※真珠の過去話です!!
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何かと優遇されてきた人生。
だがそれには一時の愉悦が残るだけで、ただ、他人よりも少し手入れが行き届いた道を歩いているだけだと知った。
隣や後ろを見ればいつでも、泥や砂に塗れて声を殺している奴らがいる。
僕はそれを見て、ただ高慢に嗤っていた。
幼い頃から、女として育てられた。
“可愛い”だとか“綺麗”と讃えられる気分は悪くなかったし、僕もそれを甘んじていた。
たとえそれが僕へ突き立てられる劣情だったとしても、僕はそんな憐れな奴らを見殺しにはしなかったのだ。
種が墜ちるは高嶺。
そして、下界を見下ろし咲き誇る瑞花。
誰も彼も、僕だってそれを疑いはしない。
そして事実、誰も彼もが僕を欲したのだから。
「あなたは私の可愛い娘。いつまでも清く、美しいままでいて」
中学生になった頃からだろうか。
母は、家の集まり事がある度に僕へそう言った。
あの手この手で着飾られた僕を見て、随分と博愛に満ちた言葉をくれた。
僕は、いつだって怯えていた。
その言葉を聞く度に、果てしない荒野へ独り取り残されたような、身を捻じ切られるような畏怖を感じるようになったのだ。
声変わりをしたら、この喉を頭ごと刎ねられてしまうのではないか。
今より身長が伸びたら、達磨落としのように、脚首からどんどん切り刻まれていくのではないか、と。
月日が流れていくごとに、僕のこころは声を荒げて、行く手を塞がれる恐怖を叫んでいた。
亀裂が走り、良心まで紅く乾き始めた僕のこころを埋めるのは、尊い青春を穢す愚行の限りだった。
夕闇に鍵を閉ざされた教室で、背を押し付けられた壁の白を何度も嘲った。
背徳に焦がされる、激しい熱に震えていた。
僕の影を這ってでも追ってきた奴は幾十といるが、その中でも、僕の運命を大きく違わせた男がいたのだ。
僕には、姉が二人と、弟が一人いた。
姉の二人は成人しており、さらにどちらも秀才で、文武両道の聡い女だった。
それに対し弟は不器用で、学問には興味が無く、ひたすら絵を描くことが好きだった。
三人に比べれば僕は中途半端で、学問も武道も特に不得意は無く、かと言って特別良いわけでもなかった。
だが、品性と容貌の面でいえば、僕はずば抜けて家の気に入りだったのだ。
姉の二人は何をするにも完璧な女だったが、顔立ちにその欲深さが滲み出ていた。
弟は、どちらかと言うと僕に似て、中性的で儚い雰囲気が漂っていた。
弟も僕と同じく女として育てられていたが、あまり人間に興味を示さないような奴だったから、まさか僕を妬んではいなかっただろう。
だが、生まれ持って女である姉たちは違った。
話を戻そう。
僕には、たいそう運命を狂わされた男がいた。
恋愛関係というには冷えきっていたが、一度触れ合えばどうにでもなる。
灘のない緩やかな毒の海で、ふたりの孤独を融かし、眠るように溺れていた。
そんな落ち着いた関係の中、そもそも姉のひとりが、この男と情を交わした、と言ったのだ。
「真珠さん、あなたには悪いけれど、私、あの方と婚約することも決まっているんですの」
素知らぬ口調で僕へそう告げた姉の浅ましい表情の、何と醜いことか。
必死に淑女を粧う唇は、いつも以上に酷く卑しく見えた。
「あのお方も心の内では、私のような女と愛し合いたかったのでしょう」
そんなに思い詰めなさらないで、と下等な雌が僕を嘆く。
いっそ呆れて屈辱も感じなかった僕は、姉のその醜さと下劣さを憐れんでいた。
「男のくせに私たちのような振りをして、何て汚らわしい」
去り際にそう囁き、姉は優美な足取りで襖を閉めて消えた。
閉じられた襖の奥では、よく似た甲高い嘲笑が聞こえる。
姉たちが、僕を出し抜いてやったのだと勝手に盛り上がっているのだろう。
あれは耳障りな蝿だ。
ここに居ても仕方ないと廊下側の襖を開けると、天竺牡丹ほどもある巨大な額縁を引き摺っている弟と出会った。
