・アメリカの植民者が生活していけるようになったのは、先住民からたばこの栽培を教わったため。

・「持ち主のいない土地は、先に領有を宣言した国の領土になる。」というヨーロッパ人の勝手な論理は、

千十実を無視した論理。

・アメリカの国章は、表面はアメリカの国鳥である白頭ワシが、平和を意味するオリーブの枝と戦争を意味する矢を持ち、ラテン語で「多数から一つへ」と書かれた巻物を加えている。裏面は、13段のピラミッドとその頂に「すべてを見通す目」が施され、、上部には「神我らの企みを認め給えり」、下部には「世紀の新秩序生まれる」と書かれている。

・「独立宣言」と奴隷制は矛盾する。

・一般的に米国憲法が世界初の憲法と言われている。

・ワシントン大統領は、ヨーロッパ各国との関係について、原則として中立だった。

・国内の商工業の振興を図る中央集権的志向のハミルトンと州の権限を大きくして自治を促そうとするジェファーソンは徐々に対立を深めた。後に、前者を支持する勢力が共和党、後者を支持する勢力が民主党となる。

・1798年、外人法、治安法を制定。外人法とは、大統領が危険人物と見なした外国人を国外に追放できる法律。治安法は、立法、行政機関に対する誹謗、中傷を禁止する法律。

・1800年の大統領選で、初の政権交代が行われ、アメリカはこれを「1800年の革命」と呼ぶ。

・第3代大統領ジェファーソンは、外人法と治安法を廃止した。

・ナポレオンは、アメリカ大陸でイギリスとフランスが争った場合、カナダから南下するイギリス軍を防ぐことができないという戦略上の理由で西部ルイジアナをアメリカに売却したと言われている。

・1812年、米英戦争。領土をめぐって両国は戦争をする。アメリカのカナダへの侵攻は失敗し、逆に首都ワシントンD.Cがイギリスに占領された。また、両陣営はインディアンを使って代理戦争をさせた。互いに決定打を欠いたまま戦争は長引き、ともに疲弊し他こともあり、1814年12月4日に、ベルギーで講和条約を結び、戦争は終結した。

・1830年、連邦議会は、インディアン強制移住法を制定し、先住民をミシシッピ以西に追いやった。

・1818年にイギリス領カナダとの国境を画定。1819年にスペインからフロリダを買収した。

・新しく領土となった南部では、黒人奴隷を使った綿花のプランテーションが拡大した。

・農業が中心となった西部に対して、東海岸では米英戦争を機に工業が発展し、経済規模が拡大するにつれ運輸業や銀行も成長していった。

・1816年の大統領選挙で圧勝した第5代ジェームス・モンロー大統領は、国内産業を守ることを優先し、保護貿易を実施した。

・1823年、「新大陸(アメリカ大陸)と旧大陸(ヨーロッパ)は、互いに干渉しない。」という「モンロー宣言」を発表。その背景には、ラテンアメリカへのヨーロッパの影響力排除や、ロシアのアメリカ大陸進出に対するけん制があった。

・第6代アダムス大統領の時代にリパブリカンは再編成される。より中央集権的な政策を主張するアダムスは、ナショナル・リパブリカン(のちのホイッグ党)を、大統領選でアダムスに敗れたジャクソンは、より州権主義を掲げるデモクラティク・リパブリカン(のちの民主党)を発足させる。1828年の大統領選では、ジャクソンが当選した。

・ジャクソンと次の米大統領ビューレンの時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれ、政治の民主化が進んだ。ジャクソンは、国民によって選ばれた大統領は大きな権限が与えられるべきと考え、また、政治家を補佐する官僚は政権政党が独自に任命でき、選挙運動で活動した関係者がそのホストにありつける「猟官制」をはじめ、これにより名門の家系が代々官僚を独占する体制が終わった。
・「神に与えられたこの大陸を我々が拡大するえらばれた(西部を開拓する)のは、神から与えられた使命」という趣旨の記事は、当時のアメリカ-機運を代弁している。
・1821年に、スペインからメキシコが独立すると、テキサスはメキシコの領土となった。メキシコ政府は、テキサスの開拓を進めるためにアメリカ人入植者を募集しその数は2万余りに達した。しかし、入植した人々は、テキサス共和国として独立宣言をしてしまう。メキシコと彼らは戦争となり独立を訴えて「アラモの砦」に立てこもったアメリカ人200人はメキシコの大軍に攻められ壊滅する。しかし、一か月後、南部諸州の義勇軍がメキシコ軍を破った。

・テキサス共和国はアメリカに奴隷州(奴隷制度を認める州)として併合されることを希望したが、めかし膠着との戦争を避けたいアメリカ議会はこれを拒否した。1845年に第11代ポーク大統領はテキサス併合を決め、めきしことの2年に及ぶ戦いに勝利しテキサスを正式なアメリカの領土とし、さらに、カリフォルニアとニューメキシコをメキシコから強引に買収した。こうしてアメリカの領土は、独立戦争後から見ると3倍になった。
・アメリカは、ヨーロッパから多数の移民を受け入れた。1830年代は約54万人、1845~1855年の10年間で約300万人もの移民を迎え入れた。移民は、20~30歳代の若者が中心で、特にドイツとアイルランドの出身者が多かった。移民の多くは、西部、南部のノン業に従事していたが、若い移民は都市部に住み、低賃金で労働者として働いていた。多くの移民を受け入れることで経済発展の基盤を整えたが、特別な楽しみの無い労働者は酒におぼれ、貧困にあ値いる者が続出し、新しい社会問題となった。このため、禁酒協会が立ち上げられるなど禁酒運動が始まった。

