昭和と言う時代、「路傍の石」や「しろばんば」のような
昔の世界観を持っており、でも時代は現代の21世紀
そんな世界で生まれたお話です。

俺は高田 尊弘という平凡なサラリーマンだ。
ふつうは(たかひろ)と読むところだが、
(みつひろ)と読む。

東京で生まれ育った俺は、小学校2年の時に
田舎に引っ越した。

方言が強くてうまく会話ができず、
成績だけが良い俺をよく思わなかったのか、
同級生に無視されていた。また、
田舎のガキ大将らしき奴とそりが合わず
喧嘩ばかりしていた。

子供のころから武道をやっていた俺は強かったので
殴られたり蹴られたりはなかったが
完全に村八分だった。

そんな時声をかけてくれたのが今の妻
紗百合だ。サユと呼んでいた。

「ねえ、東京ではカエルとかムシ少ないでしょ?」
そういって、集落の田んぼや池を案内してくれていた。

すごい田舎だったが、バブル期の無理な開発の前だったので
自然がそのまま残っていて田んぼでアメンボを見たり
池のほとりで鳴くウシガエルの声を聴いたことは覚えている。
「どこにいるのかな」などと言いながらウシガエルを探しても
見つけることができず、不思議だった。

夏にはオニヤンマやギンヤンマが飛び大きなスズメバチもいた。
秋の川には源氏ボタルがいて、虫かごで周囲を照らして
電灯代わりにしていた。

ここが単なる田舎でないのは、天橋立という日本三景の一つがある
というところだ。
宮津というそこそこの街のほうにはスーパーマーケットや
色々な店もあるのだが、天橋立には文殊の知恵にちなんだ
知恵の餅が売っていたり、古びた旅館や土産物屋が並んでいる。

弓の弦の部分が砂でつながっている天橋立で
その内側の弓の部分にほとんどの人が住んでいる。
天橋立を渡ったところには大型別荘地の計画があり
将来はもっと人が多くなるかもしれない。

反対側の小さな山には股覗きというスポットがあり
一度行ったことがあるが絶景だった。
交通費がかかるので一度だけだったが。


そんな折だった。
サユの飼っていた犬のイチロが居なくなったのは。
小学3年生の時だ。もう歳だったので老衰だったのだろう。
サユも死んだことを悟ったのだろう。
そのこと自体に悲しんでいる様子はなかったように思う。
少なくともその時の俺には気が付くことができなかった。

しばらくして、役所から連絡があって、イチロの死体を引き取りに行った。
サユがよく通っていたサユの亡くなった祖母の家で
倒れ伏して死んでいたらしい。餓死だったようだ。

二山越えたところにあるサユの祖母の家から
30km離れた近くの町で自衛隊の基地がある、
京都の舞鶴という港町だ。

元々は宮津に住んでいたのだが、病気になってからは
舞鶴の老人ホームに入院していた。

そこに主人はいないと感じたのだろう、イチロは
宮津の無人の家で死んでいた。

サユは犬、イチロの葬式をしたいと言い出した。
当然彼女の両親は認めることはなく、
犬の死体をリュックサックに入れて俺とサユで
見晴らしのいい、そして、サユのおばあちゃんの家が見える場所に
埋めてやった。今でもその場所ははっきりと覚えている。

犬の死体をリュックに入れたことと、
無断で隣町まで自転車で行ったことを叱られ、
俺も両親に一晩、家の外に出された。

サユは行方知れずになり、村中が総出で夜の山や川を探した。
俺がイチロを埋めた場所にサユの母親を連れて行くと
サユはそこで泣き疲れて、眠っていた。

あれから、27年、俺たちは結婚して13年になる。
残念なことに新鮮味もなく、結婚記念日すら
忘れてしまう俺だったが、彼女は良妻賢母を
勤め上げてくれていた。

あの後俺は京都の中高一貫の名門校に進学し、
彼女も京都市内の女子校に通っていた。
受験には成功したものの、大学を出て塾の講師をしていた。
まあ、不景気で就職に失敗したともいう。

同じ京都市内に一人暮らしをしていた俺は、
サユともちょくちょく会ってデートしていた。
お金はないので街をぶらぶらしていた。
京都の丸山公園あたりがお気に入りのスポットだ。