僕に気付くと、片手を振りながらくすくす笑う。
床を傷つけたら家政婦に怒られるぞ、と素っ気なく返すと、僕らが歩く度に床は傷ついてるよ、と今度はけらけら笑いながらそう言った。
そして息を吐いて、弟は僕を見る。
「やっぱり、姉上は綺麗だね」
それだけ言い残して、画廊への道を歩いていった。
ごと、ごと、と歩数に合わせて額縁を削りながら。
奇妙でいて、それが普段通り。
弟はそんな奴だった。
当然だ、と視線でのみ応えて、僕は暢気に自室へと戻った。
空は曇天に覆われ、小雨の降る音が心地いい朝だ。
朝から珍しく母に呼ばれ、寝起きの脳を少しずつ覚醒させながら、広間の襖を静かに開けた。
奥には母、そして姉二人が正座している。
部屋中がどこか異様な靄に霞んでいるのを、僕はあまり気に留めていなかった。
「真珠。さあ、そこに座って。」
母が穏やかな声でそう言うと、姉たちが僕をじとりと不躾に見つめる。
その賎しい視線に耐えかねていた頃、険悪な姉弟関係など知らない母が再び口を開く。
「あなたが…姉上の婚約者の方と、関係を持っていたと聞いたわ」
思わず声が出そうになるのを、堪えた。
瞳孔と唇が、呼吸をするごとに渇く。
母の言っていることは誤りではない。
だが、手を出してきたのは姉の方だ。
僕たちの殉愛に、泥塗れの指で触れて傷をつけたのは、紛れもない姉だ。
僕に慈悲を縋るあの男の瞳が、今になって鮮明に再生されてゆく。
あの男はこんなに卑劣で、欲深く、浅ましい女を選んだのか。
僕だけを、鳥籠に残して。
「私…あなたには……っ、清純なままでいてほしかった…」
“けれどそれも、私の我儘だったのね”、と。
声を震わせ泣き崩れる母を、姉たちが下世話な腕で支えている。
ああ、その柔い腕で、指で。
肉欲に集る蝿が、僕の男に毒を打ち込んだのだ。
「…、ゆ…真珠、さん…?あなた、眼が、」
姉のひとりが、醜悪な顔を曇らせる。
眼球が、溶け出しそうなほど熱い。
瞳の縁まで焼け落ちそうな最中、その後を追い幻痛が襲う。
あまりの熱と痛みに、がくりと脚の力が抜ける。
母たちが、異形でも見るような眼で僕を凝視しているのが分かる。
僕の眼が、それとかち合った瞬間。
「う゛っ、…!?あ…ぁ゛、な、…に……!?」
「は……、は、ぅ…………え…、!!」
突然、母たちが心臓あたりを抑えて痙攣し始めた。
助けて、やめて、と何に対しての救いを求めているのか、涙さえ垂らしている。
さすがに三人の様子がおかしい事に気づいたのか、中年の家政婦が慌てた様子で広間に入ってきた。
そして母が、金切り声で姉に言ったのだ。
「もういい、討ちなさい!!」
刹那、僕の右肩が跳ねて抉れた。
荒い息を漏らしながら、恐る恐る温かいそこを覗いてみる。
姉が射った弓矢が、紅を啜り、肩の神経を的確に壊す。
この腕も、この命さえももう引き千切られて終幕かと瞼を閉じた僕は、その場に倒れ込んだ。
それからの記憶は、滔々と降り続く雪に遮られて、眼を凝らしても見えはしない。
瞼を開け、最初に見たのは白い空だった。
作り物の、僕を閉じ込める白い檻。
幾度か浅い呼吸を繰り返し、次に見たのは弟の姿だ。
蛍光灯の光が、僕に似た顔を淡く照らしていた。
「…無事でよかった。」
僕よりも少し低い声が、じわりと肌に滲みていく。
僕の身体はどういう状態なんだと尋ねると、彼は珍しく、言葉に詰まったように口篭った。
いいから言え、と急かすように棘のある言い方をすると、彼は恐る恐る唇を開いた。
「姉上……、去勢、…されたんだって」
“去勢”。
ああ、犬だとか猫だとかの。
思ってもいなかったその二文字に、僕は再び愕然とした。
待て。
どういうことだ。
僕は、肩の傷のことを聞いたつもりだったのに。
押し黙る僕を見て、弟は目元を紅に染め、悲痛な声色で僕へ訴えた。
「ねえ、真珠、こんな家いちゃいけないよ…!!真珠が綺麗だってことは僕だって、誰だって分かってる……でも、こんな…、真珠は……僕の…兄さんの、はずなのに…、!」
