「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」の解説をNHKのニュース番組で見ました。
その中でNHKの記者が映画監督である塚本氏に尋ねたのは「兵士(加害者)の視点からだけにフォーカスして、ベトナム人どおしの会話はないのはなぜか。」と言う質問でした。
塚本監督は「それはもともとそのように作ろうとしたからだ。」と回答した。
これはまさしく戦争を語るには被害者の心情やヒューマニズムだけでは尽くしきれないからだと考えるいい例だとおもう。
前にも書いたが、これまで様々な戦争に関する話を聞かされてきたが、加害者に特化した話は非常に少ない。加害者は語りたがらないし、語れないのだと思う。
ネルソンさんも、多くの第二次大戦に従軍した兵士も同じで、帰還してからは多くを語らなかったから我々は実態を知ることができなかった。
語れない理由の一つにPTSDがあるのだと思う。
病名をつけなくても加害者はその現実を語れなかったり語ることが辛いのだと思う。
そのために、われわれは被害者の視点ばかり押し付けられてきたのではないか。
塚本監督からそのように受け止めて、私も前々からそう感じていた。
そして、ここで2つの新しい視点を見つけた。
1つは、日常と戦争、そして日常に戻る。人殺しが正当化される世界に入って出てくることは、普通の人間には耐えられないのではないか。つまり、国家は戦争は人殺しを正当化しているけれど、正当化できないということの証ではないだろうか。どのように言いくるめても憲法で、法律で正当化しても兵士(人)が人を殺すことは以降に人として生きられない、そういう人を大量に作り出すことはどう考えても正当化できないということなのだと思う。
私は「戦争が人を殺すことを正当化してきたこと」の反証ができなかったけれど、これでわかった気がした。
2つ目は監督が映画館という周りが暗闇で逃げられない場所で見ることに意味があると言っていた。それは兵士の視点で、人殺しをしなければならない空間を体現してもらいたかったと。
兵士の視点での語り部はそうでなくても少ないし、多くが亡くなってゆく中で、その代わりになってほしいといった意味のことを語っていた。そうなればいいと思う。
ただ、私にはとても耐えられそうもないし、見られないと思う。
この映画の他に「野火」も塚本監督を制作しているけれど同じような意味だといった。
塚本監督は戦争が近づいている気がする。語り部の代わりにこれからもこの作品が見続けられればいいとも言った。
そうなるといいと思う。