・満州事変以降の戦争を一連の行為としてとらえる立場は、連合国共通の基本方針であり、極東裁判所は、この方針に基づき、満州事変以来の戦争犯罪について責任を問うた。
・極東裁判については、戦勝国が自分たちの責任を棚上げにして敗戦国の責任の実を一方的に問うている点、事後法による処罰が罪刑法定主義に触れる点など、政治上、法律上の問題を含んでいる。
・聖人として戦争の惨苦を味わった人々は、直接な感情を頼って批判的結論を持つことができても、その体験を持たない次の世代が成人になったときには、その批判は洗い流されてしまう。
・日本をアメリカの反共軍事陣営の一環として再編成するために、再軍備とアメリカへの軍事的従属が強化されていく。
・1946年の文部省の「新教育方針」には、「満州事変以来の日本は、内に民主主義に反する政治や経済を行ったと同時に、外に国際民主主義に反する行動をとった。こうした態度がやがて太平洋戦争の原因になったのであり、我々は今後再びこのような過ちを犯してはならない。
・1953年以降、この戦争に対する文部省の公式見解が変わり、1963年に自著の高等学校日本史教科書が検定で不合格になった。

・1920年代の世界恐慌の中で、日本の資本主義も深刻な危機に見まわれ、その打開の一策として海外侵略の道がとられた。
・封建的武力征服イデオロギーが、明治初年の征韓論に潜在的な結びつきを有し、さらに、大正、昭和の侵略イデオロギーの起源をなすことは否定できないのではないか。
・アジア、アフリカ等の植民地の帝国主義的支配を正当の権利と確信していた欧米の白人心理と全く同じで、日清、日露の両戦争で日本が犠牲を払ってこれら中国領土を植民地ないし半植民地として獲得したという歴史が、日本人をして、あたかも日本がこれら中国領土を帝国主義的に支配する当然の権利を有するものであるかのごとき心理を抱かせる根拠となった。
・中国進出論の背後には、中国人に対する日清戦争以来の伝統的侮蔑意識が横たわっていた。
・石原構想は、中国民族の先天的劣等生と日本民族の先天的優秀性と言うドグマを前提として、低開発状態に固定した隣接諸民族の上に帝国主義日本を君臨させるという「大東亜共栄圏」の理想を赤裸々に表現している。

・日本国民が、対中国人、朝鮮人意識の歪みを反省できず、帝国主義的政策とそれから生ずる戦争について批判的、否定的な考えを持ち得なかったのは、国民の意識が、国家権力の統制によって画一化されてしまったことに決定的な条件があったと考えられる。
・戦前の日本国民は、表現の自由の権利をかつて一度も享受したことはない。
・戦争に対する否定的、批判的な思想の表現はもとより、そのような思想を形成するために必要な報道までも困難な条件の下では、国民はおのずから権力の志向する軍国主義の方向にのみその視野と思索とを限定されることを免れなかった。
・警察官、検察等の権力執行機関が、反体制思想の持主、反体制運動の参加者に対して、法令に反した職権乱用の犯罪に該当する方法まで用いて直接人身の自由を侵害することにより、国民を威嚇し委縮させた。
・国民の大多数の思想を軍国主義の方向に画一化する積極的作用を演じたものは、公教育の力であった。

・民主主義政治と人権保障の憲法を求めた民権運動を鎮圧し、天皇制絶対主義憲法を制定した国家権力は、天皇を単に政治的な元首としてではなく、神話に由来する神聖な権威をもつ君主として国民に崇敬させ、同時に天皇を元首とする権力への無条件服従の心情を植え付けようとした。
・戦前の国民に好戦的な心情を培い、戦争に対する批判的否定的意識を持つことを困難ならしめたのは、軍国主義的教育内容だけの力でなく、教育全体が文部省の強力な統制下において画一化され、総じて科学的に社会を見る目を養い、特に権力に対する批判の精神を身に着ける人間を形成することがほとんどできないような実情であったところに根本の原因が求められる。
・戦前にあっては、治安立法による表現の自由の厳しい抑制と公教育の画一化とが相まって、国民の意識の自由な成長と活動とを妨害することにより、無謀な戦争に対する国民の下からの抵抗の素地を事前に摘み取っていたのであって、そこに戦争を阻止し得なかった決定的な条件が横たわっていた。

・著者自身、高校入学直後まで、公教育により注入された軍国主義イデオロギーをそのまま疑うことなく受け入れ、高校の友人たちとの交流の中でその呪縛から解放されるが、それでも、社会に関する基本問題に関し、幼少年時代以来の教育の影響の残滓を洗い落とすためには、その後さらに20年近い日子を必要とした。
・1878年、参謀本部が陸軍省から独立した機関として発足して以来、軍の統帥は、一般政務と別系統の独立の作用となり、いわゆる統帥権の独立の制度が成立した。
・1900年以来、陸海軍大臣は現役将校を持って充てられることが決められた。そしてこれは、軍出身の大臣を辞職させたり、軍の大臣を出すのを拒んだりして、内閣を倒したり、組閣を妨げる力を発揮した。
・統帥権の独立が、軍部の軍事政策を進めるための最も有効な制度上の武器として利用された。
・統帥事項に関して、天皇が首相と外相にのみ必要なことを伝えるだけで、首相側が意見を述べることは許されなかった。
・軍は、統帥権を乱用し、政府に十分な情報を与えず、軍の独断専行を継続した。
・陸軍と海軍とがそれぞれ別個に統帥権を保持していたので、互いの機密情報を知らなかった。

・軍は独立の地位を利用し、積極的に一般国務をも軍の遺志に従属させようとした。
・国務大臣の専管輔弼事項と解するほかない宣戦、講和大権の行使までが、参謀総長、軍令部総長の同意を必要とする憲法違反の慣行を成立させるに至った。
・軍は、国政を暴力的脅迫ないし実際の暴力行為を交えながら、その良くする方向へ引っ張って行った。
・軍の内部から反乱計画が相次いで発生し実行されたという事実は、軍が完全な統制力を失っていたことを物語る。
・軍首脳部は、関東軍を十分にコントロールすることができなかった。
・軍の政治への逆介入も、その多くは部内中堅層等の政治介入熱をエネルギーとしてなされたものであり、本来ならばそれを抑制する義務輔追っているはずの陸軍大臣らが彼らに動かされてその代弁者となる「下剋上」現象でもあった。
・積極論者が過失を犯した場合、人事当局は大目に見た。一方、自重論者は卑怯者扱いされがちで、その上もしも過失を犯せば手厳しく責任を追及された。

・無反省、無責任の軍人たちが、法を無視し、統制を破り、粗雑な頭脳で考えた無謀な計画に従って国家を自分たちの意図する方向に引っ張っていくことのできるメカニズム、それが日本を破局的な戦争に追い込む重要な条件の一つとなった。
・軍が日本を暴走させたのは、軍人の意識を規定する軍の在り方、その体質とでもいうべきものにその根源があった。
・明治維新が下からの民衆の政治的自覚に基づく社会革命としてされたのではなく、上から天皇主権体制を作り出す形で行われた絶対主義国家形成への動きであったことの当然の結果として明治の新軍隊は、新国家の官僚としての将校ともっぱら貧農層から徴集された兵卒との二階級から組織される権力機構だった。そして、それは、下位の上位に対する絶対服従による統属関係によってはじめてその機構の存立と運用とが維持されるものであったから、それは、非民主的な人間集団たることを免れない性格を個有していた。
・日本軍の行き過ぎた精神主義が、科学的合理性を生命とする米英軍との戦闘において、いたずらに無用の犠牲を続出させる原因となった。

