(小説)異・世界革命Ⅰ 空港反対闘争で死んだ過激派が女神と聖女になって 06 | 北のりゆき☭遊撃インターネットのブログと小説

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 神殿の用意した数台の馬車に分乗し、『クラーニオの丘』に行くことになった。王女であるジュスティーヌは、王族用の王宮馬車に乗り、侍女たちに加えてレオン、ラヴィラント隊長、ジルベール君が直接護衛に同乗する。
 フランセワ王国の一行三十人に合わせて、バロバら大神殿の神官たちも三十人ほどが同行した。忌み所であるクラーニオの丘に神官や貴族らが六十人も訪れるなどということは、かつてないことだ。
 一時間足らずでその丘に着いた。直径八百メートルくらいの巨大な饅頭か古墳に似ていた。高さは二百メートルほどだろうか。木が一本も生えていない。丘全体が地肌を見せ、まばらに雑草が茂っている。ジュスティーヌにも、ひと目で人工物だと分かった。
「こんな変な丘は、見たことありませんわ」
 思わずつぶやくと、レオンが暗い笑いを浮かべて言った。
「知らぬが⋯⋯。ちょっとした街にはね、どこにでもこれを小さくした丘がありますよ。フランセワ王国の街にもね」
 年長者のラヴィラント隊長が、顔色を変えて腰を上げた。しばらくなにか言いたそうにしたが、やがて諦めたように腰を下ろす。
  直径八百メートルの円形の外周は、二千五百十二メートルだ。その外周にトゲの付いた頑丈な柵が張り巡らされており、だれも入れないようになっている。東西にひとつずつ入口の扉がある。近い方の扉の前に馬車が止まった。王女馬車から飛び出したレオンが、思いきり扉を蹴り飛ばすと、凄まじい音を立てて扉が吹っ飛んでいった。そんなことでも神力に見えるらしい。神官が何人か拝んでいる。
  頂上まで細い道が続いていた。おそらく悪魔祓いのためだろう。
 「草が少ないな⋯?」
  レオンがつぶやくと、横に立っているバロバが答えた。
 「呪いと⋯⋯毒のために雑草も育たないのです」
  頂上を目指して登りはじめた。禍々しい気配に少しおびえた様子のジュスティーヌが、レオンの腕に手を置いて身を寄せてきた。
 「どうして、このような丘を造ったのでしょう?」
 「人を埋めるためさ。この足下には、十六万以上の死体が埋まっている」
  そのことを知っていたバロバと一部の高位神官たちをのぞき、全員が息をのんだ。しかし、「この人がそう言うのなら、その通りなのだろう」。
 
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  精神性は、身体に強く束縛・影響される。マリアは、栗色の髪で灰色の目をした物静かな十八歳の女性で、優しく献身的な、自己犠牲的といってもよいほどの性格だった。中級貴族の三女だったが神女になることを希望し、王府の侍女に上げたいという親の意向に生まれて初めて逆らって神殿に入り、下働きをしていた。
 そんな肉体と記憶にかぶさるかたちになったマリア=新東嶺風からは、鉄パイプと火炎ビンを振りかざしてトラックで機動隊の群れに突っ込むような暴力性は影を潜めた。また、精神の諸作用が女性的になった。
 混ざっているとはいえマリアの意識を保っているのは、主に嶺風の精神である。マリアの変わりように、多くの人が驚いた。気が強くなり自分の意見をはっきり述べるようになった。特に不正に対しては、その場でキッパリと指弾した。高位の者に対しても一切遠慮がなかった。そのため多くの敵をつくったが、気にする様子はなかった。
 生き返ったマリアは、数日後には癒しを始めた。
 女神セレンのように飛翔して一度に数千人も病気を治すことは、できなかった。マリアは、ひとりずつ患部に手を当てて病気や怪我を癒した。まったく寝ないで病気治しを行っても、一日に百人を癒すのが限界だった。マリアが寝ないで癒しをしていることを知った人びとは、深夜でも行列をつくり根気よく順番を待った。