・当時のアメリカは白人中心の国家であり、19世紀になるとアメリカ国内に黒人が存在することが許しがたいというナショナリズムが生まれ、1816年には、解放された黒人奴隷やその子孫をアフリカへ移住させようとする動きが出てきた。
・1619年にバージニアに初めて黒人奴隷19名がもたらされて以来、1807年のイギリスによる奴隷貿易の禁止を経て、1895年に南北戦争が終わるまで、アフリカからアメリカに輸入された黒人奴隷の数は50万人程度と言われる。同時期に南北アメリカ大陸全体に渡った黒人が1500万人程度とされるから、その4%は奴隷だった。南北戦争の頃の黒人人口は400万人程度とされ、アメリカ国内で生まれた黒人が非常に多かった。
・低南部のルイジアナからジョージアに至る一帯はコットンベルトと呼ばれ、綿花の栽培が盛んだった。この地域の1830~1860年代の綿花輸出額は、アメリカの貿易総輸出額の4~6割を占めていた。この低南部でプランテーションを営む人々は、多くの奴隷を必要としていた。

・奴隷制を認める「奴隷州」と奴隷制を認めない「自由州」とに分かれた。北西部では奴隷制が認められず、それ以外では認められた。1820年のミズーリ協定で、以後新しくできる州は、北緯36度30分を境に北は自由州、南は奴隷州となることが決まった。
・黒人奴隷は不自由な生活を強いられ、職務放棄などいろいろな形で抵抗した。1831年には、黒人奴隷ターナーが奴隷数人と共に反乱をおこし、約60人の白人を殺した。しかし、すぐ愚軟体に鎮圧され、ターナー木絞首刑になり、奴隷の武器所持や夜間の外出禁止など奴隷に対する取り締まりが強化された。
・1848年にカルフォルニアで金鉱が発見される。これが全土に伝わると一攫千金を狙う人々が西部に押し掛けた。これがゴールドラッシュ。その他の西部の地域にも金鉱が見つかり、西部に人が集まった。
・アメリカ議会では、民主党の若手指導者であるダグラスが奴隷制をめぐる南北の対立の調停に乗り出す。彼は、カルフォルニアを自由州にする一方で、以後新しく成立する州は、住民が自由州にするか奴隷州にするか選べることを国民に約束した。

・カンザスとネブラスカが新しい州になることになり、奴隷制度を導入するかどうか住民投票で決める「カンザス・ネブラスカ法」が制定された。そもそもカンザスとネブラスカはミズーリ協定で『新たな奴隷州を作らない」と決まっていた北緯36度30分より北にあったのだが、協定は無視された。住民投票の法律ができるとカンザスは奴隷制の賛成派と反対派が激しく対立し、武力衝突を起こすまでになった。連邦議会内でもこの両者の対立は収集不可能な状態になった。このカンザス・ネブラスカ法の反対者は南部の奴隷勢力に対する譲歩だと言って非難し、奴隷制の拡大を止めることを目指した。この人たちは、間もなく北部で支配的な勢力として台頭し後に共和党を結成する。
・ミズーリ州の奴隷が奴隷に関する訴訟を起こしたが、連邦最高裁判所の判決は「合衆国は黒人の市民権を認めていないから、そもそも訴訟権はない。」という内容だった。

・北部は、工業製品が盛ん、共和党、連邦主義、奴隷制度反対、銀行家や資本家が中心、南部は、綿花が盛ん、民主党、州権主義、奴隷制度維持、プランテーション経営者や大地主中心と別れていた。

・西部イリノイ州に共和党のホープとして現れたのがリンカーン。奴隷制度についてダグラスは、自由州が増えて奴隷制度が消滅するのに危機感を持っていたが、リンカーンは奴隷制に反対していた。しかし、リンカーンは、世論に配慮し黒人に対して白人と平等な権利を与えることには反対している。
・1858年のイリノイ州の上議員選挙では、現職のダグラスが勝利した。しかし、民主党の大物政治家と堂々と渡り合ったリンカーンの知名度は上がり、1860年の大統領選挙で共和党の候補として187万票獲得し、138万票の民主党候補ダグラスを破って第16代大統領に当選した。
・リンカーンの大統領当選が決まるとテキサスなどの南部の奴隷州が連邦を離脱し南部連合を結成した。リンカーンはいかなる州も連峰から離脱できないと言い、ないと南部連合は、自分たちは独立して国家を営む力があると思っていた。こうして、南北の武力衝突は避けられない状況となった。
・1861年、北部23州と南部11州の間で南北戦争が始まった。北軍は、物量で圧倒し国家としての機能も整っていたが、南軍には優れた軍人が多くいたため戦争は長期化した。

・1862年9月、リンカーンは「解放宣言」を出す。「すでに北軍が占領している地域の奴隷は、解放の対象から除外する。」として連邦内にとどまっている州の奴隷保有者が反発しないようにし、また、解放を宣言することで、黒人奴隷がプランテーションから逃げ出し、北軍に加わることを狙った。
・1863年、リンカーンは正式な奴隷解放宣言を発表。奴隷解放は、連邦を救うため、彼の「人間は自由なもの」という信念、「この闘争は政治闘争ではなく、奴隷解放と言う高貴な目的のため」と諸外国にアピールするために行われた。反乱中の州の奴隷が解放され、蚊らレが自由な立場になることを宣言し、彼らが軍に向かい入れられることも明記された。50万人近い黒人が軍務につき、北軍の勝利に大きく貢献した。
・1865年、南軍が降伏し南北戦争は終結した。南軍降伏の五日後に、リンカーンは妻と舞台を観劇中に南部連合支持者に銃撃され暗殺された。次の大統領になったジョンソンは、南北戦争後に決めた連邦政府の南部に対する方針である白人支配を止めさせることを転換した。

