっかくの申し出だったので 必要な書類を揃えて申請をした
ただ必ず対象になるとは限らない!とも言われていた

それから3ヶ月以上が経ち 忘れかけていた矢先の受賞!

局長さんから電話があった時は 嬉しさよりも驚きの方が強かった😅

佳き日を選び 11月19日に局長さんが訪れ 賞状と勲章を受け取った





思えば私の記憶の中の父は やっぱり郵便局のイメージが強い

50ccのバイクに跨り 出勤する時はいつもニコニコしていた

今だと考えられないけど 私が子供の頃 郵便局は電話局も兼ねていた

誰かが電話をかけると『パタパタパタ』と小さな蓋みたいのが反応して そこに交換手が線の繋がったジャックを差す

「〇〇番お願いします!」
と相手が言い 希望の番号の穴にジャックを差し それでようやく相手との通話が繋がる
そんな仕組みだったと記憶している

それほど電話が各家に普及してなかった時代だったけど いつ電話があるかわからない為 必ず宿直が居なければならなかった

父の泊まり番の日は 母が夕食を届けるので 付いて行くのが楽しみだった

マイク付きのヘッドフォンを付け 電話パネルの前に座って交換手をする姿は 子供心に『カッコいい✨』と思っていた

私が小学5年生くらいだったか 父は【局長代理】という役職になった
子供だったから詳しくは知らないけど 当時は局内の組合活動が激しかった
【局長代理】と言う立場は 局長と組合員の板挟みで かなり大変だったようだ
父は何度も『辞めたい』と言っていたらしい

「これから子供にお金もかかるから 何とか我慢してやれないかぃ?」
と母がなだめた時
「そんなにお金が要るなら ダンプにでも飛び込む!」
それを聞いた母は もうそれ以上は何も言えなかった…と聞いた事がある

仕事に対して真面目な父だったから 局内での責任転嫁や尻拭いなどのあれこれが 我慢出来なくなっていたのかも知れない

それでも辞める事なく勤めていた父…
局長になる話も何度かあったけど 嫌気がさしていたからか その度に断っていた

そんな父に 電々公社への出向の話が来た

郵便局が電話業務をやめ 隣の地区に電話局が出来たために声がかかった
私が中学3年くらいの時だった
【渡りに船】とばかりに郵便局を辞め 電々公社にバイクで通い出した

「郵便局に比べたら気が楽だ!」
と喜んでいたのを憶えている

その電々公社で定年を迎えたわけだけど その頃私は家に居なかったので あまり覚えていない

常に家族や家の事を考えてくれた父!
そのおかげで 今まで不自由なく生活して来れた事を あらためて感謝している

そして 今回尽力していただいた郵便局長さんにも 心から「ありがとうございます!」と言いたい✨



いただいた賞状と勲章を仏壇にあげた🙏


「父ちゃん おめでとう🎉」

と線香をあげながら声をかけた

何だか嬉しそうで ちょっとはにかんだような顔に見えた😊

せめて 生きてる内に見せてあげたかったな…

存在の大きさ

父が亡くなって あと一週間ほどで3ヶ月になる


先月の9月14日は 生きていれば105歳の誕生日だった


毎年赤飯を炊いて親戚や友達に配ってたけど 今年はそれが無くて寂しくもあった…😭



9月7日には四十九日の【壇払い】と【納骨式】があって 無事に終える事が出来た





それにしても父の存在が あまりにも大きかった事を 今更のように感じている



100歳を過ぎた辺りから 夜寝る前には必ず父の部屋を開け 寝息を確認するのが一日の締めくくりになっていた


今でも部屋を開ける度に『父はもう居ないんだ…』と思い知らされ 毎晩寂しい気持ちになる



買い物に行けば 父の好きだったものに無意識に目が行く


祭壇に朝晩御膳をあげていた時は なるべく好きだった物を供えていた


1ヶ月何も食べられないまま逝った父…

「お腹空いてたんだから いっぱい食べてよ!」

と声をかけ そのたびに涙が出ていた


一体いつまで涙が出るんだろ…

とは思ったけど「これも供養!」と思い 我慢せずに泣く事にしていた😭




思えば父は《そこに居て当たり前》の存在だった


困った事があった時でも そのまま受け止めてくれて 多くを語らずとも助けてくれた


親不孝な事をしても いつだって私を信じて味方をしてくれた

頭ごなしに怒られた事は 一度も無かった



父が亡くなってから よく息子と思い出話をする


息子が一番印象に残っているエピソードは小1の時のこと…


学校から帰って 同級生2人にいじめられた事を話したら

「よし!オレが文句言ってやっから乗れ‼️」

と50ccのバイクに息子を乗せ小学校に向かった父!