・捕虜となって生命を全うすることを日本軍は許さなかった。
・軍隊内の教育、訓練、日常生活くらい人権無視の極端な世界はないのであって、そこに、日本軍の在り方の特色がもっとも集約的に示されていた。
・表面上は禁止されている私的制裁が公然の秘密として日常の茶飯事と化していた軍隊という世界は、非合法の職権乱用による逮捕、拘禁、拷問が公然とまかり通り、拷問部屋を持つ警察と並んで、戦前の日本における二大無法地帯のひとつを形成していた。
・非人間的な取り扱いを上官から受け、兇猛な戦力として飼育された兵が、戦闘時の強兵となるばかりでなく、捕虜や現地非戦闘員に対する残虐を好んで行う副次的効果を伴う事は不可避だった。
・下士官たちは概ね貧農層出身であり、百姓としての労働より、軍隊生活の方が魅力が大きかった。非人間的な方法で勇猛な戦士の再生産を継続できた日本軍の「強さ」の根源は、そうした非人間的な世界よりもはるかに非人間的な生活を余儀なくされていた日本の農村の貧しさにあると言える。

・中国民衆の半植民地的状態から脱出しようとする要求が高まり、1927年には、南京に蒋介石を主席とする国民政府が樹立された。その国民政府は、共産党鎮圧の内戦を開始。毛沢東率いる共産党は、着実に開放区の形成に取り掛かり、1931年には毛を主席とするソヴィエト臨時政府を創立した。
・軍は、武力をもって中国を圧服することしか考えていなかった。
・1931年9月18日、満州を占領したい日本軍は、周到な準備の下に自らの手で柳条湖において満鉄の鉄道線を爆破、これを中国兵の仕業とし、これをきっかけとして関東軍は満州全面占領のために実力行使をした。
・満州事変は、国際法のみならず国内法に照らしても違法であった。しかし、出先軍の不法な独断行動の累積によって既成事実が出来上がってしまうと陸軍中央部はもとより、内閣もまたこれを追認した。もしこの時、内閣が決死の覚悟をもって関東軍の暴走を抑制する強硬措置を取っていたら、犠牲者が出ることは免れなかったとしても、其の後の事態はよほど違っていたに違いない。
・満州制服によって日本は、中国を否応なく敵対的地位に追い詰めてしまった。

・ひとたび侵略が開始されれば、其のエスカレーションを食い止めることの困難なのはいつの時代も同じ。
・満州侵略に成功したが、それだけでは満足せず、満州から蒙古、華北へと軍事的支配地を拡大していくことにより自ら墓穴を掘った。
・1937年7月、盧溝橋での日中両軍の衝突から日中全面戦争に突入した。この時の首相は官僚内閣で近衛文麿であり、以前から対外積極主義だった。
・対ソ前線基地としての「満州国」の育成に専念すべきで、中国全土での戦争を望んでいない郡内の意見もあった。
・満州国を維持し、中国の「赤化」を阻止するのが、軍の実ならず、すべての日本の支配者の譲れぬ一線だった。
・蒋政権との和平交渉は繰り返されたが、その時障害となったのは、中国政府の「満州国」承認と日本軍の「防共駐兵」であった。
・日中戦争は、経済的要素もさることながら、対ソ、対共産主義に対する予防戦争という性格が強かった。
・蒋の国民政府は、機会さえあれば、日本と講和して共産党討伐に専念することを希望していた。
・蒋政権は、本来、日本やナチスドイツとともに反共戦線に参加すべき性格の政権だった。

・ABCD包囲網以前は、欧米諸国の支配層の中に、日本を極東における共産主義の防波堤として、日本の満州侵略に理解を示した人たちは少なからずいた。
・1940年9月、日本はドイチ、イタリアと三国同盟を結び世界的な規模におけるファシズム戦線の一環としての地位に立った。これは、非ファシズム資本主義諸国と国際共産主義との両社との対立に自ら進み入ったもの。
・日本の戦争推進勢力の間には、ソ連攻撃を実行しようという伝統的な考え方の他に、列強の東南アジア、太平洋上の諸植民地を侵略して南方への帝国主義的発展を先にしたいという新たな意図が生じ、両社いずれを先にすべきかの対立が形作られてきた。
・ノモハンにて、日本軍がソ連に大敗を喫したのは、日本軍の装備が時代遅れなのはさることながら、相手を過少評価していたこともある。
・共産主義と思想的に競争するのではなく、暴力をもってその粉砕をはかろうとするのがブルジョワ資本主義からファシズムを区別する基本的な標識であるとすれば、日本が続けてきた戦争はファシズム戦争と呼ばれるに値する。其れは、国内改革においても暴力的に共産主義弾圧を強行し続けてきたことと精密に対応する。

・日本軍が終始中国全土を制圧しているような状態を呈しながら、最後まで中国を屈服させることが出来なかったのは、日本の戦争推進勢力の中に、中国の歴史的変化を認識する能力鳴く、中国蔑視観念から中国を過小評価していたから。
・当時の日本は、日本国民の表現の自由を徹底的に弾圧し、少数意見を非国民的論として封殺し、非科学的な狂信のみを力ずくで押し通す政策を強行していた。
・1935年、中国共産党は、抗日のためには、従来の革命活動を中止して国民党との統一をも辞さない方針を取った。
・共産軍は、国民政府の指揮下に編入され八路軍、新四軍となった。彼らは農民の生活を向上させ、民主的権利を確保することにより農民の支持を得、其の規律の高さや柔軟な戦い方で日本軍を苦しめた。
・中国において主たる敵は、国民政府軍ではなく共産軍であった。共産軍機民主的であったからこそ兵や農民の支持を得、真に愛国心を持ち、日本の侵略に抵抗できた。
・民主主義のみが国家の危機に際して真に愛国心を喚起し、民族的自覚を高めて侵略に抵抗する戦力に転嫁する。換言すれば、デモクラシーに裏付けられるときにのみ真のナショナリズムが育成される。

・中国で民主主義が培養されつつあった同時期に、日本では民主主義が絶滅させられていた。
・国策に否定的な言論、出版、集会、結社をことごとく抹消し、御用団体を最大限に活動させて戦争に国民を動員させた。
・改正治安維持法、国防安保法、戦時刑事特別法などにおいて国策反対勢力に対して刑事裁判手続き簡略化規定を設けることにより、司法弾圧を容易にした。
・内閣情報局と言う強力な言論統制期間は、日本のマスメディアを権力の欲するままに操縦した。
・映画は、戦争政策の宣伝手段として国家の政治目的に利用された。
・真実の報道が消極的に抑制されるだけでなく、権力者は、国民の戦意を鼓舞するために架空の創作もした。
・1941年に小学校が「皇国ノ道ニ則リ」「国民ノ基礎的錬成ヲ為スコトヲ目的トス」る国民学校に改められた。
・あらゆる教材が、皇国思想と軍国主義とに塗りつぶされた。
・1940年7月に政友会が、8月に民政党が解党し、政党政治が幕を閉じた。
・日本のファシズムは、軍人とか官僚とかその手先に過ぎない民間右翼とかの天下り組織であった。