 マリアは、金持ちや貴族を特別扱いすることをひどく嫌がった。権力やカネの力で列をとばした者の癒しを拒否し、一番後ろに並ぶようにと言った。並ばなかったので癒しを断られた貴族が剣を抜いて突きつけると、他の者の癒しを行いながら、「それで気が済むならば刺しなさい」と言い放った。
 マリアが生き返ってから四カ月ほど経ち、聖都ルーマにファルールの地獄のありさまが伝わってきた。ちょうど神殿軍がファルール軍の戦線を破り虐殺を始めたころだった。ほとんどの神官たちは、悪魔どもに神罰が下ったのだと喜んだが、マリアは違った。
 いつもは癒しに専念しているマリアが、数千人の信者が集まる大神殿の朝の説法に姿を現した。すでに癒しの聖女・マリアの名は広く知られ、多くの人たちから崇められるまでになっていた。それまで大勢の前に出ることはなかったので、初めてマリアを見た者が大半だった。
 中背だが若干痩せ気味に見えた。優しい穏やかな顔をしていた。まだ少女のようにも見える美人だった。まさに女神から遣わされた聖女という風貌である。多くの信者がその場でひれ伏したほどだ。
 ところが、その口から飛び出してきた言葉に神官も信者も、その場にいた数千人が仰天した。それは、容姿から想像できるよりはるかに厳しい声であり、内容だった。

「わたくしは、いま行われている恐ろしい行為について、それに関わる全てのものに抗議します。皆さん。ファルールの虐殺を、今すぐに中止しなさい! 女神セレンを傷つけることなど誰にもできません。女神は、あなた方のあまりの愚かしさにあきれ果てられ、昇天されたのです。慈悲深い女神は、最も愚かな者、最も罪深い者から救おうと祈念されていました。女神に刃を向けた愚か者たちこそ、最初の救いの対象なのです。その者たちを殺し、あまつさえ兵を挙げて攻め込むなど、なにごとであるかっ!」
 唖然としていた信者たちが、怒りはじめた。罵声がとび、誰かが丸めたゴミくずをマリアに投げつけた。胸のあたりに、ポスッとぶつかる。
「私は、女神の力を授かり、癒しのために顕現した聖女である。その私を罵り、石を投げつけるおまえたちは、女神を切り裂いたやからと同じではないか! おまえたちは、すでに悪魔に憑かれている。今すぐに悪の誘いを断ち切り、正気に返りなさい!」
 信者たちは、もう騒然となって手がつけられない。「殺せ!」とか「火をつけろ!」とか、不穏なことを叫び、暴動寸前になった。神官たちがマリアを取り押さえようと右往左往しているが、説教壇に登るハシゴをマリアが外したので、なにもできない。
 マリアの中に入っているのは、もちろん新東嶺風である。おとなしくて優しいマリアの身体性が精神に影響して、マリアの時はずいぶん性格が穏やかになっていた。しかし、女神時代の努力を台無しにされて激怒していた。無意味な人殺しを糾弾しているうちに、過激派時代のアジ演説の気分がよみがえってきた。
「運悪くファルールに生まれただけの、なにも知らぬ民を手当たり次第に殺すなど、極悪人の所行である! 赤子を殺す者、女子供を殺す者、老人を殺す者、彼らこそが悪なのだ! 今すぐに戦闘を中止させよ。ただの殺人者となり果てた者どもに武器を送ってはならない。ひと切れたりとも食糧を送ってはならない。虐殺を煽動している悪に献金してはならない。保身のため女神を裏切った特権神官官僚を打倒せよ。階級の敵を地獄に叩き落とせ! ニセ神殿を打ち壊し、人民の新しい神殿を打ち立てよ! 真の女神の道を進めっ!」
 マリア、⋯⋯というより嶺風は、ますます頭に血が上ってきた。演説に第四インターナショナルのスローガンが混じる。
