・明治維新は、下級武士の革命。
・1874年の政府は、薩長藩閥政府だった。
・朝鮮は長い間、清朝中国と宗属関係にあった。
・日本は、米国が日本を戒告させたように、1876年に韓国を砲艦外交で開国させた。
・西郷は「外征派」、大久保は「富国派」、板垣は「憲法、議会派」。
・大日本帝国憲法は、福沢や大隈が提唱するイギリス型の議院内閣制ではなく、皇帝と行政府の権限が強いドイツ型を参考にした。
・1880年代、韓国内の保守派が清国派、改革派が親日派となった。
・1889年大日本帝国憲法発布、1890年の有権者は、地租を払っている大地主に限られ50万人程度。ちなみに、1900年は100万人、1905年は150万人、1919年は選挙法改正で300万人、1925年は男子普通選挙制の成立で1200万人となる。
・明治憲法は、議会に対する政府の地位を高くした相当に非民主的なもの。
・議会開設当時は、貴族院(元大名、天下り官僚)と衆議院(田舎紳士)があった。
・政党内閣制と普通選挙制は、大正デモクラシーと呼ばれる1912~1925の二大課題であった。
・日清戦争は、朝鮮支配をめぐる日本と清の戦い。・1900年代の初頭の日本では、官僚と農村地主との癒着体制が作り上げられていた。
・遼東半島をめぐる問題が日露戦争の原因。
・星の率いる憲政党は、政府の与党となって公共事業の決定権を握り、それによって地方地盤を盤石にすることだった。
・日露戦争前後では、「兵役の平等」と「選挙権の平等」を結び付けた。
・日露講和反対運動は、都市民主層の不満が爆発した。
・農村地主を地盤とする保守政党、立憲政友党。
・1911年の政友会の第二次西園寺内閣は、「積極主義」から「消極主義」への政友会の転換を示すもの。
・日露戦争後は、米ロを仮想敵国として軍は拡大を図った。
・社会民主主義とは、共産主義を否定し、民主主義によって議会を通して、平和的に、斬新的に社会主義を実現することで、社会変革や労働者の利益を目指す思想。
・1916~1920は、吉野作造の「民本主義(デモクラシー)」(二大政党制と普通選挙の実施)の時代。
・労働者と農民が武装して支配階級を打倒するというロシア革命方式は、もし成功すれば、何段階もの手続きが必要ない。
・吉野人気の後は、社会(共産)主義が学生の間で人気になる。・1924年に憲政会の加藤が三派を与党として成立したとき、普通選挙と二大政党制の同時実現は、もはや時間の問題でしかなかった。
・1920年代前半、原、高橋の政友会は、内政面は反民主主義的だが、外政では平和主義的。憲政会の方は、その逆。しかし、1925~1932年は、政友会は外政で右傾化し、憲政会は外政で平和主義的になる。単純化して言えば、「侵略と天皇主義」の政友会と「平和と民主主義」の憲政会(民政党)の二大政党が発足した。1920年代前半の内政と外政において一長一短であった時代の方が、どちらが勝っても「平和」か「民主主義」が担保され政治が安定していた。しかし、「侵略と天皇主義」と「平和と民主主義」の二者択一の二大政党は、日本を「危機の時代」に導いた一因になったように思われる。
・1921年のワシントン条約で、日本の中国理研は大きく制限された。
・政権交代のたびに、対外政策の基本が変わったのでは、対外的信用は失墜する。
・高橋是清は、過去の対中政策への反省から、関東軍をはじめとする中国駐屯の日本軍の撤収を唱えた。・保守政党政友会の内閣が武力による満蒙権益擁護を打ち出した時、陸軍の省部を横断する中堅将校たちはさらに一歩進めて、満蒙領有を目指しはじめた。
・1925年以降、日本でも二大政党間(政友会と民政党)で政権交代が定着し、それにより中国政策が変わり、軍部は不満を抱いていた。
・この当時の二大政党制の下での正統派、憲法解釈論争に熱中していた。