・1940年7月、近衛文麿を中心とする新体制運動の結果、大政翼賛会が結成された。ナチスドイツを真似、議決方式を取らず総裁が最終決定を下すこととした。しかし、軍部、官僚、財閥、既成政党など支配層各グループはそれぞれ異なる思惑を持っており、呉越同舟的組織であった。1941年2月には公事結社と認定され政治活動禁止、同年4月に改組。1942年に東條内閣が大政翼賛会の実践団体として大日本翼賛壮年団を結成、「翼賛選挙」で圧勝し、「翼賛会体制」を確立し、大日本産業報国会、大日本婦人会などの官製国民運動六団体を傘下に糾合、町内会、部落会を組み入れ、行政組織と国民運動をまとめ上げた。ここに日本ファシズムの国民支配組織が確立し、憲兵支配の強化と相まって、治安対策的にはほぼ完ぺきな権力支配が実現した。しかし、本土決戦体制移行に伴い1945年6月13日に解散し、国民義勇隊に引き継がれた。
・憲兵とは、軍事組織内の警察活動を行う兵であるが、日本において大規模な増員が行われ、全国の市町村にまで配置されるようになり、公安維持の領域まで活動範囲を拡大した。

・1938年、「国内におけろすべての人的、物的資源を統制、運用する権限が政府にある。」を主旨とする国家総動員法が成立した。政府は、議会の承認を得ずとも「勅令」で労働力や物資をできるようになった。「勅令」とは、天皇が発する法的効力のある命令で、その代表例が「国民徴用令」。それにより、16~44歳の男性、16~24歳の女性を強制的に軍需産業に従事させることができ、1939年に公布された。このほかにも、国民の経済の自由や言論の自由を奪う勅令が次々に公布された。
・特別高等警察趣(特高)とは、国体護持のために、無政府主義者、社会主義者および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察、内定し、取り締まることを目的に1911年に警視庁に設けられ、1928年に全国一律に設置された。
・日本のファシズムは、警察と憲兵による力による弾圧によって国民を威嚇し、国民の自由を破壊した。
・1933年、プロレタリア作家小林多喜二は、築地警察署で刑事たちから集団暴行を受け殺された。
・戦争遂行に妨げとなると目せられた人々は、法を無視した手続きで逮捕、拘禁され、拷問を加えられる場合もあった。

・官憲の周到に張り巡らされたスパイ網の世の中で、国民は一言一行もゆるがせにできなかった。
・あらゆる日常生活が隅々まで統制され、反逆を企てる隙もないほどに権力の意図が貫徹していた。
・裁判所もまた、国民の弾圧に協力していて、裁判官を含むすべての国家権力が総力を挙げて国民の自由と権利を徹底的に粉砕した。
・ゾルゲ事件とは、ソ連のスパイ組織が日本国内で日本国内でスパイ活動を行っていたとして、1941年4月から1942年にかけてその構成員が逮捕された事件。この組織の中には、近衛内閣のブレーンだった元朝日新聞記者の尾崎秀美もいた。スパイの主導者ゾルゲと共に1944年に処刑された。
・国民の耳をふさぎ、口を封じた結果は、権力者自らが見るべき目、聞くべき耳を失う結果となった。
・人権感覚の欠如が戦争の原因となり、戦争の激化が人権無視をさらにひどくした。
・陸軍は「個人ノ生命、財産等ノ安全ヲ唯一ノ目標ト為スニアラズ。国防ノ為ニハ寧ロ之ヲ犠牲トナスコト少ナカラズ。」と明言した。
・1930年代前半の戦争初期の数年間は、たとえ限定されて範囲の人々であったとしても、反戦思想の宣伝が活発に行われていた。

・共産党は、戦争反対を平和主義的戦争反対としてではなく、労働者農民の政府樹立の闘争と位置付けたため、多くの支持を得られなかった。
・言論界では、弾圧に屈してというだけでなく、自ら進んで大勢に順応する動きが加速度的に進み、大勢は急角度に軍国主義支持の方向に傾斜していった。
・マルクス主義者の側にも、有効な反戦の組織と運動とを展開する戦略、戦術を創造し得なかったのは、致命的欠陥と合わせて、戦争阻止失敗の消極的責任がある。
・ジャーナリズムは、初期の批判的姿勢を失って権力の指導に追随した。そして、戦争を煽る多数の便乗学者も出た。文壇や論壇でも「偽装転向」の例もあったが、好んで権力に迎合したものも多くいた。
・言論界が「聖戦」と鼓舞し、新聞には「無敵皇軍」の字が躍る中、真実と直言とを見聞する機会を奪われた客観的状況の中で、国民大衆が戦争に熱心に協力する気持ちとなっていったのは、不可避だった。
・ある日記の言葉「言下において、一番の苦痛は、低劣なる議論に対して何らの批判も加えられないことである。それがますます世論を堕落させる。」

・あたかも社会全体が軍隊同様の状態に変していった戦時下で、軍隊の内務班的秩序が逆に市民間に還流して、いたるところに下士官的「愛国者」が出てきた。その多くが、小商店主や町工場主とか小自作農とか役場の吏員とかの、支配権力者や社会層の上級の人々に対してはコンプレックスを持たざるを得ない境遇にありながら、平素から小単位における家父長的地位にたっていた人々であった。
・一般市民が「愛国者」と呼ばれる人たちに叱咤されつつ、そして時にはその行き過ぎち叱咤に反感を覚えながら、結局は戦争に協力しなければならなかった。
・現実に家族を戦地に送り出し、そして家族の死を告げられた家族、または、物資の窮乏と戦況の悪化の中で生活を破壊された人々は、戦争に心から協力できない側面があった。
・大多数の国民が千うに協力しているさなか、敢然と戦争に反対の態度を堅持した人々が少数ながらいた。

・戦火の中でいつまで生きていられるかわからないという切迫した状況の下で、残されたわずかに時間を最大限に充実させて生き抜こうという真剣な生活態度と共に、どうせ長くは生きられないんだから、今のうちにしたい放題のことをしておこう、あるいは、逆に今更もう何もする気がないという自暴自棄的な態度も存在した。
・いったん戦争を始めたら、戦果を維持するために限りないエスカレーションが必要となる。
・中国との戦争を完遂するには、ソ連を撃破して北からの脅威を除き、東南アジアや西太平洋の資源を把握する必要があった。そのため、欧米諸国との戦争を回避することができなくなってしまった。
・戦争の本質として「無限界性」が在し、ただ現実の政治的諸条件がこれを阻止できる機能を有する。
・1940年9月、日本は、ドイツとの戦いに敗れたフランスを強要しフランス領インドシナ北部への駐兵を承認させた。これは中国への援助物資を遮断し、日本軍の軍事上の便宜および物質を提供させることを目的とするものであった。
・1941年7月28、29日にフランス側の屈服によりインドシナ南部への無血進駐の目的を達した。