 どこからかハシゴを持ってきた神官たちが説教壇に上がってきて、もみあいになる。どうにかマリアを捕えようとするが、暴れて手がつけられない。説教壇から落ちたら大怪我だろう。それよりも怒り狂っている信者の中に落ちたら殴り殺されるかもしれない。なんといっても相手は聖女だ。うっかり殺してしまって女神の怒りに触れたらどうする? 神官たちは持て余した。
「彼らは、神殿軍などではないっ。ただの人殺し集団だっ。⋯⋯離せっ! 乳にさわんな。コノヤロー! 悪の誘惑に心を奪われ魂を売り渡した殺人者⋯⋯子供を殺し満足にひたる人間以下のケダモノ⋯⋯ペテン師でしかない血塗れのニセ神官⋯⋯良心を失った極悪人と虐殺者の群れ⋯⋯手を汚さず見逃す卑怯者も同罪⋯⋯神殿は悪に屈し人類の敵となり強盗の巣になった⋯⋯いてっ! 虐殺反対! 帝国主義戦争ヤメロ!!」

 マリアの叫びは、ファルールの地獄を止めるには、なんの役にも立たなかった。しかし、人びとの心の底に澱となって沈み、長く残った。マリアの死後。すべてが終わった後で、その時代の唯一の良心の声として言葉遣いは若干美化されたものの、歴史に残った。

 怒号に包まれたマリアを神官どもが取り囲んで引きずっていった。そのまま大神殿の牢獄代わりの小部屋に放り込まれた。
 水も食事も無しで数日放置された後に、審問会が開かれた。マリアを連れ出しに差し向けられた神官たちは、それでもまだマリアが大層美しいことに驚いた。
 審問官をやる羽目になった高位神官たちを前にして、マリアは、一歩もひるまなかった。堂々と、「ファルールの地獄は、罪もない人びとに対する虐殺行為です」と弁じ立てた。女神セレン正教の教えに照らしても、常識で考えても、マリアが正しいのだから、グウの音も出ない。
 マリアの姿は、普段の穏やかな聖女からは想像もつかない。子熊を殺された母熊のようにいきり立ったマリアは、バロバ大神殿長をはじめ審問官をひとりずつ指差して、「ファルールの地獄に加担するのですかっ?」と問い詰めはじめた。ムニャムニャとごまかそうとしても、徹底的に突っ込んでくる。これでは、どちらが審問されているのか分からない。辟易した審問官たちは、マリアを牢に戻して果てない鳩首会議を始めた。
 バロバ大神殿長は、もともと真面目で誠実な人物である。怒りにとらわれ、暗殺団の生き残りを狂った群集の中に投げ込み自らの手で処刑したが、その短慮も悔いていた。だが、暗殺団に命令を下し送り込んだファルール聖国の指導者は、なにがなんでも処断せねばならないとは考えていた。しかし、民衆が自発的にファルール人を皆殺しにし、そのうえファルール全土を不毛の地に変えようとするなど想像もできなかった。
 マリアは、強く神殿を非難した。しかし、実際にファルールの地獄を引き起こしたのは、極限にまで達した民衆暴力。民衆の力だった。マリアは、神官たちに取り囲まれ引きずられていったが、もし神官たちが壁にならなかったら、民衆によって殺されていたかもしれない。
 死後三日目に復活し、病に苦しむ人間を哀れんだ女神セレンに癒しの力を授けられ顕現した女神の眷属。ほとんど眠ることもなく癒しを行い、すでに一万数千人を病気から回復させた麗しい聖女。マリアを女神と同じように崇めている者は多い。そんな聖女マリアですら、ファルールの地獄に反対すると命に危険がおよぶ。
 少しは頭が冷えたかと釈放されたマリアは、患部に手を当てて病や怪我を癒しながら、ファルールの地獄を非難する言葉を口にした。多くの者は、黙って聞いてなにも言わず去っていった。なかには病が癒えたとたんにマリアに唾を吐きかけていく者もあった。
 バロバは、神殿が民衆を煽動しているのではなく、民衆が神殿を引きずっていることを理解していた。すでにマリアに感化された者が十人以上も殺され焼かれている。いずれ聖女マリアが殺されるのは、時間の問題だと思えた。女神セレンは、そのときにどうなさるだろうか? 女神セレンは、マリアの死を受け入れるだろうか? 無用な犠牲や混乱、特に『女神の火』だけは、なんとしてでも避けねばならない。
