・人の行動の約9割は、無意識で行われているといわれる。

・無意識を「意識」し、それを耕すことで、日々の意思決定は確実に変わり始める。それはまた、想像性を高めることにも寄与し、あなたの日常をもっと豊かなものにするだろう。

・無意識における決定は、脳、あるいは身体全体でなされており、同時に複数のことを処理できる点において、意識より優れているといえる。

・自分の思考の傾向を無意識から意識化することで、日々の言動や人間関係、あるいは人生そのものを大きく変えられる。

・僕たちは無意識化においてこれまで見てきた顔から平均の顔を脳内で作り上げ、それに近い顔に交換を抱くようにできている。

・行動経済学では、人の不合理さや考え方の癖のようなものを「プロスペクト理論」と呼んでいる。それによると、多くの人は「利益を獲得する喜び」よりも、「損失を被る悲しみ」の方が強い傾向にあるとされる。

・日本は、ハイコンテクスト文化である。ハイコンテクストとは、コミュニケーションの基盤である共通の知識や経験、価値観のことを示す。これらの共有性が高く、あえて言葉お交わさなくても相手の意図を察しあえる環境はつまり、ハイコンテクスト文化の発達を意味する。一方で西欧の多くの国はあくまでも言語に依存するローコンテクスト文化が根付いている。コミュニケーションの価値のほとんどを言語においているから、日本人の不得意とする論理的思考力やディベート力、交渉能力に優れているのが特徴。そして、グローバル化が目覚ましい現代においては、こうしたローコンテクスト文化の重要性が叫ばれている。当たり前のことだが、異なる文化、歴史、経験、価値観がひしめく国際社会においては、」いわなくてもわかるだろ」というハイコンテクスト的理論は通用しないからだ。

・伝統的な自然崇拝として日本人の生活に根付いてきたものゆえ、神道は、宗教というより思想や哲学,あるいは生活そのものととらえることもできる。八百万の神を祟めることで身につく調和性や多様性、感謝の気持ち、清廉性などは、日本人の気質として連綿と受け継がれてきた。そういう意味では、神道はほかのどの宗教よりも、限りなく無意識の領域にあるのと言えるではないだろうか。

・アニミズム性を保ちながら近代国家として自立した日本は、本当に稀有な国だし、そこではぐくまれた感性もまた、独自の高いものと言えるだろう。

・仏教は、アジアに広く浸透している宗教の一つで、各国ごとに多少のの特色がある。しかし、日本で信仰されている「日本仏教」においては、群を抜いて独自路線を貫いている。

・日本人は、元来のものを受け入れるのではなく、自分たちの理解しやすい「型」に変えてしまう。

・日本人の深層には、外部からの新しい刺激を受けながらも、根本的な自分たちのやり方を変えない頑固さがある。

・もともとの大和言葉に漢字を当てはめて訓読みを作ったり、独自の漢字を編み出したりと、半ば無理やり自分たちのやり方に漢字を当てはめ、消化することに成功してしまった。

・日本人は、漢字という表意文字と平仮名という表音文字、つまり「画像」と「音声」という全く異なる性質を持つ二つの言語を並行処理している。これは世界的にみいも極めて例外的なことで、僕たちは文字を読み書きすることにおいて、特殊な脳の使い方をしているといってよい。

・自然と人はそれぞれに存在するのではなく、人は自然の中に存在し、むしろ自然と一体的なもの。僕たちの集合的無意識にそうした概念があるとしたら、環境問題に対して、日本人ならではの着想で取り組める何かがあるのかもしれない。

・「もののあはれ」という概念は、人や自然、地球上のすべての物質が「ありのままである」ということを肯定している点において個性や多様性を生む土台となっている。

・無意識とは、暮らす環境や文化、民族性、あるいは気候や風土など、多くの要素で形成されていく。

・自分が怒るというよりも自分の中の別のものに「怒らされている」という感覚でいるとわかりやすい。そういう意味では、は極めて無意識の領域に近いところに存在し、無意識の消息を伝えてくれるものである。

・負の感情やストレスと上手に付き合っていくために、昨今ではアンガーマネージメントが随分と話題になっている。感情というメカニズムを俯瞰して眺めることで、それをコントロールするための重要なヒントを見つけられるかもしれない。