・オランダ領インドシナは、石油やそのほか重要物資の大量生産地とであったから、日本が戦争を継続していく以上、そこを支配下に置くことは必要だった。
・日本が中国の侵略を続け、ドイツ、イタリアと軍事同盟を結んでいる限り、アメリカかからすれば目視できない所であり、イギリス、オランダと共に日本に対して対抗の姿勢を取った。
・1941年7月に、米、英、オランダが日本資産の凍結を行い、8月には、アメリカの対日石油輸出禁止措置が取られた。1939年にアメリカが日米通商条約の破棄を通告、イギリスも資産凍結と共に日英通商条約破棄を通告し、いわゆるABCD包囲ラインが形作られた。
・ABCD包囲ラインが日本を南方資源支配のための行動に駆り立てた一因となったが、その行動がまた米英等を脅威にするという循環作用を深めた。
・米英との開戦は、中国支配の維持を究極の目的とし、そのために必要な石油獲得を目的として決行されたとみるべき。
・海軍上層部は、米との開戦に自信はなく、米との戦争に反対の意見もあったが、戦争を阻止すれば陸軍内の戦争推進勢力が反乱を起こすことを恐れた。

・1941年11月26日、ハル国務長官から中国、インドシナからの無条件撤兵などを要求する強硬な覚書(ハル・ノート)が日本に提示された。米国は、対日譲歩の余地を大きく残すことを考えたが、中国と英国がそれに反対した。
・「四年に及ぶ支那事変の犠牲を無視できない。」と言う理由でハル・ノートに応じられない日本は米英との開戦を決意した。
・日本は真珠湾攻撃開戦の寸前に交渉打ち切りをアメリカ国務省に通告する予定であったが、駐米大使館員の手落ちのため通告文の作成が遅れ、日本の駐米大使が春国務長官を訪問したときは、既に真珠湾奇襲の通報を接受した後であった。したがって、日本が計画的にだまし討ちを行ったと非難するのは当たらないが、この文章には、単に交渉の打ち切りが宣言されているのみで開戦の意志は明示されておらず、イギリスに対しては、攻撃開始8時間後に宣戦の詔書を公にした。
・アメリカは、日本が奇襲攻撃を仕掛けてくることをほぼ探知していてたにもかかわらず、真珠湾攻撃を予想していなかった結果、不意を打たれて日本に大戦果をあげさせてしまった。

・アメリカにとって日本の奇襲攻撃は、これまで戦争に反対していた勢力を賛成にし、米国民に「Remember Pearl Harbor」という対日報復戦完遂の決意を固くさせる効果を生み出し、イギリスとっては、これまで参戦を引き延ばしてきたアメリカの巨大戦力を初めて共同の戦闘に加えることができ、独伊の撃滅、日本の孤立化と敗北の見通しを立て得ることができた。大局的には、真珠湾の局部的勝利がかえって連合国に大きな利益を与えるという、日本側にとって思いもよらぬ結果となった。
・対米戦争継続の可能性は、オランダ領インドシナからの石油の必要量を輸送できるかどうか、そのための輸送船の必要量を敵の攻撃による消耗を見込んだうえでなお維持できるかどうかにかかっていたが、どうか責任計画部局の計算は、極めて甘かった。
・自分たちの偏見に迎合する非客観的な情報と意見に取り巻かれていた日本の権力者たちは、総じて日本の国力に対する過信と敵の過小評価が支配的であった。

・アメリカにとって日本の奇襲攻撃は、これまで戦争に反対していた勢力を賛成にし、米国民に「Remember Pearl Harbor」という対日報復戦完遂の決意を固くさせる効果を生み出し、イギリスとっては、これまで参戦を引き延ばしてきたアメリカの巨大戦力を初めて共同の戦闘に加えることができ、独伊の撃滅、日本の孤立化と敗北の見通しを立て得ることができた。大局的には、真珠湾の局部的勝利がかえって連合国に大きな利益を与えるという、日本側にとって思いもよらぬ結果となった。
・対米戦争継続の可能性は、オランダ領インドシナからの石油の必要量を輸送できるかどうか、そのための輸送船の必要量を敵の攻撃による消耗を見込んだうえでなお維持できるかどうかにかかっていたが、どうか責任計画部局の計算は、極めて甘かった。
・自分たちの偏見に迎合する非客観的な情報と意見に取り巻かれていた日本の権力者たちは、総じて日本の国力に対する過信と敵の過小評価が支配的であった。

・真珠湾攻撃で一躍名を成した山本五十六の提案により反対を押し切って強行されたミッドウェー占領作戦において、アメリカ航空艦隊の先制攻撃を受けた日本艦隊は、米航空機の奇襲攻撃のため虎の子の航空母艦四隻を一挙に失い、挽回することのできない大損害を喫した。これをもって日本の攻勢は挫折し、連合軍の犯行が予想よりも早く開始されることになった。
・日本がミッドウェー海戦で負けた主な理由は、作戦目的が曖昧だったこ、暗号が解読されていたこと、指揮官の判断ミス。
・1942年8月7日には、日本の軍首脳の想定より早く米軍がガダルカナル島上陸を開始し、制空権を失った日本の地上部隊は、食糧の補給も思うようにならぬ飢餓状態に陥り、莫大な犠牲を払ったのち、12月31日にガダルカナル島蜂起の決定を下した。
・アリューシャン諸島の日本の守備隊は、本土からの救援を得られず、米軍に全滅させられていった。これを当局は「玉砕」と呼んだ。

・1942年11月下旬、激戦を繰り返していたスターニングラードにおいてソ連軍が反攻に転じ、1943年2月にドイツ軍を降伏させた。1943年7月に、イタリアで政変が起こり、ムッソリーニが失脚し連合国に降伏した。1943年11月27日、米、中、英首脳の連名でカイロ宣言が発せられ、日本の無条件降伏を勝ち取るまで戦い続ける意思を表明した。同年11月28日から開かれたテヘラン会談では、ソ連首相スターリンが、ドイツを完全に撃破したのちに対日戦争に参加するという極秘の意向を米英首脳に伝えた。日本の軍部が期待した連合国の分裂は、連合国完勝までは決定的な段階にならなかった。
・アメリカ空軍の圧倒的な優勢によって太平洋上の制海権を奪われた日本海軍は、手も足も出なかった。
・日本艦隊は、巨砲九門を装備した世界最大の戦艦、大和、武蔵を持っていたが、航空機の飛躍的な発達の下では、大艦巨砲は、昔日の威力を失った。

・1944年6月、アリアナ沖海戦で傷手を受けた日本艦隊は、同年10月、米軍のフィリピン上陸を妨害するために決行されたレイテ沖海戦で致命的な敗戦を喫し、海上艦隊は全滅同然となった。同年11月には、世界最大の航空母艦が竣工したが、出航直後紀州沖で米潜水艦にあっけなく撃沈されてしまった。
・陸上では、ビルマ方面の作戦で、日本軍は惨憺たる敗北をした。1944年3月、インパール攻略作戦を強行。食糧の補給計画もなく装備も貧弱な日本軍は、険阻な未開発の山野の広大な地域を進軍。対する英印軍は、航空機の救援と弾薬、食糧の大量補給を続けるという立体的戦術をもって反撃して日本軍を圧倒した。前線の師団長が、補給の無い絶望的な戦闘を続けることを拒み、繰り返し撤退することを懇願するも、上層部はこれを一蹴し抗戦継続を強要した。7月に入り、ついに全軍撤退のやむなきに至ったが、兵力10万のうち5万を失い、残り半分も患者と言う惨憺なる結果となった。この無謀極まる作戦こそ太平洋戦争の縮図と言うべきであろう。1945年5月、日本に与えていたビルマ軍も反旗を翻しラングーンが陥落、ビルマは奪還された。