 女神セレン以外に、もうひとつ神がいることをバロバは、知った。Vox Populi, Vox Dei.(民の声は、神の声なり)。民の声があるかぎり、ファルールの地獄は止まらない。ファルールのあらゆるものが殺され続けるのだ。
 バロバには、マリアを害したいという気は毛ほどもなかった。ただ、民衆の圧倒的な憎悪の力を目の当たりにして、マリアには、もうファルールを諦めてもらいたかったのだ。
 イタロ王国国王臨席で公開法論が開かれることになった。聖都ルーマ大神殿の全神官対聖女マリアの討論である。
 その日、大神殿聖本堂に一万数千人が詰めかけた。聖女マリア=新東嶺風には、これが討論にもならないことが分かりきっていた。体のよい晒し上げで、ことによったらその場で殺されるだろう。「まるでモスクワ裁判だ⋯」。
 公開法論などといっても、やれ『女神の意志』がなんだとか『ファルールの悪魔』がどうだとか、事実の検証をしようもない観念的な神学論争なのだから、言葉をぶつけ合うだけでまったくかみ合わない。どうにかお互いの主張を要約すると、マリアは「殺すな」と主張し、大神殿は「民衆が殺したければ勝手にせよ」だった。神殿が虐殺を煽動するのを止めさせたことは、マリアの糾弾の数少ない成果だったのかもしれない。
 こんな言い合いは、詰めかけた民衆には意味が分からなかった。しかし、多くの人がファルール人を心の底から憎んでいた。なので、マリアが「殺すな」と発言する時は怒号や罵声の嵐が渦巻き、神殿神官の発言には拍手喝采だった。バロバは、マリアが群衆の怒鳴り声に少しもひるまないことに驚嘆した。「この方は、やはり女神の眷属なのだろう⋯⋯」。
 実際には前世の新東嶺風が、大学内の党派闘争で浴びせられた民青や革マルの野次や罵声で、そんなものに慣れていたからである。あえなく落選した大学自治会選挙の公開演説で、民青に野次り倒されたことを思い出した。ただし、人数がその時の百倍だったし、憎悪は千倍だった。
 やがて、国王が裁定する時がきた。イタロ王国国王は、賢明な君主だった。賢明なので、マリアに理があることは分かり切っていた。しかし、死にたくなければ大神殿を勝たさねばならぬことも分かっていた。もちろん神罰を受けるのはまっぴらだ。聖女殺しの責任を負うなど、とんでもなかった。なので、民衆に投げることにした。
「民よ。いずれが正しいか指さして示せ」
 千人くらいがそっとうつむき、マリアを指した数十人が殴られる音がした。残りの一万数千人は、一斉に神殿神官たちを指さした。
 マリアは、屈強な神官たちに両腕をつかまれ、大衆の歓びの声に包まれて、罵られ殴られながらその場から引きずられていった。再びマリアは、牢獄代わりの小部屋に監禁された。

 マリアは、水も食料も与えられず蒸し暑い牢部屋に投獄されていた。牢獄部屋は、狭く殺風景で、粗末な寝台だけがあった。マリアは、ベッドの端に座り、いずれ処刑される時がくるのを待っていた。
 見張りの者たちは、水も食事もまったく与えられないのに数日のあいだ一睡もせずに端座し祈り続けるマリアに畏怖を感じた。白い神女服に何カ所も血がにじんでいるような状態でも、マリアは、とても美しかった。
 やはり聖女様なのだ! 聖女に害をなすことが恐ろしくて、見張りの多くは逃げてしまった。なかにはわざと鍵を閉め忘れた者もいたが、マリアは逃げなかった。
 五日たった暑い夜に、バロバ大神殿長が訪れてきた。バロバは、聖女マリアを尊敬しており、なんとか命を助けたいと考えていた。最後の説得にきたのだ。
 椅子を運び込ませ、マリアと対面した。他の者は下がらせ、牢獄部屋で二人きりになった。
「食べ物と水を持ってきました。どうぞ」