そして、大学を出てすぐ結婚した俺たちは
すぐに子供が生まれ、その長女は中学生になった。
常日頃から、弟が欲しいと言っていた実乃梨は
中学生になってすぐ、念願がかなった。

産婦人科の病院で、羊水検査の結果、男の子だと判明した。
だけど、病院に呼ばれた俺はもう一つの事実を突きつけられた。

子宮がんだった。

医者は、
「幸いなことに初期がんなので、今、手術すれば
5年生存率は80%以上で、再発の可能性は薄い。」
と言ってきた。

国立成人病センターなどに問い合わせてみたが
入院するのには問題なさそうだった。
いざとなればがんの手術もできる。

医者は子供はあきらめて、手術を勧めてきた。
俺も子供よりサユが大切だ。
彼女に事実を伝え、堕胎を勧めた。

「子供はまた作ればいい、今はがんの治療をしよう。」
そういって説得したが受け入れなかった。

サユは、

「親が子供のために命を捨てられるのならば、
今から生まれてくる子供にもそれは言えるはず。」

そういって、堕胎を拒否した。

「紗百合、わがままを言うんじゃない。」
あまり多弁ではないサユの父は必死に説得していた。

「実乃梨ちゃんはどうするんだ、尊弘君だって
働きながら子供の面倒を見ないといけないんだぞ。」

「初期がんなんだ、治療すればみんなで長く
暮らしていけるんだぞ。」

実乃梨は泣きながらサユに、
「ごめんなさい、ごめんなさい。弟が欲しいって
私がわがまま言ったから。」

「私、弟なんていらない、お母さんが一緒にいて
お父さんがいて、3人で暮らしたい。」

「産まれてくる子より、お母さんのほうが大切だよ。」

実乃梨も必死に説得したが、サユは意見を変えなかった。

みんなに生まれてくる前から厄介者扱いされる
我が子にはかわいそうだが、
俺は息子が憎くすらあった。

紗百合はふと涙を浮かべると、
この子はおばあちゃんと一緒だね。
誰からも必要とされていない。

「なんで、産まれてくることを祝福してくれないの?」

「私が死ぬことが無責任なのはわかってる。でもこの子には関係ないでしょう。」



しばらく病院に通ううちに、俺には妙な変化が生まれた。
堕胎を拒否して、死を覚悟する妻が夢を見るような感覚
幽霊にでも会いに行っているような感覚に襲われた。

ある意味、産婦人科だったからかもしれない、
人が人生の最期を迎える病院ではなく、産まれてくる場所
一人だけ死を待つサユと、周囲の患者さんは全く別のものに見え
それゆえに、いつの間にか俺の現実は麻痺していった。

サユにあっても、亡くなった祖母と話しているような感覚に陥る。
まるで仏壇の写真と話しているようだ。
本当なら泣き叫びたい衝動を受け止められない俺はいつの間にか
殺していた。サユは生きているのに俺の中では彼女はもう死んでいた。

本当は言いたかった。

「子供なんていくらでも産めるよ。だからがんの治療をしようよ。」



「サユが死んだら、俺や実乃梨はどうすればいいんだ。」


正直、中学1年生の娘と俺で、子供を育て上げる自信はない。
だが、彼女の我が子に対する覚悟を見て、
それを口に出すことはできなかった。

母親に会うたびに泣き顔で抱きつく実乃梨、
それに対して俺は至って平静だった。
サユの両親は俺に対して、「心の強い人だ。」
などと見当違いの評価を下していた。

100年生きるなら年に1度会えればいい、
1年しか生きられないなら3日に一回会えばいい、
それは同じことだ。
俺は頻繁に病院に通った。
そして、気が付くと家にある彼女の写真をまとめて、
思い出の荷物を1つ1つ丁寧にまとめていた。
まるで、自分の心を荷物のように閉じ込めるために。

おれが、田舎の昔話ばかりしていると、ある日彼女は言った。
「なぜ、昔の話ばかりするの?」
「夏休みに実乃梨がホームステイするでしょ、ニュージーランドは冬だし
冬に着るもの出さないとね。」
そう言うと、実乃梨と産まれてくる子供のお揃いの帽子とマフラーを
編んでいた。

彼女の余命が1年、それが息子の命の代償だ。
医者に相談された。子供を産んだ場合それからの命は
数か月程度。出産自体は通常と変わらないので
ご自宅で過ごされては?と言われた。
ある意味、この医者が産婦人科の医者だったからかもしれない。