・1944年10月、アメリカ軍は、フィリピン奪還すべくレイテ島に、1945年1月にはルソン島に上陸を開始。フィリピンは、ゲリラ戦を行ってアメリカ軍と協力し、日本軍は敗残兵となって山奥に追い詰められ、飢餓と敵襲に悩まされながらガダルカナル以上の悲惨な状況の中で敗戦を迎えた。
・1944年7月、サイパン島の日本軍守備隊は、力尽きて壊滅。サイパンの陥落は、米空軍の日本本土への直接爆撃を可能にし、その打撃は甚大であった。
・1944年7月、首相と参謀総長を兼任していた東條は、其の無能と暴政とに対する不満の高まりを受けてた。そして、元首相級の重臣が結束して東條内閣を総辞職に追い込んだ。次の内閣は、統帥権の独立の壁を破ることができず、戦争終結を口に出すことさえできなかった。
・1944年11月には、アリアナの米軍基地から進発したB29爆撃機80機が東京を空襲したのをはじめ、日本上空は、米空軍の自由な飛行に任せるほかないありさまとなった。

・硫黄島も一カ月近い激戦の末、1945年3月22日頃に日本軍が全滅し米軍の手に帰した。これにより、米航空隊の日本本土空襲は容易となり、同年3月10日、5月24、25日の大空襲で東京の主要部分は焦土となり、名古屋、大阪、横浜、神戸等も同様に焼かれ、6月以降は、地方小都市も空襲のために焼かれていった。
・1945年4月には、アメリカ軍は沖縄に上陸を始めた。日本軍は、レイテ攻防戦以来採用した特攻機の発進以外沖縄を防衛する手立てがなく、成功の見込みのない乱暴な計画に対する艦隊側の反対を押し切りとっておきの戦艦大和出撃させたが、九州沖をでたばかりで米空軍の集中攻撃により撃沈され、日本艦隊の最後となった。沖縄の守備隊は沖縄本島の南部に追い詰められ、1945年6月に日本軍約10万人が戦死して抗戦は割りを告げ、日本本土の一角が米軍に占領された。
・1944年6月、連合軍がフランス北岸ノルマンディーに上陸し、ドイツを東西から襲撃する体制が整った。8月にはフランス市民の武装蜂起がきっかけとなりパリが解放された。

・イタリアは、降伏後ドイツに占領されたが、1945年4月にはムッソリーニがパルチザンに殺され、イタリア市民はドイツ軍を打ち破り、連合軍の侵攻に先立ち自らの手でイタリアの解放を開始した。
・1945年4月、ソ連軍はベルリンに突入、ヒットラーは自殺し、5月にドイツ軍は無条件降伏をした。これ以後日本は全く孤立の状態になり、日本に対して宣戦をした国は50数か国にのぼった。
・1945年2月、連合国首脳はヤルタで会談し、アメリカの希望を受けソ連は正式に対日参戦を約束し、アメリカ等は、ソ連に樺太、千島列島を与えるという交換条件を認め密約が成立した。
・1945年2月、米英中三国はポツダムで日本に対し降伏の条件を示した。鈴木内閣は、戦争を終結させるという含みであったにもかかわらず、鈴木はポツダム宣言を「黙殺する」と発表したため、連合軍は日本があくまでも抗戦を続けると判断した。

・アメリカは秘密裏に原子爆弾を完成させ、日本の抗戦意志をくじき、米軍の犠牲を少なくするためと言う理由で、一部関係者の反対を押し切って、1945年8月6日に広島、8月9日に原子爆弾を投下した。ソ連はヤルタ会談に従い8月8日に対日開戦を通告、満州、朝鮮北部、樺太等において一斉に進軍を開始してきた。
・原子爆弾の投下とソ連の対日開戦は、頑強な戦争推進勢力に大きな衝撃を与えたが、既に南方からの必要物資は、米潜水艦の活動と日本沿岸への空中からの機雷投下でほとんど輸送できない状態になっていた。石油や物を作る資源もなく、空爆により軍事工場は破壊されもはや戦える状態ではなかったにもかかわらず、陸軍は、中年や体格の劣悪な国民兵役の市民までも招集、彼らに持たせる銃もなく、陸軍は内地決戦を呼号するだけであった。
・権力者は、自らの誤算の責任を国民に転嫁し、「われら忠誠に足らざるなきか」などと言わせつつ、いたずらに無益な犠牲を続出させてきた。
・アメリカの巨大な経済力、生産力の前に敗北したのは事実であるが、そもそも特攻戦術などを思い付くような人権無視の思考様式が万事につけて禍根をなしていた。

・自由の雰囲気と活気に満ちていたアメリカを単なる物質万能主義の国と誤認し、非人道的なナチスドイツを「盟邦」と頼んでその力ょ過信し、民主主義の精神が独裁と圧制によって無理やり作ら出した「愛国心」よりもはるかに有効な戦力に転じうるのを認識できなかったところに、一層深い敗因の根源があった。
・日中戦争以後降伏までの日本の軍人の戦死、戦病死者数は、行方不明者数万の他に約233万に達するという事である。
・日本が戦争の大義として内外に公示したスローガンは、日本の権益擁護の率直な表明とアジアの連帯というアジア主義的な構想とが交錯していた。やがて東南アジアへの進出が決行されると、「大東亜共栄圏の建設」が最高理念として強調され、「米英帝国主義」の圧政からアジア諸民族を開放するとした。例えば、1943年には、フィリピン、ビルマに独立宣言させ、シンガポールにインド狩り政府を設立させた。同年11月には、これらの国と満州国、汪政権、タイの首脳を日本に招き、大東亜会議を開いた。
・「大東亜共栄圏」といっても東亜諸民族の完全独立と平等の上に立つ連体ではなく、日本の特区兼的支配を前提としていた。

・ビルマ、フィリピンは独立させても、軍事、外交等を日本の完全な掌握下に置くという条件下での独立を許す方針が終始堅持されていた。
・植民地で「満州及び支那に対する民族協和の声明と矛盾」を強行している事実にこそ、「大東亜共栄圏」の美名が実は何を意味したのかを端的に暴露するものである。
・朝鮮人を差別しておきながら同化政策を強行した。
・労働力が不足してくると、朝鮮人の労働力の利用が企画され、特に1941年頃から大規模な強制連行が行われるようになった。
・朝鮮人は、軍属として戦場に動員されたものを合計すると約32万人の多数にのぼり、そのうちの半数は戦死した。
・台湾についても朝鮮と事情は大同小異で、日本語使用の強制、皇民化政策、日本的氏名への改称、神社崇敬が強制された。軍属として戦場に駆り出されたものは約12万人で、その約四分の一が戦死、戦病死した。
・朝鮮人にせよ、台湾人にせよ、一方で植民地住人として差別されながら、他方で日本国民としての義務を課せられ、多大な犠牲を出している。
・満州国は、日本の軍事的、経済的達成の手段として考えられており、日本と言うより関東軍の傀儡と言うべき存在だった。