「最後に見苦しい姿をさらしたくありません。お持ち帰り下さい」
 優しく従順なだけの女が、これほどまでに強くなった。死を覚悟した者に、何を言っても無駄だとバロバは分かっていた。
 もう二度と聖女マリアと話すことは、できないだろう。「言いたいことは、言っておかねば」。悲壮な気持ちで、そうバロバは考えた。
「女神セレン様が昇天され、あらゆる人が、すがる杖を失いました。人間は弱い。今はファルールを憎むことでまぎらわしていても、いずれ恐怖にとらわれ、不安の日々を送ることになります。全ての人間が、これから永遠に、です。心が強いあなたには分からないでしょう。多くの人は弱い。弱いのです。行く先をだれかが指し示し、与えられた定めに従い、支配され服従することで心の安寧を得る。病気治し以上に、今まではその役を女神セレンが担ってきました⋯⋯」
 そんな『服従人間』の製造こそ菩薩である弥勒が最も避けたかったことであり、新東嶺風もそんな生きかたをする人間は、「蟻や猿とどこが違う?」と考えていた。だが、バロバ大神殿長も、そのような業を背負った人びとの幸せや心の平安を真剣に祈っている男だ。
「女神セレンが顕現されなくなった今となっては、人間が女神の重みを背負わなければなりません。女神亡き後は、神殿があとを継ぐしかないのです。それが民衆の脆弱な魂を救う唯一の方法です。しかし、神殿が人びとの上に立つといっても、実態は民衆の意識を拾って方向を指し示しているだけです。女神セレンの代行者になった神殿は、民衆の代弁者でもあります。ですから、神殿に背く者は、女神と民衆にも背く者となるのです。Vox Populi, Vox Dei.(民の声は、神の声なり)。今後、神殿がファルールの地獄を煽るようなことは、決してさせません。しかし、もうファルールを止めることは、誰にもできないのです。神殿は、ただ沈黙を守ります。個人としても大神殿長としても、あなたを苦しめるようなことはしたくありません。ですからどうか聖女マリアよ。沈黙して下さい」
 マリアから返ってきた言葉は、ひとことだった。
「今すぐ、ファルールの地獄を止めさせなさい」
 バロバは、その言葉を返されると最初から予想していた。予想通りだったことがひどく悲しいが、同時に強い喜びのような気持ちもわき上がった。
 マリアが五日ぶりに寝台から立ち上がった。
「さあ、連れて行きなさい」
 マリアは、自分は死刑になると覚悟していた。それでよいのだとも考えた。少なくとも一人は、命を捨ててファルールの地獄に反対したという記録が残る。ナチスに立ち向かい処刑された白バラ抵抗運動と同様に、それは狂気の時代にも人には勇気と良心がある証しになるだろう。
 マリアの進む道は、群集の罵声と歓呼の渦の中で火あぶりにされるか、良くて斬首刑だったろう。しかし、どうにか死刑だけは避けようとバロバは、この五日間あらゆるところを駆け回ってきた。しばらく沈痛な顔をして押し黙っていたが、やがてバロバは立ち上がって口を開いた。
「マリアよ、あなたは女神から見捨てられ神殿から追放されました。神女服を脱いで立ち去りなさい」
 バロバは、牢獄部屋から急ぎ足で立ち去った。マリアが服をはぎ取られるさまを見たくなかったのだ。入れ替わって女の神官たちが現れ、マリアの神女服を脱がせると裏口に連行し、半裸で裸足のまま大神殿から放り出した。

 それが再び、さらに大きな地獄をもたらす結果となるとは、バロバはおろかマリアですら想像できなかった。その未来が見えていたら、マリアは、その場で舌をかんでいただろう。

 ──────────────────

 レオンとバロバの一行は、十分もかからずクラーニオの丘の頂上に着いた。頂上は狭い広場のようになっていたが、貧弱な雑草以外はなにもない。
 レオンは、バロバにいくつか聞きたいことがあった。