「◯◯はどこだ?」

そこら辺にいた子に聞いたら 当のいじめた2人はバス通学だったので もう帰ってしまって居なかった…


「帰っちまったならしょうがねぇな…」

と言いながら

「またいじめられたら いつでも言えよ‼️」

と キッパリとした口調で息子に言ったらしい



「あん時のじいちゃんはカッコよかったなぁ✨❗️」

と息子がしみじみと語った


普段温厚な父だけに 意外な一面を知り驚いたものだ



私は昔から婦人科系が弱く 今まで3回手術をしている

そんな事もあって 息子が小学校に入学する半年前に浜松から実家に戻った

必然的に主人は単身赴任となった


父はきっと【男手は自分だけ!】

自分が父親代わりで頑張らないと!と思っていたに違いない


冬 雪が積もった朝も まだ暗い内から起きて 除雪車の置いて行った雪の塊を スコップ1つで片付けていた

私が仕事に行くのに支障のないようにしてくれていたのは いつもありがたかった🙏


責任感が強かったから すべてが家族の為を思って行動していたように思う…



父はとにかく人の喜ぶ顔を見るのが好きだった


美味しい物があって それが自分の大好物でも 家族に「食べろ!」と差し出す

自分が食べるより それを食べた人が喜んでいれば嬉しいみたいだった


息子は家と会津若松で塾をやっているが 家から会津若松に戻るのは いつも土曜日

一方父は二ヶ月置きに会津若松の病院に通院していて 行く日はいつも土曜日


息子を送りがてら父の病院に行けるので 通院日は一石二鳥だった


病院が終わってからは三人で【かっぱ寿司】に行くのが恒例になっていた

そしていつも父が奢ってくれる😅


自分はマグロを二皿と玉子焼き二皿

その位しか食べなかったけど

「遠慮しねぇで いっぺぇ食えよ(いっぱい食べなさい)😊」

と息子や私に言う


会計が終わり 車に乗り込んでから息子が

「ごっつぉさまでした!いつも悪いなぁ💦」

と言うと

「また来んべな(また来ような)!😊」

と ニコニコと嬉しそうな顔で笑っていた


先日 息子と回転寿司に行った時 その時の事を話しながら 二人して涙が滲んでしまった😭


あれもこれも 父の事をこれほど思い出すのは それだけ長く 家族として一緒に濃密な時間を過ごせたからだろうか…



90歳を過ぎた頃からは《近い内にやってくる別れ》を 常に意識するようになった


それは 心筋梗塞で突然に『フッ…』と居なくなってしまった母の事があったのも大きい


母の葬儀の時

「せめて1ヶ月くらいは看病してあげたかった…」

私がそう言っていたのを 父は覚えていたのかわからないが 私のその言葉通り 父はキッチリ1ヶ月だけ介護をされて旅立った😭


いつだって 私に苦労はかけたくないと言っていた父…



日常の生活は これと言って大きく変わりはないけど 気持ちはやっぱりどこか穴が開いたような感じ…



先日 稲刈りが遅くまでかかり 辺りが暗くなってから終わった

急いで帰ったら 家が真っ暗でその光景にドキッとした!


そうだ…こういう時 父は外灯やリビングの電気を点けておいてくれたっけなぁ…





今でも寝る前は 必ず部屋を開けるクセが抜けない

父が居た時の そのままの匂いがしてホッとする


誰もいない部屋に

「父ちゃん お休み…」

そうつぶやく


そんなだから 父の居た部屋の片付けが ちっとも進まない…


でもいいや…

もう少しそのままにして 父を感じていよう


1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>