・関東軍の満州現地人に対する酷い扱いから抗日ゲリラなどが起こるが、それを取り締まる名目で一般市民にさえ拷問、虐殺等の残虐行為が日常茶飯事化していた。
・敗戦とともに満州在留邦人が現地満州人から襲撃、暴行の被害を受けたのは、日本人の満州人に対する残虐行為に対する恨みの累積によるものだった。
・中国でも中国人に対して強制徴用が行われ、日本内地に労働力として強制連行され、過酷な環境で労働させられた。
・日本軍はすべての中国民衆を敵視する態度を取り、中国軍との通謀を自白させるために住民に拷問を加えたり、中国軍に利用させないために村落、家屋を焼き払ったりしたのであるが、作戦との関係の有無にかかわらず、略奪、暴行、虐殺、強姦、放火等が日常茶飯事に行われていた。
・日本は、1937年12月に北京に中華民国臨時政府、1938年3月に中華民国維新政府と言うものを作らせたが、まったくの傀儡政権に過ぎず、重慶から脱出してきた国民党領袖汪兆銘が1940年3月に南京で創立した「国民政府」も、日本の占領下にある限り、汪の意図にかかわらず、現実には日本の傀儡政権だった。

・フィリピン、マレーでも日本軍は残虐行為をし、現地の反感を買い抗日運動が起きた。
・ビルマ、蘭印では、最初は日本軍を解放者と誤認したが、後に幻滅し、反日、抗日に転じた。
・1942年9月、日本軍はインド国民軍を編成した。しかし、インド人側が国民軍の独立性、自主性を主張するのに対し、日本側は、日本軍に対する作戦協力をあくまで主張し、両者の感情的対立は大きくなった。
・日本の力を借りてインドの独立をはかろうとしたものもいたが、多くのインド人は、英軍と共に進んで日本軍とたたかった。
・1942年7月、ガンジーは、日本人のインド独立の宣伝が、中国に対する野蛮な帝国主義的侵略と矛盾する戸を鋭く衝き、日本軍が武力でインドに侵入する場合は、インド人は、全力で日本軍に抵抗する決意であることを宣言した。
・日本軍は、インドネシア人にひたすらオランダ支配に対する憎悪冠を煽ったが、自分自身人種的優越感を持って差別と圧制を加えたのだから、反日感情が生まれるのは必然であった。

・アジアにおける日本の軍事支配が、欧米の支配を一時切断したことが旧支配者の力を弱める結果となったのは事実であるが、それは、尾上米帝国主義と日本帝国主義との交替から生じた偶然の結果に過ぎない。日本がアジアの諸民族を解放したのではなく、諸民族は、抗日運動と言う実践過程の中で独立達成の努力を開始していたのである。
・公然たる殺人が犯罪どころか義務として遂行される戦争は、本質的に非人間的な性格を個有し残虐行為を誘発しやすいことは、古来の戦争の歴史が如実に示している。
・「戦争の惨禍を思うよりは、壮絶快絶を叫ぶ気持ちなり。苦戦を経来り、死地を通過し、戦友の死を目撃し来る者のみの来れる快感なり。此の時もし人道的同情を抱く人間アランが、それは兵隊にあらず。」これは、日本軍兵士の赤裸々な心境の吐露である。
・1944年10月の海軍神風特攻隊の出撃を皮切りに、フィリピン、沖縄の敵艦隊船めがけて次々に特攻機は飛び立って行った。しかし、劣悪な特攻機で制空権を握っている敵艦船に体当たりできる確率は1~3%ぐらいに過ぎず、大部分は撃沈され大きな戦果を挙げることができずに多数の青年を死に追いやった。

・騙されたり強制されたりしたものを含む多数の慰安婦我、前線各地の慰安所に送り込まれた。朝鮮人のみならず日本内地からも納得させられたり騙されたりして戦地に送り込まれた。
・沖縄戦では、多くの島民がスパイ疑惑で殺されただけではなく、非人間的な扱いを受け、自決を強要されたりした。
・1945年4月20日に軍が各部隊に配布した国土決戦教令には、戦傷者に対する看護はせず敵の撃滅に力を注げという同胞見殺し命令が出された。
・南京大虐殺は、一般市民を含め10万単位にのぼる中国人を虐殺したが、これは、上海以後の中国軍の激しい抵抗により激化させられた敵愾心から発生した。
・兵卒の「反抗心を麻痺させる手段として、性に関する政策に寛大であったり、何らかの機会に過度の性的燥宴を許したりする」のが、広く世界にみられる軍隊固有の本性。
・日本軍における七三一部隊は、アメリカの原子爆弾投下、ドイツのアウシュビッツのガス室と並ぶ第二次世界大戦における計画的残虐行為の極限例。

・七三一部隊は、北満ハルビン郊外に設けられた細菌戦研究をしていた特殊部隊。アメリカが、細菌戦技術の取得と交換に部隊軍部の戦争犯罪を免責し、その存在をさえ秘匿され、元隊員には他言を厳禁にした。後に元隊員の証言が大量に録取され、その実態が明らかになった。そこでは、細菌兵器の研究がなされ、人体実験用の犠牲者数千人が満州及びそれ以外の中国からひそかに輸送された。
・軍関係者による残虐行為の頻発は、戦争勢力の道義的破滅を物語るものであった。
・ソ連の攻撃が開始されると、関東軍はいち早く軍人家族を真っ先に列車に乗せて避難させ、そして、軍司令部も在留邦人を置き去りにして逃避した。
・日本軍は、戦争で撃滅されるのを待たず、道義的に全く壊滅していた。
・深刻な不況に陥っていた日本の経済界は、1931年の戦争開始以来、軍事産業及び関連産業の活況、新しい植民地域拡大等により一時活況を取り戻した外観を呈し、また、自局産業の投資者、経営者、これと結託した官僚、高級軍人に利益をもたらしたが、戦争の拡大、長期化が進むにつれ物価が高騰し、生計費が高騰したから、名目収入が増加しても一般国民の実質的な生活水準は低下した。

・戦争の際限のない拡大は、未曽有の大動員を余儀なくされ、1937、1938年に47万人、1939年に54万人、1940年に52万人、1941年に63万人、1942年に47万人、1943年に96万人、1944年に68万人、1945年に115万人が軍隊に動員された。
・労働力人口の多数が軍隊に動員され、召集されないものも軍需工場への移動を余儀なくされた結果、食料品、衣料品などの生活必需品の生産が著しく低下し、国民生活は急速に窮乏化していった。特に食糧不足のため、大多数の国民は餓えに苦しんだ。
・1941年4月、生活必需物資統制令が公布され食料が配給制になり、生活必需品が厳しい統制下におかれた。配給が底をついてくると、一般市民は高値で闇買いをしなければならず、さらに生活は苦しくなった。
・国民の大多数が飢えに苦しんでいるのをしり目に、一部特権層は特別の闇ルートを持ち、物資には困らなかった。
・生活物資のひっ迫による肉体的苦痛が激化したばかりでなく、精神面、道義面の破壊も進行した。「滅私奉公」「一死報国」などの美辞麗句が蔓延する時期ほど、国民の道義の裏表の分裂がはなはだしかった時代はない。

・1943年に入ると在学中の学生や家庭の女子までもが勤労動員の対象となり、学生は学業を放棄して軍事工業等に出勤しやすい給料で労働させられ、未婚の女性は女子挺身隊助詞(強制的勤労動員組織)に編入された。
・1943年に「学徒出陣」により、大学、高等専門学校在学者が軍隊に動員されたが、14~16歳の少年まで戦場に送り出され、その数約1万7千人、そのうち3千8百人が戦死した。
・1944年6月に、都市空爆に備え学童疎開の方針が閣議決定され、東京やそのほかの大都市の小学児童は父母のもとを離れ、地方に集団疎開したが、疎開先で児童の上を十分に満たす食料を確保することは困難で、父母のもとを離れて集団生活をしなければならない心理的苦痛と空腹の肉体的苦痛に耐えねばならなかった。
・戦争によって夫や、息子や父を奪われた女性子どもにとっても戦争のもたらした災いは大きかった。
・サイパン島に残されたたくさんの非戦闘員は、すさまじい集団自殺をするまで追い込まれた。