膝の上で握った掌を震わせながら、いつもは愛想の良い瞳を伏せる。
白い肌に長い睫毛の影が写っているのが、僕にはなぜか後ろめたく思えた。
感情を露わにしている彼に、僕は、気安く名で呼ぶな、とだけ伝えた。
病室の扉を閉める時、彼は静かに泣いていた。
ちょうどその一週間後、弟が自殺した。
死体の発見現場は、弟の画廊だった。
額縁に刺さっていた釘を動脈に打ち刺し、長く苦しんで死んだらしい。
精神を病んだ故の死だそうだ。
葬式には、行かないと答えた。
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僕は退院後、強制的に家へ帰らされることとなった。
不本意ではあるが渋々門を閤り、早足で自室へと向かう。
特に宝物なんてものはないので、机や棚を簡単に片付けた。
一刻も早くこの汚泥のような場所から抜け出たかった僕は、豪快に扉を開け放つと、出たすぐそこに家政婦が立ち竦んでいたことに驚いた。
僕とも歳の近そうな茶髪の家政婦は、僕を一目見て戸惑ったような顔をした。
「あの……真珠様、少し…お伝えしたい事が」
彼女は申し訳なさそうに両手を擦り合わせ、話の途中途中で僕に頭を下げた。
「私から伝える事ではないのですが、その…」
彼女によると、どうやら弟の画廊で、僕宛の言伝が見つかったというのだ。
乾いた薄い唇を舐め、のそのそと廊下を進む家政婦に、僕は後ろでその背を睨んでいた。
普段は行くことのない渡り廊下を歩いていくと、思わず眉間に皺が寄るほどの濃い絵の具の匂いが近づいてくる。
さらに裏口を出ると、羊皮紙のような埃っぽい匂いも混じってきた。
弟の画廊は後付でできたもので、昔は倉庫として使われていたらしい。
手入れされた本館とは違い、かなり建付けが悪いのか軋む扉をこじ開けて、画廊の奥へと歩いてゆく。
道と呼べるほどの隙間も厳しく、脚を伸ばそうと身体を動かせば、不意に額縁が壁にぶつかり、鈍い振動が伝う。
色の着いた水が溜まったままの排水溝は、かたかたと不格好な音を立て、斑模様を泡立たせていた。
荒廃した偶像の森を抜け、家政婦がふと立ち止まる。
「こちらを…、ご覧になってくださいませ」
ぽつりと不自然に空いた空間に、一際大きな油絵が佇んでいる。
その絵には、一面の銀世界、今も振り続ける雪、そして、銀世界の中に一輪だけ咲く紅い夕化粧が描かれていた。
雪の降る空は薄暗く、真白の中の夕化粧は、鮮烈ともいえるほど映えている。
「…“無言の愛情”……、ですか」
花言葉を説明しろとも言っていないのに、浪漫に溢れているらしい家政婦は、静かにそう呟く。
僕はそれに気付いていないふりをして、下に小さく書かれている題目に目を向けた。
「…何だか…、悲しげなタイトルですね…。」
それにも、家政婦はいちいち反応してくる。
こういう煩い女は厄介だ。
悲しげ、という言い方は確かに頷けるが、これが僕に宛てた絵なら、少し冷血が過ぎるのではないだろうか。
紅い夕化粧をなぞると、塗り重ねられた絵の具の、凸凹した感触がした。
そうして僕は、何とも時化た顔をしている家政婦に、この絵は燃やせとだけ言って家を出た。
僕の過去は、本懐を告げた。
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ここを彷徨っている時、偶に思い出すことがある。
思い出す、というより、僕の頭の中で、あれが意思を持って蘇るのだ。
家で見た、大きな油絵が。
題名そのものが僕の呪縛となり、今でもあの白が、紅が、轟々と脳内で浮かび上がる。
負うには巨大すぎる虚無を抱え、この身体に住み着く悪魔。
それが僕なのか、僕ではないのか。
落ちては消える雪を見て、魂が身震いをする。
嗚呼、何れにせよ、これは。
これは僕への、餞であろうと。
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