・人は、多様なリスクにさらされながら、常に「どのように生き延びるか」を最優先して生きてきた。そのような環境では「恐怖」「怒り」「ストレス」というネガティブな感情が大いに役立った。恐怖という感情があるからこそ、危険を察知することができ、身体が逃げることを選択できるのだ。

・「怒り」をはじめとする様々な感情は、古来人間に備わる本能そのものであるため、自分では制御できない。

・大脳新皮質とは、知覚や計算、推測、運動の制御といった知性全般を管理する脳の重要な部位だ。その一部である前頭前野は、記憶や感情の制御など、とりわけ高度な精神活動をつかさどっている。

・喜怒哀楽という分類は言語的便宜性からつけられたにすぎず、実際にはもっと複雑で繊細な感情が、僕たちに渦巻いているのだ。

・感情のコントロールには、大脳新皮質、中でも前頭前野の機能が極めて重要になる。

・本や映画、音楽、様々な芸術に触れることは、前頭前野の訓練にすこぶる有効だ。さらに、いろいろな人とコミュニケーションをとることも経験の糧になる。そうした教養や経験が脳の内部モデルとなり、感受性を深め、怒りに対して「そんなこともあるよね」という心の余裕をはぐくむ。

・どんな感情でも長続きしないのは、脳科学的な事実だ。

・怒りや悲しみなどの感情と一体化するのではなく、「怒っている自分」と「それを客観的にみている自分」を分類することで、脳の安定状態を維持できる。

・何らかの事象があり、それに対してまず体が反応し根その反応に伴い感情が生まれる。この理論を提唱した二人の学者の名前にちなんで「ジェームズ=ランゲ説」と呼ぶ。

・落ち込んだとかに笑顔を作って心を軽くするように、形から入って感情をコントロールすることも、ある程度は可能かもしれない。

・人間関係についてまず理解しておきたいのが、他者とは決して分かり合えないという事実である。

・「わかり合えないこと」をわかっている。これだけで、人間関係はずいぶんと楽になるような気がする。

・分かり合えないことを前提としたうえでどのように他者と折り合っていくか。他者のことを完全に理解するのは不可能でも、僕たちの脳には元来、相手に共感しようとする能力が備わっている。

・内部モデルとは、簡単に言えば、過去の経験に基づき、自分の外の世界の仕組みを脳内でシミュレーションする神経機能のことだ。つまり、人との触れ合いとそれに伴う経験値、あるいは身に着けた教養が豊かなほど、内部モデルのデータベースも豊富に蓄積されていく。それに伴い「心の理論(他者の感情や言動を読み取ろうとする人間の性来の衝動)」も成熟され、共感の幅が広がり、他社の感情をくみ取ることができる脳が育成される。

・なぜ、「人の不幸は蜜の味」という感情がヒトの脳に備わっているのだろうか。人は昔、今よりもずっと小さく、閉鎖的なコミュニティで生きていた。そういう世界においては、個人の幸福は極めて相対的なものになる。たとえ儀、恋のライバルが不幸になれば自分が有利になるなど、他人の不幸で自分が幸福になるケースが現実に多かったため、脳も必然的に、そのような回路の進化を遂げたと考えられるしかしながら、コミュニティの数が拡大し、そのコミャニティ同士がつながるようになったグローバル社会では、「他人の不幸=自分の幸福」という単純な方程式は、もはや成立しなくなりつつある。だからこのような感情はなるべく切り捨てた方がよい。もし、このような感情に支配されたら、「自分にとって有益かどうか」という軸で考えて見てほしい。すると意外と、他人のことなどどうでもよくなって煩わしい感情から解放されるかもしれない。

・ヨナ・コンプレックス(自分に変化が訪れることに対する恐怖心)」という自己防衛の機能があることを理解して「本当はできるるのではないか」と自己を疑ってみることは、変化の大きな第一歩になる。あなたの可能性を低く見積もっているのはあなた自身であり、それを解放できるのもまた、あなた自身なのである。