「あんな時間にあの場所で半分裸の女を放り出したら、どうなるか分かりそうなもんですが⋯⋯。マリアが死ねばよいと考えたんですか?」
 そんなことは、バロバには初耳だった。目をむいて驚いている。
「まさか! マリアの実家に迎えにくるように使いをやりました」
 中位とはいえマリアの実家は貴族だった。マリアの記憶では、温かい一族だ。マリアが神女になると言い出すと泣いて止め、神殿に入ってからも家族が順番に様子を見にきていた。マリアが神殿をクビになったからといって、見捨てるような人たちではない。むしろ全力で守ろうとしただろう。
「なるほど。では、バロバさんの使いは、マリアの実家までたどり着けなかったんですね」
 バロバにとっては、二十年隔てて聞かされるとんでもない事実だった。
「そんな⋯⋯。では、聖女マリアは、あれから?」
「あれから⋯⋯? どうしょうもないでしょ。裸足で歩きましたよ。あっという間にヤクザに捕まって、小屋に押し込められて強姦されました。連中は五人いたから、寄ってたかって五回は犯されたんでしょう。ぶん殴られて半分気絶してたけど⋯⋯⋯⋯痛かったぜぇ」
 青くなったバロバは、がっくり崩れて呪われたクラーニオの丘の土に膝をついた。拳がふるえている。
「その者どもは?」
「二人は、もう死んでました。残った三人は、きのう死にました。ひとりなんざぁ、マリアを奴隷に売ったカネで商売をはじめていて、意外に繁盛してやがった。もっと苦しめて殺せばよかった!」
 話が聞こえてしまったらしいジュスティーヌが、ブルっと小さくふるえた。レオンがバロバにたたみかける。
「もうひとつお聞きしたい。神殿が奴隷を売買するのは、女神の教えに反するように思いますが、どうなっているのでしょう? マリアは売り飛ばされて奴隷市場で裸にむかれましたよ?」
 三たび愕然とするバロバ大神殿長。
「馬鹿なっ! 死罪に値する大罪を犯した者が希望した場合に限り、特段の慈悲をもって死刑の代わりに奴隷に堕とす『奴隷免罪符』を発行することはありますが⋯⋯」
「大神殿に、マリアは死罪に値する大罪人と考えたヤカラがいるんでしょう。その制度は、見直した方がよさそうですね」

 ──────────────────

 マリアは、ヤクザ男どもに輪姦された後、すぐに奴隷商人に売り飛ばされた。商品としてではあるが、奴隷商ではそれなりに大切にされた。傷を治療され殴られてついたアザが消えるまで、神殿の牢部屋よりよほど快適な奴隷牢に閉じ込められていた。何日も飲まず食わずでいたためにやつれていたマリアの商品価値を上げるためだろう、意外なほど良い食事が出た。
 何日かしてアザが消え顔色が良くなると、後ろ手に拘束具をはめられ奴隷輸送用の馬車に運び込まれた。行き先は、奴隷の競売市場である。それは例の売春窟の近くにあった。いかがわしい施設は、スラムの近くに固まるようだ。
 競馬場での馬の下見所のように、奴隷の競売市場にも『商品』を鑑定するための観覧牢があった。全裸にされ、シーツのような薄い布切れを渡された。全て見せるのは、ステージに立たされセリにかけられるまでおあずけらしい。客の嗜虐心を刺激するためだろう、足首に枷をはめられ不必要に太い鎖がつけられた。
 身体はマリアでも、精神の多くは男である新東嶺風なので、忌々しかったがこんなことは別段恥ずかしくもなかった。ただ、ドジを踏んで犯されて処女だったマリアの身体に傷をつけ悪いことをしたと思った。
 マリアは神殿にこもってひたすら病気治しばかりしていた。なので、ほとんど顔は知られていない。しかし、ここではなぜか「マリーちゃん」と呼ばれていた。『人気商品』らしく人だかりができ、いくらか質問を浴びせられた。
「男性経験はあるか?」
「たぶん、五人です」
「多いな」
「数日前に犯されるまでは、処女でした」