・南北戦争の戦後処理は、指揮官を含め白人には寛大であった。連邦への復帰や黒人奴隷の開放を条件として戦争を行った罪を許された。各州の議会にブラック・コードと言う新しいルールが作られ、黒人に対して財産所有権、結婚権などいくつかのいくつかの権利は認めたものの、白人との結婚を禁止したり、移動、職業選択、土地の所有などに新たな規制を加えた。
・開放された黒人が人としてカウントとされると、人口に応じて議員数の決まる下院では南部の議員が増えた。その結果、少数派になることを恐れた共和党は、南部出身の議員を締め出すべく自分たちに都合のいい南部再建策を講じるようになった。しかし、ジョンソン大統領はこの再建策を拒否し1866年に法の下の平等など市民権を保障する憲法(修正14条)を成立させた。こうして黒人の権利は拡大したが、一方で、KKKのような白人至上主義組織が生まれた。
・1820年には、憲法(修正15条)によって黒人に選挙権が与えられ、南部各州で黒人が選挙に参加しで黒人の議員や公務員が現れはじめ、教育無償化などの政策が実行された。ただし、州の法律によってその選挙権はだんだん制限されていく。

・1863年、国法銀行法が制定され、国法銀行がドルを発行するなどの政策を行い、経済は中央集権化されていく。そして、鉄鋼、産業機械、繊維、食品、石油、化学、電気、通信などの新しい産業が次々と勃興した。
・1880年代には、次々と大陸御うどん鉄道が開通し産業の発展に大きく貢献した。イギリスを抜き世界一の工業国となり急激に大国に成長した。
・産業の自由競争は「独占」を生み、一部の勝ち組は他者を次々と買収し手ぎよう界全体を支配する巨大企業となった。
・アメリカの19世紀末は、発明の時代であった。そして、ただの農業国から大工業国に変貌し経済成長を遂げた「光り輝く時代」であった。一方アメリカの二大政党は、その性格を変化させていた。共和党は、奴隷制度や人権抑圧に反対する看板を下ろし、北部の資本家たちの利益を代弁する政党になり、資本家との間に癒着が生まれ政治は腐敗し、その対応をめぐて分裂した。南部に基盤を持つ民主党は、少数野党になり、共和党の後塵せ拝し続けた。

・1867年にアメリカはロシア領アラスカを買い取った。

・大陸横断鉄道の恩恵を受け西部では牧畜が盛んになった。カウボーイが活躍したのもこのころ。1862年には西部開拓を推進する、交錯した人に土地を与えるという内容の自衛のうち法が制定された。
・西部の開拓は、その土地に住んでいる先住民にとっては理不尽な侵入だった。彼らは土地を奪われ、時には虐殺された。
・フロンティア(開拓地)は、自主独立の精神や自由で平等な機会、民主的な政治、さらにはナショナリズムを生み出した。アメリカのすべては、このフロンティアに象徴されていると言える。
・1890年、アメリカ政府はフロンティアの消滅を宣言する。これは白人が西部の各地に住み着いたことを意味する。
・1851~1860年に約260万人、1881~1890年に約522万人、1901~1910年に約880万の移民がアメリカにやって来た。移民が増加するにつれ新しい問題が出てきた。後から来た移民が、先に来ていた移民に差別され、最下層の労働者として扱われるようになった。さらにアジア、特に中国からの移民が問題となった。

・1868年、清とアメリカは天津条約を結びアメリカは中国の移民受け入れを始める。しかし、白人たちは政治的圧力を加え、1882年には中国人の移民を停止する中国人排斥法が出来た。日本人に対しても19世紀末から排斥運動が激しくなった。機械化が進んで移民の必要性が亡くなり、さらに安い賃金で白人の仕事を奪うのは良くないという理由からだった。1917年には日本を除くアジアの移民が禁止され、1924年には日本人移民も禁止された。
・経済成長で格差が生まれるようになると労働運動が本格化した。1869年に労働騎士団と言う外木が結成され、ストライキなどを指導し、70万人もの組合員を誇ったが、行動が過激化していったこともあり、資本家側の反撃にあって衰退した。1886年には、熟練労働者中心のアメリカ労働総同盟が結成され、20世紀初頭には参加者が200万人となった。の右門同盟も各地で結成され、1891年にこれらの組織がまとまりポピュリスト党が誕生した。

・国内のフロンティアが消滅し、国外ではヨーロッパ列強が植民地獲得競争を始めるとアメリカでも国外への領土拡大を目指すべきと言う声が手で来た。その背景には、拡張戦略によって1890年代による恐慌による経済、社会の混乱から抜け出したいという思いがあった。このころのアメリカ海軍は、イギリス、ドイツに次いで世界3位の軍事力を誇っていた。
・スペインの支配下にあったキューバで独立運動が始まると、アメリカでは、キューバを支援しようという機運が高まった。1898年、アメリカ人保護の目的でハバナ湾に停泊していたアメリカの艦船が爆沈した。原因は不明だが、アメリカ大統領マッキンリーはこれを機にスペインとの開戦に踏み切った。戦闘はアメリカの圧勝であっけなく終わり、スペインはキューバから撤退しアメリカはキューバに加えプエルトリコも占領した。