・ナッシュ均衡とは、複数のプレーヤーが自分の利益を最も大きくすることを目的として戦略を選択した場合に生じる均衡状態のことを言う。例えば、社員の給料をもっと上げるべきだと内心思っていても、それを叫ぶことが、自分の立場的にマイナスになってしまう可能性がある。欠か、現状変えられず、ナッシュ均衡のジレンマに身を置くしか選択肢が名のなってしまう。

・様々なシーンでナッシュ均衡状態にることを理解し、自分らしさとは違う価値観に身を置いても、「そんなものだ」という気楽な気持ちで堪えること。現状に疑問を抱いているのは、決してあなただけではない。いつか多くの人と共有できることを願って、今は、そこにある自分の価値観を大切にしてほしい。

・人は集団に振り分けられただけで、自分が属する集団をひほかの集団を差別する可能性がある。たとえそれが、無意味で利害関係のない特徴を共有する集団で、そのひいきに大したメリットがないとしても、現実的に起こってしまっている。このような心境を呼び起こす背景には、自己への自尊心がある。自分が所属する集団をポジティブに評価することによって、自信への評価が高まることを期待してしまう。自分が所属する集団に感情的な意味合いが加われば加わるほど、人種や国民といったレベルで相手を過激に非難するようになってしまう。

・グローバル化が進み、人々の結びつきが国境を超える現代においては、「国」が持つ意味合いは絶対的なものではなくなってきている。

・養老先生曰く、個性とは、「発揮せよ、と言われなくても自然に身についているものであり、周囲が押さえその人に残っているもの人に残っているもの。」つまり、個性とは、自分がコントロールできる範囲外のもの。そして、無意識を耕すことによって、より思い道りに生きられると信じる。

・その人の人格や個性、あるいは無意識の領域については、出会った人や体験に大いに左右されるので、育ちや家庭環境はあまり問題ではない。どんな人でも、あなたが何歳でも、個性や無意識は耕していける。

・無意識へのアプローチとしてまず身に着けていただきたいのが、「全体を柔らかく俯瞰する視点」だ。要は、狭い範囲のことにあくせくしながら向き合うのではなく、可能な限りおおらかな気持ちで、物事全体を見つめるクセを付けてほしいのだ。

・ふと耳にした言葉や目にした言い回しで心を動かされたもの、なぜか気になったものをメモしておく。

・マインドフルネスとは、「今、ここ」で起きていることに対して注意を向け、自分が抱いている感情、思考を判断せずに、冷静に観察している心の状態のことだ。瞑想などは有効な手段の一つだ。マインドフルネスが完璧に自分のものになれば、「今、ここ」でやるべきことに100%の集中力を注ぐことができるようになる。

・「今、ここ」に目が行っていない人ほど、迷ったり悩んだりして八方ふさがりになってしまう傾向が強い。「仕事をやる意味は」「人生の目的とは」と大きなことは考えず、ひとまずは現状に集中すればよい。それが、マインドフルネスの神髄だ。

・マインドフルネス状態になることで、情報が整理され、頭がスッキリとクリアさらに、それぞれの情報や記憶が結び付きやすくなり、想像性が高まる。

・新しい情報を自分の知識として蓄えるプロセスは、脳が最もエネルギーを必要とするプロセス。

・情報を目で見て理解することと、それを自分のもとて消化することは全く別の作業。

・情報が過多なデジタル時代において、デジタルデトックスは定期的に必ず実践した方がよい。

・無意識を鍛える雑談。雑談は、いわば脳のマッサージである。「今、ここ」にある話題に意識を向け、オープンマインドでいるだけで、脳は自然と活性化していく。

・偉大なアーティストや企業の経営者にスピリチュアルなメンタルの持ち主が多い。音楽を作るにしても、事業を立ち上げるにしても、そこには絶対的な正解はない。先の見えない状況で不確定な選択をしなければならない際に、自らの直感やひらめきで行動することも少なくないはずだ。

・合理的には説明できない不確定な心理、つまり、「成功する根拠はないが、挑んでみよう」という野心的な意欲や妄信的な衝動が、時に大きな成功をもたらす。そして後に「成功の理由は?」と聞いても彼ら自身が明確な答えを持ち合わせていない場合が多い。だから、「あのときに毎朝トイレ掃除を欠かさなかったからトイレ掃除を欠かさなかったから」といったスピリチュアルな理由を付けることによって、無意識のうちに自分を納得させている。