・沖縄戦では、米兵約1万2千人、日本兵約9万6千人、現地住民約9万人の死者が出たと推定される。敵の陸、海、空、三方からの攻撃にさらされただけではなく、日本軍の残虐行為をまで忍ばねばならなかった沖縄の人々の悲劇は、想像を絶するものがある。
・1944年後半からは、本土もまた米航空機の空襲にさらされた。軍隊や軍需工場ばかりでなく、全国の大中都市のほとんどすべてに対して、住宅地域、商店街にも無差別攻撃が加えられ、多くの人々が殺された。1945年3月10日の東京空襲では、二時間余りで10万近くの人が殺される惨劇となった。
・ある科学者は、アメリカが何故原爆投下を急いだかという疑問を提起し、もしアメリカ人の命を救うことが主目的なら、ソ連軍の対日攻撃が終了するまでおそらく原爆投下は差し控えられていただろうが、ソ連軍が米軍の日本本土接近に先立って満州を席巻するような事態は、アメリカ陸軍の耐えられるところではなかった、現にソ連の攻撃が予定道り進行したが、原爆投下によって巻き起こされたセンセーションに打ち消されてほとんど喧伝されなかったのを見れば、アメリカが投下を急いだ理由が良くわかる、と言っている。

・原子爆弾のごとき残虐極まる大量無差別殺人兵器を使用し、一般市民に多くの必要以上の苦しみを与えることが、国際法違反であるのはもちろんのこと道徳的にも許し難い残虐行為であることは疑いがない。
・原子爆弾による死者の数は、広島で訳14万人、長崎で行く7万人と推定される。
・この戦争における日本本土の死者は、約30万人と推定され、ほとんどが空襲によっ殺された。沖縄、中国を含める軍人以外の死者は、約66万人と推定される。実数は、これよりはるかに大きいと思われるが、これだけでも一般市民の犠牲者の莫大なことを察するには十分である。
・太平洋戦争は、日本の歴史上に前例のない恥辱であり、日本史の研究者は、美化されたり、偽りの歴史に代わる客観的な史実を国民の前に明らかにすることが、科学的県境を声明とするものの義務である。

・太平洋戦争において、断乎転向や迎合を拒み、侵略戦争に反対の態度を堅持し、反戦平和の大義を守り抜いた人々が少数ながら実在した事実を見逃してはならない。これがある故にこそ、暗黒時代の中でも日本人としての誇りを見出すことができるのであって、これらの人々により日本国民の良心が細々と守り抜かれた事実は、光を放っている。太平洋戦争における日本の行動が、当時の国際情勢の下ではやむを得なかっただとか、ひとたび戦争が始まった以上、国民として祖国の勝利のために全力をあげて戦わねばならぬのは当然であったとかいう類の主張は、この種の人々の実在の事実の前では、存立の根拠を失う。
・組織的な反対の動きが壊滅した後の抵抗は、消極的抵抗と積極的抵抗に大別でき、前者は、完全沈黙によるものと戦争を無視して良心的な仕事をするという形によるもの、後者は、合法的抵抗と非合法的抵抗に分けられる。合法的抵抗には、労働運動、農民運動、個人雑誌の慣行、非合法的抵抗には、軍隊拒否、国に日移動平均での秘密活動、獄中抵抗、国外での公然たる反戦運動がある。

・共産主義やそのほかの革命的阪奈体制運動器壊滅したが、労働運動、農民運動は、年々激減しながらも続いていた。
・商業ジャーナリズムが次第に戦争協力を余儀なくされていく過程で、明確な批判的言論を維持していくために、個人雑誌を刊行するという方法があった。
・キリスト教信者である矢内原は、日本の中国侵略を非難して東大を追われ、マスコミでの執筆を禁止されたが、神の正義の終局に対する勝利のゆるぎない確信に支えられ、一貫した批判的活動を続けた。
・日本軍内部にも軍の生活や戦場での苦痛に耐えかねて自殺したり、反抗、逃亡等の犯罪をあえてしたりする兵士が少なくなかった。
・民衆の間には、反戦意識が分散的にながら存在しており、しばしば投書、落書き、死語などの形で顕在化した。
・積極的に反戦活動をするために敵軍に投降する者もいた。中国軍に捕虜となった日本兵の組織した反戦同盟の人々の活動がその代表例である。
・日本の軍国主義を一日も早く倒すために、祖国に敵対することのみが祖国に報いる唯一の道であると確信をもって米国の対日戦争に協力したものもいた。

・「開戦となれば日本が一日も早く敗けることを望むよりほかにない。軍閥が敗れれば当然革命がおこる。それでなくても、日本人が事故の地力を知り、必ず敗戦する事実を認識すれば、当然国民の間から和平運動は起こってこなければならない。それが早くなればなるほど日本の受ける打撃は少なくなる。」という論理に従い、1943年にインドにわたり、英印軍の管下で日本軍に対して反戦思想の喚起と投降勧告の伝単作製に従事したものもいた。
・ソ連のスパイ事件(ゾルゲ事件)の日本側の内通者尾崎は、「社会主義国としての日本を確乎として築き上げ、中国共産党が完全なヘゲモニーを握ったうえでの支那と、資本主義機構を脱却した日本とソ連との三者が綿密な提携を遂げること」以外にないと確信し、その理想の下で日本の対ソ戦争を回避するために努力したと述べた。
・民衆の間に潜在的に流れていた反戦意識は、戦局の悪化、国民生活の破壊の進行によって次第に強くなり、また広まっていった。支配階級が戦争を継続していると「国体の護持」が困難になると判断したのは、客観的にも十分な根拠があった。

・民衆の政府、軍に対する怨嗟や怒りは、一時的、散発的な表現に終始し、組織的な反戦のための蜂起はついに最後まで生じなかった。その点は、同じくファシズムの暴政下に置かれた他の諸国と違うところである。日本国民の抵抗は、実行という点では弱く無力であった。戦争勢力を自らの手で妥当し、其の主体性において平和を回復することができなかったことは、戦後の日本の民主化の在り方を規定する重要な条件の一つとなった。
・わずかでも侵略戦争と対決する姿勢を維持し続けた人々の存在した事実は、明治以来微弱ながら断続的に醸成されてきた民主主義、平和主義の伝統が、暗黒時代において完全に絶滅しておらず、日本の歴史がそうした側面においても、戦前、戦中、戦後を貫いて連続していることを物語る。しかも、単に戦争勢力の暴虐不正と対決するばかりでなく、その内にすでに戦後の再建の道を示唆する構想が芽生えている点は、其の連続性をいっそ裏づけるものである。