・民政党の浜口内閣が、海軍軍令部の反対を無視してロンドン条約に調印し同条約の批准を達成したとき、海軍青年将校だけでなく、陸軍青年将校をも含めた軍事クーデターへの動きが活性化していた。
・二大政党の支配そのものを倒そうという「フアッショ」勢力が、陸軍、海軍、民間右翼の間で横断的結合を計り始めた。
・明治維新が国が上昇過程にあったときの革命であるのに対し、陸海青年将校の反乱は、国が下降局面にあった時の反革命だった。
・明治維新では、その時代の最高の知識人たちがそれをサポートしたが、陸海青年将校の反乱にはそれがなかった。
・憲政会(民政党)は健全財政、政友会は積極財政。・憲政会内閣の金本位体制への復帰(円高になる)を目指すタイミングは、世界恐慌のはじまり(暗黒の木曜日)の一か月後という最悪のタイミングだった。
・1925年制定、1928年改正の治安維持法により、天皇制と資本主義に反対する日本共産党の合法活動をほとんど不可能にした。
・1930年のロンドン海軍軍縮条約に端を発する民政党と政友会の外交、憲法、経済政策における争点の肥大化は、両政党間の対立の枠を超え、海軍、陸軍、右翼の国家改造運動、労働運動、農民運動に連動していった。
・1931年9月の満州事変から1932五月の五.一五事件の八カ月の間、日本は危機の渦中にあった。対外危機と軍事クーデターと経済危機の三重苦に見舞われた。
・1928年一月の木曜会(旧日本陸軍若手将校によって組織された小グループ)で世界最終戦争論を口述した石原莞爾が同年10月に任命されてから、木曜会の満蒙領有論が実施されるのは時間の問題であった。
・明治憲法では、統帥権(軍隊の最高指揮権)は天皇にあるとしている。内閣が軍隊を指揮するという規定がないため、陸軍は憲法を盾に政府のいう事を聞かなくなり、其の後の暴走につながった。・状況をわきまえない正論は危険である。
・1932年初頭、世界大恐慌の下で金本位体制に復帰した井上財政(民政党内閣)によって不景気は都市部でも農村部でも深刻化し、失業者は町にあふれていた。
・海軍青年将校は、区軍青年将校が政友会を支持しようとも、桜田門外の変を再現しようとしていた。
・五・一五事件(犬養毅の暗殺)で政友会内閣は総辞職し、それ以降、1945年の敗戦まで政党内閣は一度も成立しなかった。
・戦後民主主義の発足にあたってそれを支えたのは、主として「危機の時代(1925~1937年)」に議院内閣制を維持しようとしていた勢力である。
・世界恐慌に端を発する農村恐慌のもと、日本では中小の自作、小作農が存続の危機に立たされていた。その結果、反近代主義、体制批判的な性格を持つ農村理想主義が台頭し、それらは超国家主義と結びつき、兵農一致による体制改革を主張し、陸海軍青年将校のクーデターへとつながった。・五・一五事件で総辞職した政友会内閣の後を継いだのは、海軍予備役大将の斎藤実を首相とする挙国一致内閣だった。だった「挙国一致」の意味は、政友会と民政党から入閣をさせて均衡を取ったという意味でだ。この斎藤内閣の下で、軍事クーデター、経済危機、対外危機の三つの危機は解消に向かった。
・三つの危機を解消したと認識したとき、政党は、軍部やファッショへの反撃を開始した。
・当時陸軍内では、永田鉄山少将の下に東条英機等を中心とするグループ(統制派)が影響力を強めていた。彼らは、直接行動を目指す陸軍青年将校を野放しにせず、軍の統制を強めることを主張した。また、彼らは、対ソ戦、対中戦を準備するために、軍部以外の諸勢力を味方につけた総力戦体制を合法的に築き上げようとしていた。社会大衆党にも手を伸ばしていたから、合法的な国家社会主義を目指していたといえよう。
・合法的な総力戦体制を目指す永田らを「統制派」、青年将校の直接行動に容認的姿勢を示している荒木らを「皇道派」と呼んで区別すると、陸軍内の対立がわかりやすくなる。・岡田内閣は、民政党、陸軍統制派、清官僚、社会大衆党の支持を得て、過半数政党政友会と陸軍皇道派を敵に回した内閣だった。
