パートナーとして、今世、ちぎりを交し,家族になることを選んだひと。

子供をもうけてから、また一つ、関係性は変化して、わたしは、おもいきり、母親になり、明確に、パートナーに求めるものがはっきりしてゆく私とは対照的に、

自分の生きざまに右往左往する彼。


その彼の苦しみも伝わるから、懸命にサポートしてきた私。

それでも、何かがぽっかりと空いたように寂しさをぬぐえない私。


初めは、彼が、山での暮らしで、自分の魂の在りどころに気付き、修行僧みたいになったから、お金がなくて苦しくて、お金がないことが大きな原因だと思っていた。


けれど、それからしばらくすると、彼も、自分のできることで、人さまのお役にたち、

お金を得るようになっていった。

それと同時に、お金だけでなく、お米とかお野菜とか、家具とか、着物をいただいたり、山に落ちる枯れ木を拾って米を炊いたり暖をとったり、人や自然の恩恵で、生かされていくつながりも体験するようになっていった。


自分のわくわくを、様々な形で表現してゆくことや、そのような自分の喜びで、人さまのお役に立ちたいとゆう想いが、わたしたちが共通して持っている志でもあった。


そして、その生き方は、何らかの形で、目に見えない存在が必ずサポートして

守ってくれることも経験した。


山で暮らすことは、不便さを思い描く人も多いが、それは、今の社会がそういった成り立ちをしているということだけで、今のわたしたちには、関係のないことでもある。


自分が何を、感じて、どこへ導かれ、どのようにこの生命の中で生きて、お役に立って、生きれるのか。


山での暮らしは、すべて、人間はここにあるもので、創り出して、生きていけるという、生きていくために何もいらないという安心感を教えてくれる。


そして、それでも、今、現在は、お金を必要とする世界だから、お金も必要だなと、時折切実に感じたりもする。


そのあたりのもどかしさが、いつも、わたしと彼が、衝突するきっかけにもなっていた。


山暮らし丸3年たったこの冬、要約準備が整ったのか、新しいイメージやエネルギーがわたしたちに注ぎ始めている。


自分の目の前で起こることすべてを、恩恵としてとらえてゆく心の在り方を。


相手を責め立てることは、自分を責め苦しめることなのだという大きな体験的な気付き。


このところ、いままで一切憶えていなかった、3歳以前の自分の記憶がよみがえっている。0歳から3歳の間に、感じていたものすごく苦しいものを胸の中心に感じています。感じて感じて感じていくと、胸から、自由できらきらした踊るようなエネルギーがあふれでてくる。


そうすると、がんとして譲れなかったパートナーへの怒りが、少しの爆発で収まっていたりする。

そして、少しでも爆発すると、自分がとても窮屈で苦しいといっているのが、よくよくわかるので、もう、ここから卒業の時期が近付いているかな。と、感じる。


わたしと、彼が、共に抱え、共に、ぶつかりあってきた、ものが、今、解放されようとしている。


そして、その時期に、わたしのお腹には、新しい命が宿った。

この3年、もう、新しい命なんて、彼との間に授かるなんて、まったくイメージもできないほど、お互いに深く傷つけ合っていた。


けれど、とくに、昨年のあの、震災の後から、また、新しい風が、地球・宇宙・生命体から注がれて、わたしたちは、急速に、自分を縛っていた自分の中の批判的な存在や攻撃的な存在から解放されていった。


そして、誰よりも、わたしたち二人を愛して見守ってくれている現在3歳の娘。

わたしがつらくて泣いているときは、いつも隣にいて、涙を拭いてくれる。

「大丈夫だよ」と言ってくれる。

わたしは、自分が親から受けてきた苦しかった言動を、衝動的に娘に同じようにしてしまうことが何度もあった。

その度に、ごめんねごめんね。と娘に謝ってきた。

こんなこと、繰り返していたら、娘も、わたしの苦しみを引き受けてしまう。。。

そう心配していたけれど、わたしと彼が解放されていく中で、娘も、ものすごく変化していった。

本当にありがたいほと、神様のように、広く深い愛情でわたしに接してくれる娘。


娘に苦しめてしまったことを謝りながら、最近、気付いたのは、わたしも、両親から、謝ってもらいたかったという想いだった。


どんなことがあっても、子供は、親を愛してくれている。

親が子を愛しているというより、親は子から、無条件の愛を、学ぶのだと。。。


そして、わたしは、両親から直接的に謝罪をもらえなくても、今、その気付きと体験で、苦しみが解放されて、両親への感謝の気持ちが増していくことも感じている。


ご先祖さまも、ある視点では自分自身なのだと、実感する。

両親のまたそのまた両親が体験してきてくださったことが、今のわたしたちにつながっている。

すべては、間違っているとか正しいという視点で見るものでなく、

すべて、起こるべくして起こり、その体験がわたしたちを豊かにし、賢くしてゆく。


新しい命が、私の中にきてくれて、本当にうれしい。


ここまでこれたことに、感謝。

なにより、共に歩んでこれた、彼に、感謝。


これからも よろしくお願いします。