・戦争の進行が、支配者の好むと好まざるとにかかわらず、現実の社会関係の上に生せしめた変質のうちにも見出される。例えば、産業構成における重臣の軽工業から重工業への転移、女性の軍需工場への動員は、戦後の女性の広範囲な社会的進出の準備になった。その反面、統制経済の進行による権力と資本の癒着などは、独占の集中を促進し、支配階級内部での官僚と独占資本との結託、地主勢力の相対的低下を招いた。そして、天皇制イデオロギーがヒステリックにぜつっ供されている時に、まさにその現実的基盤は解体の途上にあって、戦後占領下に実行された「国体の変革」を中軸とする国家体制、社会経済の大変革の歴史的前提が内在的に徐々に準備されつつあった。
・誰が見ても敗戦が濃厚となっても、軍は悪魔手背決戦を叫び、本土決戦さえ計画していた。しかし、何としても「国体護持」「天皇制維持」をしたい前首相級の重臣たちは、その維持が不可能になる前に戦争を終わらせたいと考え、8月10日、8月14日の御前会議で天皇の「聖断」によるポツダム宣言受諾を導いた。軍の一部が反乱したが、多数は勅令に従った。国民の反応はさまざまであった。

・政府は「降服」と言う言葉の使用を避け、「終戦」とかの見え透いたごまかしの表現を使った。
・国民の怨嗟の声がようやく高まってきた事実が、支配階級に直接間接に脅威感を与えたのは確かであるから、そのかぎり下からの要求が支配層の動きに何ほどか反映しているともいえるが、少なくとも実質的に戦争終結の企画は、まったく支配層内部のイニシァティブによってすすめられ、国民大衆の窺い知ることのできぬ雲の上で進めらた。
・支配者たちにとって幸いなことは、降伏後に国民の怨嗟の念が爆発し、戦争責任追及も、反民主的国家体制の変革の発生しなかったことである。日本国民の積極的活動によることなく、占領軍の命令、指導をもって初めてそれが行われたのである。
・敗戦により支配民族から一瞬にして敗戦国民に変じ、大日本帝国の保護を失った植民地、占領地に居住していた日本人は、すさまじく悲惨な境遇に突き落とされた。満州国在留の日本人訳155万人のうち約18万人が死亡した。その中でも北満に入植した満蒙開拓団と青少年義勇団は特に攻撃され、総勢約27万人のうち約8万人が殺された。北朝鮮でも約3万人が殺された。

・敗戦後満州居住日本人は、老若男女関係なく、満州人、朝鮮人、ソ連兵から暴行、略奪、強姦の被害を受け、多くの人が殺された。ソ連軍は捕虜とした日本兵約70万人をシベリアに送り強制労働させた。樺太でも沖縄等と同様に一般住民が戦火に巻き込まれ、悲惨な状況であった。
・フィリピン在留邦人にも満州、北朝鮮在留邦人に訪れた悲運と同様の運命が待っていた。沖縄では、米軍により食料の乏しい地域に移住を強制された結果、大量の餓死者を出したり、多くの女性が米軍兵に強姦されたりするなど、戦闘が終わった後も多数の犠牲者が出た。
・広島、長崎の原爆被害者は、投下当日に被爆した人々はもちろん、其の後、救護や肉親の安否を尋ねて羅災地を歩いた人々までが次々と発病し死んでいった。さらに体内被曝によって生まれた小頭児などは、悲惨な犠牲者であろう。
・アメリカ軍の進駐は全く平和裡に行われたが、略奪、暴行、強姦が頻々として起こった。日本政府は、進駐軍の日本女性に対する強姦を防ぐ目的で「性的慰安施設」を作り、日本女性を募集し、進駐軍のために提供した。占領下の日本では、かつて日本軍の占領地の女性たちと同じ運命が女性を襲った。

・戦争は、女性に対してもっとも残酷な運命をもたらすのを常とする。
・沖縄は、1972年まで米軍に占領され、県民は、米軍の殺人、強盗、強姦などの加害に苦しめられたばかりでなく、軍事基地工事のために土地を収奪されたり、十分な自治権を与えられなかったり、かつて日本の支配下に置かれた「大東亜共栄圏」の諸民族と同様の圧政を受けた。
・千島列島は、日本がロシアから侵略し得た領土でないにもかかわらず、アメリカはソ連の参戦の交換条件としてこれをソ連に与えるというヤルタ協定を結び、平和条約において日本に領土権放棄を承認させ、その結果ソ連はこれらの地域を自国の領土に編入してしまった。
・戦争中日本軍に編入されて従軍させられ戦傷を負った朝鮮人、台湾人は、戦後日本国民でないために日本から保護を受けられず、朝鮮や台湾からは裏切り者として見放されるという悲惨な境遇に陥った。
・日本は「最終的の日本国の政府の形態は、ポツダム宣言に遵ひ日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」という連合国の通告に接したのち降伏したのであって、それは天皇主権制の破棄、国家主権主義の採用と言う「国体の変革」を意味する。

・ポツダム宣言に基づきアメリカ軍により日本の民主化、非軍事化改革が進められ、日本の陸海軍は解体し、治安立法は、対占領軍関係の表現の自由の制限を除いて全廃され、次いで日本国憲法の成立となって、国民主権、基本的人権の保障、戦争放棄と戦力不保持の三大理念を軸とする新しい国家体制が制度的に確立された。
・この戦争が、人権感覚の欠落とその基盤の上に在立する軍の反民主性、非合理性に直接由来したと考えられる限り、その根源を断つための制度的改革が行われたことは、日本にとり画期的な出来事であった。
・日本国民は、戦争勢力打倒による平和の回復と民主化とを自力で出来なかった。
・日本国憲法の基本的構想は、明治10年代に自由民権論者が実現しようと努力しつつ実現できなかった国民的願望であった。占領軍がその原案を起草するにあたり、自由民権論者の私擬憲法草案等を参考として起草された日本人有志の憲法研究会の草案から多くを取り入れているので、実質的にも日本人の願望を多分に包含してあり、決して占領軍の単純な「押しつけ」によるものではない。

・戦後に日本とドイツが峡谷の列から脱落し、英、仏の勢威も昔日のごとくではなく、米ソ両国が世界最大の強国になるとともに、1949年には、中国共産党が国民党に代わって中国を掌握し中華人民共和国を成立させた。そして、アメリカはかつての反ファシズム政策を捨て、強烈な反共世界戦略に乗り出した。アメリカの対日本占領政策についても日本の非軍事化政策が転換され、日本をアメリカのアジア反共軍事戦略の一環として生編成する政策がとられるようになった。
・占領軍の命令によって日本の再軍備が進められ、1951年に調印されたサンフランシスコ条約と同時に締結された日米安全保障条約により、アメリカが沖縄を半永久的に軍事基地として支配し、日本全土にも米軍を駐在させて、日本列島を極東におけるアメリカの反共軍事前線基地として利用する体制が成立した。
・占領軍の指令によって設置された警察予備隊から成長した自衛隊が、必要に応じて米軍指揮下に反共戦争に参加すべく訓練されている。
・日本の再軍備の進行により日本国憲法の理念である戦争放棄、戦力不保持の原則が形骸化している。

・日本国憲法の平和主義、民主主義は、戦争の惨禍をふたたび繰り返すまいとする決意によってのみ支えられてきたのであり、戦後世代が増加するにつれ、その自覚が弱体化する傾向を免れない。
・太平洋戦争の真相を科学的に再認識し、かつその成果をできるだけ多数の人々の共同財産たらしめ、再び悲劇の到来を防止するために役立たしめることによってのみ、私たちは、戦火の中で非業の死を遂げた何千万の犠牲者に対し償いの一端を果たすことになるのではあるまいか。
・良心を痴鈍ならしむるの愛国心は亡国の心なり。これがために国は誤りしもの、古今その例少なからず。