・岡田内閣下の政治地図は、政友会が二派、民政党が二派、陸軍が二派、官僚が二派、左右両局が二派と合わせて10派の政治勢力が描かれていた。このような状況では、政治の安定を望むべくもないことは言うまでもないが、これは、各派のトップ合わせて10人の指導者がいることになり、政治エリートの質の低下をもたらした。
・後継首班の選定に「重心」たちが加わるようになり、重臣会議に影響力を持たない政友会は、彼らを攻撃した。「重臣」とは、内大臣、枢密院議長、総理大臣経験者であった。後に、陸軍青年将校の標的になった。
・政党と軍部と言う性格の異なる組織間では、「提携」ではなく暗黙の行動の一致が限界だった。
・二・二六事件の六日前の総選挙では、陸軍皇道派と結ぶ政友会にノーを突き付け、重主義的な民政党に合格点を、資本主義を批判する社会大衆党にも一定の評価を与えた。・陸軍青年将校皇道派はに率いられた1500名ほどの反乱軍は、「重臣」達を襲撃した。彼らは、軍事クーデター決行の後に、国民に訴えるのではなく、「君側の奸」を倒して天皇個人に訴えた。ファッショに反対していた多くの国民の支持は得られず、さらに、天皇からも否定され、この軍事クーデターは失敗に終わった。
・陸軍は国家社会主義に別れを告げて、国家資本主義による国防の充実を求めた。
・陸軍と官僚と財閥だけに支持された林内閣は、政治的展望のないままに1937年3月に衆議院を解散した。与党を持たないこの内閣に総選挙の結果は初めから意味を持たなかった。
・陸軍が「狭義国防」に転換した後では、社会大衆党の「広義国防」は、新陸軍のシンボルではなく、「デモクラシー」の旗印に意味転換していた。
・林内閣解散後の衆議院選挙で、社会大衆党は、「広義国防か狭義国防か!政民連豪か社会大衆党か!」をスローガンに掲げ、陸軍、財閥、民政党、政友会の四つ強者に反対し、議席数を20から36に伸ばした。・陸軍、財閥、民政党、政友会の四大勢力の隙間をぬって統制を拡大した社会大衆党は、ある者にはファッショ政党の台頭に移り、他の者には、西欧のような合法的な社会主義政党の躍進に思えたのである。
・右翼軍事評論家として有名な武藤でさえ「露英米三国と同時に戦うことを想定する国防計画」はとうてい「日本の力は及ばない」と論じ「大和魂と神風に依存する国防計画なんてあるもんじゃない。」と言い切っている。
・1937年6月に成立した第一次近衛内閣は、民政党、政友会、財界、清官僚からも入閣者を得、陸軍も社会大衆党もそれを支持した挙国一致内閣だった。其れは、基本路線もなければ、信頼できる与党的勢力もない、その時の状況により、右に行ったり、左に行ったり、中道に行ったりする内閣構成だった。そのような内閣成立後約一カ月で日中全面戦争の危機が生じた。その危機の時代から崩壊の時代が始まった。
・「崩壊の時代」に入った最大の原因は、既に国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからである。・近衛内閣はこの分裂状態を克服しないで固定化した。日中戦争を途中で停めたり、日英米戦争を回避するための政治体制の再編を目指す指導者は、もはや存在しなかった。
・1937以降の8年間は、異議申し立てをする政党、官僚、財界、労働界、言論界、学会がどこにも存在しない、まそに「崩壊の時代」であった。
・歴史の上では、「興」と「亡」は、セットである。
・1857~1863年を「公武合体」の改革期
 1863~1871年を「尊王攘夷」の革命期
 1871~1880年を「殖産興業」の建設期
 1880~1893年を「明治立憲制」の運用期
 1894~1924年を「大正デモクラシー」の再編期
 1925~1937年を「昭和ファシズム」の危機期
 1938~1945年を「大政翼賛会」の崩壊期