・スペイン領のフィリピンでもその支配への不満が高まっていたためアメリカはフィリピンのスペイン軍を追い出した。1898年のパリ条約でキューバの独立が認められ、アメリカは、フィリピン、プエルトリコ、グアムを領有した。こうしてアメリカは、帝国主義列強の一部に加わった。ただし、フィリピンでは以後14年間独立を求める戦争が続いた。
・マッキンリー大統領は再選を果たすが、無政府主義者によって暗殺された。続いて大統領になったローズベルトは、スペインとの戦争で活躍した軍人で「こん棒外交」と呼ばれる武力をちらつかせて領土を広げる政策をラテンアメリカ諸国で強行する。
・ローズベルト大統領は、日露戦争で調停役を務めた。彼は、ハーバード大学で同級生だった金子堅太郎に依頼されて戦争終結の話をまとめた。
・ローズベルト大統領は、独立の機運が高まっていたコロンビア領パナマに目を付けた。そして、パナマ独立を支援してパナマ運河条約を結び実質的な海外領土として運河を使えるようにした。
・ローズベルトの次の第27大統領タフトは、軍事力のみで諸国を抑えるのは不可能と考え、各国に資金を提供した。この外交政策をドル外交という。

・タフト大統領は、就任前の1905年に日本に立ち寄り、そこで総理大臣の桂太郎と「アメリカは日本の韓国支配を認め、日本はアメリカのフィリピン支配を認める。」という秘密の各書を交わした。
・マッキンリー、ローズベルト、タフト大統領と3代続けてモンロー宣言の「国内優先、対外不干渉」をないがしろにした。これは、フロンティアがなくなって経済が低迷し、外国進出せざる負えなかったことが大きな要因で、ヨーロッパの列強と同様に帝国主義の流れに引き込まれた。そしと、モンロー宣言は「もしその原則(ヨーロッパの南北アメリカに対する干渉)を侵すものがあれば、アメリカは必要な対応をする(闘う)。」という積極的な姿勢を示すものに変わり、これを「モンロー主義のスク大解釈」という。
・1912年の大統領選挙では、共和党の分裂に乗じて久しぶりに民主党が政権を奪回しもウィルソンが第28代大統領になった。彼は、資本主義や民主主義を世界中に広げることがアメリカの使命と考え、外交を展開した。これは「宣教師外交」と言われる。

・政府が帝国主義を掲げて海外進出する中、国内では輝ける時代の政治の堕落を非難し、社会の大敗、混乱を反省する革新主義という運動が広がった。19世紀末から1914年の第一次世界大戦あたりまで各分野でこの革新主義が推進された。これにより国民は連帯感を高め、納税者としての立場から、インフラにかかわる企業の不正に抗議の声を上げ、さらに、この動きと連動する形で市政改革も行われ、州の政治改革へとつながった。
・革新運動は全国に広がり、貧しい地域の住民支援、教育を中心とする生活支援や助言、結核の伝染を防ぐ啓蒙運動が行われ、都市部の生活が改善した。また、カーネギーなどの巨万の富を築いた人たちが財団を設立し、医学の研究や教育の拡大を支援した。
・ヨーロッパの帝国主義列強国同士の衝突は、1914年の第一次世界大戦へと発展した。国内にヨーロッパ諸国の移民がいるアメリカは、当初この戦争に加わるのは得策ではないと考え、中立的立場だった。しかし、実際はイギリスと親密な関係にあった。

・第一次世界対す戦で物質が欠乏していたイギリスやフランスへの輸出が増加し、アメリカは戦争特需になっていた。さらに、イギリスやフランスに積極的に金を貸しバックアップした。この戦争でアメリカは、債務国から債権国へと変貌した。
・1915年、ドイツが状況を打開しようと無制限潜水艦作戦(すべての船を魚雷で攻撃する作戦)を開始する。その結果、イギリスの客船ルシタニア号が撃沈され、アメリカ人128名を含む約1200名が死亡した。アメリカ国内では、ドイツを非難する世論が巻き起こり、ウィルソン米大統領がドイツに抗議した結果一旦この作戦は中止された。しかし、1917年にその作戦が再び行われるとついにアメリカはドイツに宣戦布告した。
・アメリカの第一次世界大戦参戦の背景には、ドイツ憎しの世論、「正義と平和を実現する」という目的、さらには、戦後の講和会議での発言権を強めたいとの思惑があった。国民の多数は参戦を歓迎した。

・イギリス、フランス、ロシアなどの協商軍は、長い戦闘で疲れ果てていたが、アメリカから送り込まれた物資と200万もの兵で息を吹き返し、オーストリア・ハンガリー、ドイツなどの同盟軍に勝利した。アメリカ軍の犠牲者は11万人ほどだったが、その半分は当時流行したスペイン風邪が原因だったと言われている。
・1917年、ロシア帝国で2月革命がおこる。ところが2月革命によって皇帝を追放しできた臨時政府は、労働者や活動家などが蜂起した10月革命で倒された。そして、ソ連の政党ポリシェビィキが権力を握ると、ドイツと単独で講和し国政を安定させることに力を注いだ。ソ連と講和したドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、ロシア極東のウラジオストクに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵、アメリカは最初消極的だったが、1918年に結局出兵した。

・シベリアに出兵したアメリカ軍は、日本軍と行動を共にしていたが、アメリカ軍撤退の後も日本軍が満州に残り、これにアメリカは不信感を抱き両国の関係は悪化した。
・1919年のパリの講和会議で国際連盟の設立が決まったが、「侵略国に対して加盟国が相互にそれを阻止する。」と言う規約の文言に「他国の動きにアメリカの自由が束縛される。」と共和党を中心とする勢力が反対し、1920年に国際連盟は設立されたがアメリカは参加しなかった。結局、かつてのモンロー主義に戻った。
・国際連盟は、総会での議決については事実上不可能な全会一致を必要とすること、連盟としての軍事組織を持てないことなど問題だらけで、国と国との争いを調停する役割を果たせなかった。
・1919年の暮れから1920年の4月にかけて、アメリカでソ連の誕生に刺激された革命的思想の持主4000名以上の活動家が逮捕された。
・第一次世界大戦が終わり武器を生産していた工場が家電を作る工場となり、これらの商品が広く普及し人々の暮らしは格段に豊かになった。
・第一次世界大戦を終わらせたことでアメリカは国際社会ㇲで存在感を示した。