・超常現象、あるいは第六感などの言葉から連想される「目に見えない世界で起きること」の本質は、無意識と密接にかかわっている。

・五感と六感の大きな違いは、その情報が外部からくるものなのか、内部からくるものなのか、という点である。第六感は、過去の経験などが無意識に蓄積されてて、それが判断に影響したという見方ができる。しかし、そのプロセスはあくまで無意識で行われているため、「見ない力」と解釈されるのだ。

・ダマシオは、体の内部から発生するシグナルを「体性感覚」と呼んだ。内臓や血液の状態、筋骨格の空間的位置情報、皮膚の表面感覚など、僕たちが意識しないところで、体性感覚は膨大な量の情報を脳に伝えている。その情報をもとに、第六感的な直観が働くようにできている。

・長い進化の歴史を鑑みれば、まず身体が形成され、その後、それをサポートするために進化したのが脳なのだ。何事も身体ありきで、SF漫画に描かれるような「水槽の脳」は、現実にはあり得ないということだ。

・これまで、ストレスや鬱などの原因は、脳内の神経伝達物質であるむセロトニン不足など、脳の状態が健康に影響を及ぼすと考えられていた。ところが最近の研究では、腸の健康状態によって、気分や感情に影響を及ぼすことがわかってきた。

・ストレスを感じるとおなかが痛くなり、便意をもよおすことがある。これは、脳が自律神経を通して、腸にストレスの情報を伝えるからだ。逆に、腸に病原菌が感染すると、腸管神経系を介して脳に伝わり、不安を感知する。このように、脳と腸はお互いに情報を交換し合い、影響を及ぼしあっている。

・ダマシオの研究では「体の声に耳を傾ける」ことの大切さを実感させられる。それは第六感とも直感ともいわれるものだが、スピリチュアルな文脈ではなく、糸の意識を司る極めて重要なモジュールとしての性質を、身体全体が兼ね備えているということなのだ。

・成功者にはスピリツュアルな人が多い。その理由については、彼らが直感やひらめきで行動することが多いからだ。言い方を変えれば、行動力のある人は成功しやすいということである。

・「自分が運がいい」と思っている人は、積極的に行動することが、様々な研究で分かっている。それはおそらく「運がいい人は行動力がある」のではなく、「行動力があるから運がいい」のだろう。

・「幸運が訪れるのを待っていればいい」は間違いで、それと出会うための準備をしておかなければならない。そして、それには行動、気づき(チャンスに気付く洞察力)、受容(革命や変化を受け入れること)が必要である。

・無意識は、あなたより、あなた自身のことを知っているのである。

・何かを続けようと思ったら、必要なのはやる気ではなく「習慣」である。

・やる気があろうがなかろうが、太陽が昇ったら「今日も仕事するか」と取り掛かるのであり、その無意識の行いが習慣化につながっていく。は様できなかったからダメというわけではなく、途切れ途切れでもかまわないから、とにかく続けること。三日坊主でも1000回繰り返せば、立派な習慣である。

・方向性が決まったらあとは淡々と続けるだけだ。続けることがなせ大切なのか。それは、脳が変化を嫌うものだからである。脳は基本的に安定性を重視し「いつも道り」をキープするようプログラムされている。「無意識を鍛えて明日から変わろう!」と思っても、簡単に人は変わるものではない。毎日の習慣で少しずつ脳に刺激を蓄積させていくことで、思考や意思決定を緩やかに、でも確実に変化していく。

・行動力があれば可能性も広がり、成功体験が増える。成功体験が増えればさらに行動力が増し、いわゆる「運がいい」スパイラルに入っていく。

・僕が行った研究では、スピリチュアルな思想を持つ人ほど、自由意志を強く感じていることが分かった。自分の意思に従って積極的に動く信念があるということだ。結局のところ、成功者にスピリチュアル-人が多いのは、これに尽きるのではないかと思う。他者や情報に流されず、なすべきことを自分で意思決定を下しているという点である。