彼女は納得して応じた。
出産の前には医者が特別に家に来てくれるらしい。
小さなクリニックの産婦人科医だ。
死にゆく妊婦など生涯に2度はないだろう。

彼女はクリニックを退院し、3か月ぶりに家に戻ってきた。
冷蔵庫を見て、何が入っているかチェックして
食生活が乱れていないか、とか
洗濯や風呂掃除をこなせているか見ているようだ。

だが、夫婦の寝室に入ると彼女は怪訝な表情を見せた。
もともと2個あった枕が、1個しかないのだ。
サユの服はすべてクリーニングに出され、
綺麗に整頓してあった。
もう戻ることはない、そう告げているようであった。

「なんで、なんでだよ、私生きてるよ、まだ生きてるよ。」

そうつぶやくと彼女は崩れ落ちた。
もうこの家に彼女の居場所はないのだ。
わめき散らす彼女に俺も応じてしまった。

「俺達には将来があるんだ、未来のことを考えるのは当然だろ。」

言ってしまった、もう止めることはできない。

「お前はその産まれてくる子供と引き換えに
俺と実乃梨を見捨てたんだ。」

「俺は働きながら1人で子供を育てるんだぞ、
お前を殺したその子供を、、、」

言葉が続かなかった。
人間として最低だ。

「再婚すればいいじゃない。一人で育てる自信がないなら
再婚すればいい。私は死んでまであなたを縛ろうとは思わない。」

「ねぇ、私の戒名は何にする?」

そう言うと彼女は寝室のドアを固く閉め、俺は廊下で、何も考えられずに
泣き止んだ子供のように喪失感に襲われていた。
ドア越しに俺は言った。

「俺はお前をあきらめたわけじゃない。」

「自分のためかもしれない、いい訳かもしれない。
でも俺は弱いんだ。いつもお前が居た。
小学2年のあのときから、俺は一人では立てないんだ。」

彼女からの反応は無かった。

俺は家を出ると、夜の街をさまよい、カプセルホテルで
一夜を明かした。

仕事を終えた翌日の夜、どうやってサユに謝ろうかと考えながら
歩いていると、ケータイが鳴った。

「やっほー、おとーさん、今オークランドだよ。
アメリカじゃなくニュージーランドのね。」
ニュージーランドから電話がかかってきた。
「今忙しいから、急ぎでないなら後にしてくれないか?」

「う~ん、お母さんが来てる、マックで飲み物飲んでるよ。」

え、俺は動揺した。

サユはあの後パスポートとカードを持ってニュージーランドに
来たらしい。本当は学校の規則ではだめらしいが、
余命のわずかなサユをおもんばかって、ホームステイ先と
交渉して、頼み込んだらしい。2人でホームステイしているらしい。