・日清、日露戦争で日本が勝利し立教-仲間入りを果たすと列強同士で軍拡競争が始まった。こうした中、第19代大統領ハーディングは軍縮を唱える。1921年、海軍力の制限を討議するためにワシントンD.Cで軍縮会議が開かれた。彼には、平和を望む国際世論にこたえること、アメリカの権威を高めることの2つの狙いがあった。この会議で海軍軍縮五カ国条約(米英日仏伊のの戦艦、空母等の保有の制限{5:5:3:1.67:1.67}が取り決められた)、9カ国条約(米英日蘭伊仏、ベルギー、ポルトガル、中華民国の間で締結された条約。 列国は中国の独立と行政的、領土的保全を約し、門戸開放と機会均等の原則を承認した。)、4カ国条約(米英仏日が調印。アジア・太平洋地域の勢力は現状を維持する。日英同盟は破棄する。)
・1928年、不戦条約が結ばれる。当時の列強諸国をはじめとする15ヵ国が署名し、最終的にはソビエト連邦など63か国が批准した。ただし、この条約は違反した場合でも具体的な制裁が科されないため、戦争の抑止につながらなかった。

・ドイツが第一次世界大戦で背負った賠償金を払えなくなった際、アメリカはドイツに資金を援助した。第一次世界大戦中、アメリカはイギリスやフランスに資金を提供しており、両国は、アメリカの資金からなるドイツの賠償金でそれを返済することになった。こうしてアメリカが世界経済の中心になっていく。
・1920年代のアメリカの経済は絶好調だった。1926から1929年にかけて株価は三倍以上になった。しかし、バブル景気はいつまでも続くはずはなくいつかは弾ける。その兆しをかぎ取った投資家たちはパニックに陥り株を売りまくり、1929年10月24日木曜日に株は大暴落をする。俗に言う「暗黒の木曜日」である。これを受け人々は企業に倒産していた銀行が倒産してしまい預金が引き出せなくなると思い一斉に預金を引き出そうとした。その結果銀行は倒産し、銀行の融資を受けられなくなった企業や工場も倒産した。
・ニューヨークのウォール街から始まった一連の大恐慌は世界に広がり、「世界大恐慌」がスタートした。

・1929年4~6月のアメリカの自動車生産を100とすると1929年10~12月は29.5まで下がり、欲ねんは少し回復したが低迷は続き、1932年7~9月は14.5まで下落した。1929年末から1933年の4年間でアメリカ全土で9万の企業と9千以上の銀行が倒産し、1933年の失業率は25%にのぼった。国民生活の危機に対して政府は有効な手段を打つことができなかった。
・恐慌が深刻さを増す中、1932年の大統領選挙で民主党のフランクリン・ルーズベルトが現職のフーバーを破って当選した。彼は、ニユーディールセス策を訴えた。政府が積極的に政策を打ち出していくべきだと主張し、困窮者の救済、政治制度や社会制度の改革、復興事業をスローガンに掲げた。また、全国の銀行を閉鎖して資産状況を調べ、良好と認めた銀行の実事業再開を許可し、1935年には、公共事業推進局を作って、学校、病院、道路などのインフラを建設し雇用を生み出した。

・ローズベルト大統領は、物価の下落を防ぐため業種別に生産量を調調した。収穫された農作物が大量に破棄されたり、家畜が万単位で殺されることもあった。また、経済を活性化するために大企業の独占を防ぐ反トラスト法を停止し、同時に労働者に組合を作ったり、ストライキの権利を認めたり、規制緩和も実施された。そして、アメリカ全体の再開発にも力を入れた。ダムや発電所を建設し、安く電力が工場などに提供されるようになったことで、産業が復興した。アメリカは、総合的な地域開発に成功した。
・政府主導で行われた政策に対しては批判もあった。本来アメリカは自由主義であり、政府が挙国一致を求めるような政策は好ましくないとの批判だった。
・ローズベルトは、第二次ニューディール政策を実施した。850万人以上の失業者に職を与えることを約束し、年金や失業保険、障害者への生活扶助を始めた。また、富裕層に対する税金を引き上げ、富を再配分した。

・最初のニューディール政策では、政府と経済界が協力し復興に取り組み、第二次ニューディール政策では、政府と労働組合が結びついた。こうして、自由主義一辺倒たったアメリカ社会に新たな特色が備わった。
・1930代半ばからアメリカの刑期は少しずつ回復した。1936年の大統領選挙では、ニューでぃーろ政策が評価され、ローズベルトが圧勝した。
・1932年、イギリスは、植民地を含むイギリス連邦諸国の代表をカナダに集めて経済会議を開いた。この会議で、イギリス連邦は経済的に団結することが確認され、仲間内だけで関税をゼロにするブロック経済政策をとることが決まった。フランスも、オランダ、ベルギーなどとなどと連携してブロック経済を実施した。
・ドイツ、イタリア、日本は、植民地を持っておらず、ブロック経済を作れなかったため、自力で経済を回復させることができず、国民の不満が募った。こうした不満の受け皿になったのがナチスやファシズム主義。
・ソ連は他国と貿易をしておらず、統制経済であったため世界大恐慌の影響を受けなかった。さらに、五か年計画で重工業や農業の発展に力を注いだ結果、大幅に国力を伸ばした。