・全く新しいものができたと思っていても、ゼロから発想しているのではなく、どちらかと言えば「思い出すこと」に近い感覚である。アイデアが「降りてきた」のではなく、自分の無意識の中から「探り当てた」という方が正しいのかもしれない。そういう意味では、ひらめきを得るためには、ベースとなる知識と経験が必要になる。

・「日常のルーティーン化」は、「今、ここ」への集中力を高めるのに有効である。・行動をある程度ルーティーン化することは、決断する機会を減らして脳の負担を減らすことに寄与し、脳科学的にもそのメリットが実証されている。優先順位が低い決定事項を決断する力を省エネ化することで、もっと重要なことに集中力を費やすことができる。

・歩きながら禅を組む「歩行禅」は、マインドフルネス状態になるのに有効だ。ひたすら無の境地で歩くことである。

・歩いたり走ったりという有酸素運動は、脳にいい影響を及ばすことが明らかになっている。前頭前野は、適度な有酸素運動によって鍛えられ、集中力や判断力の向上につながる。また、習慣的な運動は、自律神経の興奮を抑えられる。

・落書きは、想像力やひらめきをつかさどる右脳を活性化させ、左脳に偏りがちな脳の働きを回復させる。それによって、記憶の定着、発想力や思考力の向上など脳への様々な良い効果につながることが期待できる。

・サニー・ブラウン曰く、「落書きとは、思考を促すために思いのまま描くこと」

・読書は、無意識を耕すのに極めて有力なツールである。そして、集中力を養うツールとしても有用。

・脳にとって読書は、総合的かつ抽象的な刺激である。読書を通して五感の刺激が触発され、それらを言葉を通して整理することは、脳の最も高度な働きの一つでもある。さらに、本を読むときは、頭の中で何かしらのイメージをするが、その行為自体が、抽象的な思考力を高めるのに糸役買っている。深い集中力の中で、言語とイメージの両面から情報を組み立てる脳の神経活動が、知性のスペクトラムを形成する。

・日本では「学力=知性」というイメージがあるが、本当の意味での知性とは、こうした教養の幅広そを言うのではないかと思う。

・教養を蓄えることは個性を磨くことである。あなたが何歳でも、どんな人生を歩んでいようと、教養を身につけることは十分に可能だ。そうして無意識を耕すことが、本当の意味での「自分らしさ」につながってく。

・脳科学的に言うと、実は、自由意志(人が自発的に行為を決定する意思の在り方)の存在は否定されている。脳、そしてそれとつながった身体の活動は、因果的な自然法則にしたがったに過ぎない。わかりやすく表現すると、あなたの行動はすべて、意思ではなく脳が決定しているといえる。脳という多様な分子から成る組織の中では、きわめて複雑で物質的な神経活動が行われており、そこに「意思」が介入するということは科学的に証明できない。

・自由意志という幻想を信じることは、人間だけに与えられた最大のギフトと考えることもできる。そもそも、自由意志が存在するという前提がないと人はまともに生きていくことができない。日々の行動や意思決定が,自分ではなくほかのだれか(=脳)によるものという認識では、正常な精神状態を保てなくなってしまうだろう。ハーバード大学のダニエル・ウェグナーは、自由意志を「脳の最大のトリック」と表現したが、そういう意味では、自由意志を信じることは脳が健康な状態であることの証である。そして当然、「私は私の意思で、自由に選択して生きている」という獣医師の本質的な概念が、人の類まれなる感性を育み、人生をキラキラと輝かせている。

・自由意志の存在を否定することで享受できるメリットもある。それは根すべての決定権が脳にある以上、自分も他人もそう簡単には変われないという客観的事実を理解できることだ。脳は、その人の育った環境や経験を土壌とし、それに伴った意思決定を下すことしかできない。これを理解できれば、自分にも他人にも過度に期待することもなくなって、かえって気楽で自由な心持になれるのではないだろうか。

・基本的に、脳は安定を求めるものであるから、それを変えるためには長期的なプロセスが必要になる。「こうなりたい」という願望があるなら、本を読むなり、人と会うなりして様々な情報を脳に送り、無意識の領域へアプローチを地道に続けていくしかない。

・自由意志という幻想を打ち破ることはつまり、「なりたい自分」への努力を積み重ねていくことに他ならない。