「お父さんとは口をききたくないってさ、じゃあねっ。」
実乃梨は元気そうに電話を切った。

少し変な感じのする父ではあったが、母がもうすぐ死んでしまう
そう考えれば、普通なほうだろう。
実乃梨が父のことを考えていると、母が話しかけてきた。

「実乃梨、お父さんどうしてる?」
急にニュージーランドに来たんだから何かあったのだろうけど
今の事情を考えると、それについて触れるのはためらわれた。

だけどもう残りの時間は少ない、思い切って聞いてみた。

「ねえ、お母さん、お父さんと何かあったの?」

「う~ん、何もないかな。」

母はなんだか歯切れが悪そうに口ごもった。

「私がニュージーランドに来てから、お父さん、家で独りぼっちでしょ
どうしてるかなーなんてね。」

「何もないよ。掃除も洗濯もしていたし。
毎日家で食事摂れていたみたいだよ。」

母が居なくてもやっていけると、証明したかったのかな。
心残りがあったら、お母さんも心配しながら死ぬことになるし。

「ふ~ん、でも1ドルが60円ってすごいよね。
ケンタッキーのセットが300円、マックのセットが200円で
食べられるよ。」

「経済的に困ったら、ニュージーランドに住もうかな。」

「それは無理かな。永住には数億円単位の貯金が必要なはずだよ。」
母は何気なく否定的だ。

「タカプナから南に歩かない?連絡船が出てるみたいよ?」

「そうね。オークランドってニュージーランド最大の都市
って聞くけど、結構小さいのね。」

「まあ、東京と比べたら10倍以上差があるからね。」

「オークランドってワイテモア湾をはさんで両端が近いところとか
お母さんの生まれ育った天橋立に似てるわね。
両岸が砂浜でつながってたらそっくりだよ。」

ニュージーランドは道の周りは芝生だらけで日本より
気分がいい。結構な距離だったが
お腹の中の弟も元気そうだ。

「そうだね物価もすごく安いし。」

「午前中は学校があるから一緒にいられないけど、
お母さん一人で大丈夫?」

「大丈夫だよ。イーデン山でも見てくるわ。」

母と過ごしたニュージーランドの記憶は今も鮮明だ。





















俺は
それから2週間ほどは、何も考えることもなく、
ただ勤務先の塾に行き、子供達に受験勉強を教えていた。


「お母さん帰った~?」

そんな実乃梨からの電話がかかってきた。

「えっ、いつ?」

「昨日の昼だから、もう家についてるんじゃないの?」

実乃梨の言葉に俺は耳を疑った。

娘に心配はかけられないので、
「仕事が遅くなってるけど急いで帰る。」と、
伝えると ニュージーランドからの電話を切った。

もしかしたら病院に居るかも、そう思い電話をかけた俺は、
クリニックの医師が、心の底から軽蔑の言葉を浴びせるのを聞いた。

「紗百合さんは、死産でした。」

タクシーで病院に向かった俺はサユの携帯に電話していたが
まったく出ない。
医師は「あなたは、もうこないでください。」と言って、
もはや人間として扱っていないレベルで拒絶した。

俺は小学校3年のときのことを思い出していた。
彼女の故郷は 京都の宮津、しばらく山道を登ったところだ。

北近畿丹後鉄道は、本数が少なく、
列車の走っている時間ではないし、
自動車を運転すれば、今の精神状態だと危険だと
そのくらいの判断が出来るくらいには冷静だった。

紫式部だったか清少納言だったかは忘れたが、
タクシーの運転手に宮津まで行ってもらい。

そこで別のタクシーに乗ると、
俺は急いで、イチロの墓に走っていった。
彼女、サユはそこにいた。
イチロ、彼女は息子にそう名前をつけるらしい。

医者からへその緒をもらって、犬の墓があった場所に埋めていた。
普通なら正気を疑うところだが、俺は叫んでいた。

「俺はもう一人で立てる。一人で歩いていける。
もう、お前と2人じゃないと何も出来ない子供じゃない。」

俺は本心から、嘘を言っていた。


ふふ、そう言うとサユは笑った。

「そうね、私も子供を2人残して、あの世に行けないわ。」

「イチロと私は行くけど、ちゃんと実乃梨を育て上げて。」


紗百合はもう長くないだろう、肉体はまだ大丈夫でも
生きていく精神が感じられない。
みずからが死んでも生むと決めた、我が子を亡くしたのだ。

「実乃梨、ホームステイの途中で悪いけど、
日本に戻ってくれないか?」

「何かあったの?お母さんは?」

「お母さんは生きてる。帰ってから話すよ。電話で話すことではないし。」

「わかった、帰国するよ。」


自宅に実乃梨を呼び戻し、弟、イチロの死産を伝えた。

「何のためにお母さんは死ぬの?」

そう泣き叫ぶ娘を抱きかかえると

サユは
「よさの海のあまのしわざとみしものをさもわがやくと潮たるるかな」

なぜこんな唄を読んだのかは、古文に詳しくない俺にはわからない。
だが、10日も経たないうちに、彼女は天の橋を渡っていった。


葬式から2週間ほどたったころ、
実乃梨にサユの大好きだった祖母の飼い犬の
イチロが見える山の中に来ていた。

イチロは水子として供養されたが、
ここには、へその緒が埋まっている。
よくわからない霊園墓地より
ここのほうがサユも落ち着くだろう。

遺骨の一部を土の中に埋めに行った。


あんなに葬式で泣いていた実乃梨は落ち着いていたのに、
俺はとめどなく泣いていた。

犬のイチロは、サユの祖母が幸せだった、サユが幸せだった
時代を愛していたのだ。

サユが一番幸せだったのは、俺といる時だったんだ。

人はその人が死んでしまうと知った時に悲しむ場合と
死んだ瞬間に悲しむ場合がある。
俺は思い出に浸るべきではなかった。

思い出は 生きている人を 殺してしまう。