・ローズベルトは、ラテンアメリカ諸国との関係改善をはかった。かつてのこん棒がいこうやドル外交を止め、輸入関税の引き下げや軍隊を引き揚げて友好姿勢を示した。
・景気回復が遅れた国々が不穏な動きを見せるようになると国際情勢は緊迫した。ローズベルトは、再び大きな戦争が起こるとみて準備を始め、戦争が儲かることをしているアメリカ産業界は少しずつ政府と接近していった。
・1940年、ローズベルトは大統領に三選された。1941年、彼は、言論と表現・信教の自由、欠乏・恐怖からの自由に関する演説を行い、国民に対して戦争をする理由を説明した。そして、日本画インドシナを占領すると、石油や鉄などの輸出を禁止し、日本が中国とインドシナから撤退するまで続けると警告した。
・1941年8月、ローズベルトはイギリスのチャーチル首相と会談し、まず、領土の不拡大を宣言し、ナチスを打倒して人々を恐怖や貧しさから解放すること、奪われた主権を回復すること、戦後は武力を使わず平和を守っていくことなどが謳われた「大西洋憲章」を発表した。

・1941年12月8日、日本がハワイ真珠湾の米軍基地に奇襲攻撃をし、2時間で19隻の軍艦が沈められ、2000人以上が死亡した。
・ローズベルトは核開発にゴーサインを出し、アメリカ全土から科学者を集めて核を開発させた。これは、当初の研究本部が分かれていたニューヨークの地名にちなんで「マンハッタン計画」と呼ばれる。
・劣勢に立たされていたイギリス、フランスは、アメリカの参戦で大いに勇気づけられた。
・第二次世界大戦は、アメリカの経済、社会、政治を変えた。軍事産業が活気づき完全雇用が実現した、好景気のため婚期が早まり人口が増えた、黒人も戦争で活躍し立場を強めたなど。アメリカの全人口の約12%にあたる1635万人が兵士となり、戦死者は40万人を超えた。
・第二次世界大戦後に国際連合が作られた。国際連盟との違いは、米ソの二大国が参加したこと、国連軍を有したこと、議会の決議を多数決にしたことなど。
・第二次世界大戦の直後からソ連は東ヨーロッパ諸国を同盟国とし、また、中国の社会主義化を支援した。
・国民の自由を民主主義国家のアメリカと国民を統制下に置く共産主義国家のソ連は、相容いれない関係だった。

・戦後、ヨーロッパの南部でソ連の共産主義思想の防波堤になっていたのはギリシャだった。1947年、この地域の安全保障を任されていたイギリスは、ギリシャ国内の息のかかった反政府組織を抑えられず、アメリカに助けを求めた。トルーマン米大統領は、ギリシャに武器購入のための資金を送り、将校を派遣して反政府組織の鎮圧を助けた。また、トルコ政府も支援して、自由主義諸国を共産主義から守る姿勢を秋に為替は、ドル/円は、にした。これをトルーマン・ドクトリンという。
・1947年、トルーマンは、東欧も含めたヨーロッパ諸国に復興資金を提供する計画相いれない(マーシャルプラン)を発表した。ドイツやフランスなどは、これを元手にして後に復興した。ソ連はこれを嫌い東欧諸国を参加させず、東欧諸国団結のために共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)を結成した。
・19世紀まで世界の経済の中心はイギリスであり、ポンドが基軸通貨として使われていた。しかし、第一次世界大戦で戦費のかかったイギリスの経済力は落ち、通貨の信用を維持する金保有量が減ったため、基軸通貨としての役割を果たせなくなった。

・1944年、アメリカのブレトン・ウッズで開かれた会議で新しい通貨、貿易体制の基本的な約束が決まり、ドルが世界の基軸通貨となった。固定相場制だったが、1973年に変動相場制に移行。
・1949年、アメリカやイギリスが中心となってソ連を中心とする共産主義陣営に対抗する軍事同盟北大西洋条約機構(NATO)を作る。1955年に、ソ連も東欧諸国との軍事同盟ワルシャワ条約機構(WTO)を作る。
・1950年、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の同意を得た北朝鮮軍が、38度線を越え韓国に攻め入り朝鮮戦争が勃発した。アメリカを中心とする国連軍は彼らと戦い、1953年に休戦となる。この戦争は、アメリカとソ連の代理戦争と言われた。
・1949年、ソ連が核兵器の開発に成功したと発表した。
・アメリカとソ連が直接闘うのではなく、互いの陣営の軍隊を指導したり、資金を出したりして間接的な戦いをした。彼らが直接闘わなかったのは、両国とも多量の核兵器を持っていたため、もし開戦しそれが使われれば甚大な被害が出ることが予想されたからだ。こうしてアメリカの自由主義陣営とソ連の共産主義陣営が対立し、冷戦と言われ世界に広がった。

・第二次世界大戦後の10年でアメリカは世界一豊かな国になった。新しい家電が生産され、作物が大規模栽培に転換された。
・アメリカは共産主義を嫌い弾圧した。共産主義に近いなどの理由で多くの知識人や革新派の政治家や官僚を追放した。
・朝鮮戦争休戦後、初めは北朝鮮が成功して韓国経済を上回っていたが、日本が韓国と1965年に日韓条約を結び日韓が国交を樹立したことで、韓国は日本からの資金や投資を得て経済発展し、北朝鮮との立場を逆転させた。
・「東アジアにおいては日本をどうコントロールするかが重要になる。」と認識したアメリカは、日本を占領し続けるのではなく独立させ、自由主義陣営のメンバーに組み入れることにした。1951年に、日本とサンフランシスコ条約を結んで占領を終わらせ、日米安保条約を結んで日本に米軍を残すことを決めた。
・冷戦が続く中、米ソは技術力でも競争していた。1957年に、ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功する。アメリカは先を越されたことにショックを受けるが、翌年に人工衛星の打ち上げに成功した。

・1961年、大統領に就任したばかりのケネディは、10年以内の月着陸(アポロ計画)を宣言し、その8年後にアポロ11号が月面着陸を成功させた。宇宙開発は、人類の夢を乗せたプロジェクトという一面の他、国の技術力の高さを示すために計画され、ミサイル開発の一端という意味合いがある。
・1959年、キューバで革命が起こりアメリカが支援するバティスタ大統領が失脚し、カストロが実権を握る革命政府が成立した。その二年後、カストロはキューバの社会主義化を宣言する。これに対して亡命キューバ人グループが
カストロ政権打倒のためにキューバのピッグズ湾への侵攻作戦を展開するも失敗した。
1959年、ソ連主導でベルリンの壁が建設される。
・1962年、ソ連がキューバ国内にミサイル基地をけ仮設していることが確認され、ケネディ大統領は、ソ連にミサイル基地撤去を要求し、公海上で海上封鎖を行ってソ連船のキューバ入港を阻止した。両国は核戦争の瀬戸際までたたされたが、ソ連のフルシチョフ首相が譲歩してミサイルは撤去された。

・キューバ危機をきっかけに米ソは接近し、1963年に偶発的な核戦争を防止するためのホット来が設立され、イギリスも加えて地下以外での核実験を禁止する部分的核実験停止条約が結ばれた。両国の核軍縮の流れは、核兵器の維持、管理には莫大なお金がかかり、また、両国とも既に必要以上の核兵器を保有していたことが背景にあった。
・ケネディの死後に副大統領から昇格したジョンソンは、ロンジンの医療保険制度や低所得者、障害者の医療補助政策を初めて業績を上げた。そして、黒人に対する差別や迫害を見直し、白人と同等の権利を認める「公民権法」を実現した。
・1945年、ベトナムで共産主義活動家のホー・チミンが北部のハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)の建国を宣言する。日本からこの地を奪い返したフランスは、再度ベトナムを植民地化するためにこれを認めず、南部に傀儡政権を作った。しかし、ソ連や中国の後ろ盾を得たホー・チミンはこれに抵抗し、10年に及ぶ戦いの結果フランスは撤退した。

・フランスの後を受けてベトナム南部にアメリカの支援を受けゴ・デイエン・ジャムを大統領とするベトナム共和国が誕生。しかし、この地でソ連の支援を受けたベトナム解放戦線(ベトコン)の兵士がゲリラ化し反米活動を行っており、ケネディの後を受け大統領になったジョンソンは北ベトナムを倒してベトナムを統一することを決意した。
・1965年、アメリカはベトナム南部に米軍を派遣し北部への大掛かりな空襲を始めた。アメリカは次々と兵を繰り出すも戦況は一進一退、一時南部の首都サイゴンのアメリカ大使館が占領されることもあった。戦況は泥沼化し、アメリカは約54万人の軍人を派遣しその半数の死傷者を出した。南ベトナムの民衆やアメリカ国内、世界中からアメリカは非難を浴びるようになった。
・1973年、和平協定が結ばれてアメリカ木ベトナムから撤退した。
・ベトナム戦争は、アメリカ国内で反戦運動や女性解放運動などを引き起こし、アメリカ人の価値観を変えていくほどの大きなうねりとなった。
・ニクソン大統領は、1972年にソ連と中国を訪問し、長年にわたる共産主義陣営との緊張緩和を目指した。

・1972年の米大統領選挙中の民主党本部への盗聴事件(ウォーターゲート事件)がニクソンを失脚に追い込んだ。
・1981年に第40代大統領になったレーガンは、カーター政権から続くスタグフレーションの解決に取り組んだ。そこでインフレーションと失業に注目して政策を打ち出した。それは社会保障費や軍事支出の増大を通じて政府支出を増大することと、減税と規制緩和、マネーサプライの伸びを抑制してインフレを抑えることであった。(「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、財政出動を行う。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。軍事支出の増大により『強いアメリカ』が復活する。」という理論。)。これはレーガノミックスと言われた。

・レーガンの政策は、戦争に強いアメリカを復活させ、一時的にも庶民の暮らしを安定させた。原油価格が下落したことで経済が好転し、1984年の大統領選挙で再選した。しかし、財政赤字と貿易赤字は続き、1987年に「暗黒の月曜日」と言われる株価大暴落が起こった。
・レーガンは、中国、ソ連との話し合い路線を進め、ソ連で改革を始めたゴルバチョフ書記長と交渉し、1987年に「中部距離核戦力全廃条約」を締結した。いよいよ冷戦を終わらせる機運が高まって行った。
・第41代ブッシュ大統領の時代は、東ヨーロッパの共産主義体制が次々と崩壊し、最後にはそのドンであるソ連が消滅し、冷戦が終わった。
・ブッシュ大統領は、公約でやらないとしていた増税をし、1992年の大統領選挙でクリントンに敗れた。
・クリントンの時代は、アメリカの新しい繁栄の時代だった。宿敵のソ連が消滅、IT産業という新しい産業が発展、FRBが政策金利を下げたことで経済活動が刺激され長期にわたる好況が続いた。だが、ユーゴスラビア、北朝鮮、イスラエル・アラブ間などの各地の紛争や対立に首を突っ込んだが、大きな成果は得られなかった。

・もともと中東で暮らしていたユダヤ人は、キリスト教徒の多いヨーロッパで迫害を受けており、自由の国アメリカに新天地を求めてやってきた。第二次世界大戦で迫害を受けてさらにアメリカへの移住者が増えた。
・1948年にイスラエが建国される。しかし、建国直後から周辺のイスラム諸国との対立が続き、彼らと幾度となく戦争となった。
・となっ中東におけるアメリカの最大の敵はイランであり、イスラム国家のイランは、イスラム教の中でも少数派のシーア派が主導権を握る国で、多数派のスンニ派が主導権を握るサウジアラビアなどの国との関係は良くない。「敵の敵は味方」と言うわけで、アメリカはサウジアラビアとの友好を深めている。
・1951年、パフレビー国王が統治していたイランで、モサデグ首相がイギリス資本に握られていた石油資源を国有化した。イラン国民からは支持されたが、イギリス、アメリカからは非難され、イギリス、アメリカは石油利権を取り戻すためにCIAにより大量の資金を反政府組織に供与し政府転覆を企み、見事それは皇帝軍によるクーデターと言う形で成功し、モザデグ首相は失脚した。

・モザデグ首相の失脚後は、ザヘディ将軍が首相となり、パフラビーの独裁世襲による王政となった。石油産業の国有化は骨抜きにされ、アメリカとイギリスとの関係も良好となった。
・1979年、イスラム教指導者ホメイニを中心としたイスラム教勢力が、親欧米の王政を倒して革命を起こし、厳格なイスラム国家を作った。革命で亡命したパフレビー国王の処遇を巡り、背後にアメリカの差し金があるとホメイニは断定した。そんな中、イランの急進派によるイランアメリカ大使館人質事件が起こる。アメリカの外交官とその家族計52人を人質にイランのアメリカ大使館に立てこもり、元国王のイラン革命政府への身柄引き渡しを要求した。アメリカは、人質を救出しようと軍事作戦を試みたが失敗した。その後エジプトに亡命していたパフレビー元国王が死亡したため、人質は444日ぶりに解放された。

・イランは、宗派の違いや経済的な問題から、1980年に隣国イラクと国境をめぐり戦争を始めた。このときアメリカは、イラクを支援した。そんな中、レバノンにいたアメリカ兵士がイランと関係の深いヒズボラと言う武装組織にとらえられ、人質になってしまった。レーガン大統領は、この人質を救うため秘密裏にイランと交渉し、敵であるイランに武器を輸出することを認め、さらに輸出で得た代金を南米のニカラグアの反共右派ゲリラ「コントラ」の支援のために使ったという。しかし、敵国イランへの武器輸出と、反共ゲリラへの資金流用というそれぞれの行為は、本来なら必要である議会の了解を取っていなかったばかりか、当時民主党が多数を占めた議会の議決に完全に反していた。一連の疑惑が明るみに出て大スキャンダルになるが、レーガンは謝罪し何とか収束させた。
・1990年、イラクは石油資源をねらってクウェートを併合した。アメリカを中心とする多国籍軍がクウェートの独立を回復するためにイラクを攻撃し、湾岸戦争が始まった。身の戦争では、サウジアラビアが米軍の前線基地になった。

・ブッシュ大統領時代の2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起こる。テロの首謀者と目されたビンラディンをアフガニスタンがかくまっているとして引き渡しを求めたが拒否される。するとすぐアフガニスタンに軍を派遣した。アメリカを中心とした有志連合とアフガニスタンの軍事組織「北部同盟」は、当時国土の9割を支配はていたタリバンとテロ組織アルカイダに攻撃を仕掛けた。そして、支援していた北部同盟がアフガニスタン政府となったが、2021年8月に米軍がアフガニスタンから撤退することを発表すると、アフガニスタン全土でタリバンが攻撃を仕掛け支配地域を広げ、米軍が撤退するとタリバンは首都を占拠し再びアフガニスタン支配を支配した。
・2003年のイラク戦争は、表向きの口実は「イラクが核兵器や生物兵器などの大量破壊兵器を持っている。」という事だったが、真の目的はフセイン政権打倒にあった。結局、イラクで大量破壊兵器は見つからなかった。

・2008年、リーマンショックが起こる。2007年頃から住宅バブルがはじけ住宅価格が下がり始めた。米国では住宅ローンの証券化が広く普及しており、低所得者向けの住宅ローンを組み込んだ金融商品を所有していた多数の金融機関は、その商品が不良債権化したり価格が下落したりして大きな損害を受け、世界的な信用収縮が起こった。そして、アメリカ第4位の規模の証券会社のリーマンブラザーズが倒産したことで市場はパニックを起こし、株価は暴落した。
・2009年にオバマが第44代大統領となる。リーマンショックからの回復を目指し、雇用促進のために法人税を下げたり、インフラや木養育へ投資し、景気を刺激しようとした。また、イラクから米兵を引き揚げ、国民皆保険、いわゆるオバマケアを実現した。2016年には、アメリカ大統領として初めて広島を訪問し、原爆、日米同盟に関するスピーチをした。

・2016年の大統領選挙では、「アメリカファースト」をスローガンに掲げる共和党のトランプが民主党のヒラリー・クリントンを接戦の末破って大統領となった。其れまで世界の警察として世界中の紛争に首を突っ込むことを止め、アメリカの利益になることを優先する考えで国民の支持を得た。不法移民対策としてメキシコとの国境に壁を建設する、気候変動問題への国際的枠組みから離脱など国際協調よりは保守的な政策を実施。そして、中国の台頭に危機感を持ち、中国の留学生を制限したり、国防を持ち出し中国企業を排除した。また、中国製品の関税を引き上げ、その報復として中国も米製品の関税を引き上げる貿易戦争も過熱した。
・2021年、民主党のハイデンが大接戦の末共和党のトランプを破り大統領となる。
・2021年8月、米軍がアフガニスタンから撤退し、タリバンが巻き返し支配知識を拡大、首都カブールを占拠しふたたび政権につく。