 とてもウソとは思えない口ぶりだった。
「以前は何をしていた?」
「大神殿のしん⋯⋯⋯⋯」
 見張りに止められる。
「すいませんっ、それ以上は困ります」
 他には字が読めるかなどと聞かれた。二桁の掛け算や割り算を暗算して見せたら驚かれた。
 マリアは、もともと若くて優しげな美人だ。気品のある容姿や所作、言葉づかいなど貴族の娘としか思えない。奴隷に堕ちたのは、よほどの事情があってのことと推察された。打ちのめされ憔悴しきったような女奴隷たちの中で堂々としていてハキハキと受け答えするマリアは、頭の良と気品さえ感じさせ、ひどく目を引いた。
 その場にいた数少ない優しい人は、こんな所にいるべきではない女性を救いたいと考えた。数多くいた変質者は、美しく芯の強いこの女を痛めつけて心をヘシ折る快感を想像して激しく興奮した。
 マリア=嶺風には、夜中に半裸でウロウロしていたために、ゴロツキどもに捕まって輪姦されたまでは理解できた。しかし、なぜそのまま奴隷にされ競売にかけられるのか、まったく分からない。駄目で元々と見張りに聞いてみると、案外簡単に理由を教えてくれた。大神殿が、『奴隷免罪符』なるものを発行したのだ。これは犯罪をおかして人間以下の存在とされた者に発行される奴隷堕ちの証文である。ご丁寧に実名で、「マリア・マグダ・ディ・コルデー」を名指しして奴隷宣告していた。マリアの名が分かっていたので、「マリーちゃん」などと呼ばれていたのだ。
「聖女を殺すのはマズいが、奴隷に堕とすのはヨイ」という神官どもの思考が、マリア=嶺風にはさっぱり理解できなかった。とはいえ謎思考の持ち主に、うまく陥れられたらしい。拉致られて強姦されたのも、そいつらの手引きだったのだろう。
 見張りの男は、案外話し好きで気のいいアンちゃんだった。いろいろな話を聞けた。今日は若い女奴隷を取引する日で、性奴隷や娼婦奴隷が競売にかけられるそうだ。前世の新東嶺風だった時に、社研の学習会で旧日本軍が慰安所で性奴隷を酷使していたことは知っていた。しかし、しょせんは昔の他人事だった。まさか自分が性奴隷になろうとは夢にも思わなかった。
 高値で買われた奴隷ほど、大切にされるらしい。奴隷史上の最高値がついたのは、捕虜にされたどこかの小国の王女で、八億ニーゼで買われ外国の王様の側室になったんだそうな。「あんただったら、貴族様の奴隷メカケになれる」とか、妙な慰めをされた。
 マリアは、本日の『目玉商品』だったらしい。一番最後にセリ場に引き出された。シーツみたいな布切れは取り上げられ、丸裸だ。「元のマリアに悪いかなぁ」と思って両手で胸を隠して出ていったが、恥じらっているように見えてますます色気が増しただけだった。
 奴隷市場のセリ場は、三百人くらい収容する劇場に似ていた。数百のギラギラした目にさらされて、乳房を隠していた両手を解かされて飛行機のポーズをさせられたり、そのまま回転させられたり、万歳の姿勢をとらされたり⋯⋯。マリア部分の精神は息が止まりそうなほど恥ずかしがっているのだが、嶺風にとっては、こんなことで目をギラつかせている連中を見ていると、バカらしくて仕方なかった。
 美しく教養があるばかりでなく、この奴隷が軽蔑の目で客を見下していることに多くの者が感嘆した。こいつは奴隷堕ちしても、貴族の矜持や誇りを失っていない。子ができず悩んでいるある貴族などは、この女を孕ませ産ませれば、さぞよい跡取りができるだろうと考えたほどだ。妊娠したら奴隷身分から解放し、正式に側室にすればよい。

 マリア=嶺風は、奴隷に売られても、いずれ隙を見て逃げるつもりだった。それまでは、せいぜいおとなしくしていようと考えていた。なのだが、ゲスな視線と下品な野次にだんだん腹が立ってきた。売り子のはやし立てが、また奮っていた。
「さー、お待たせいたしました。いよいよ本日の目玉! 最高級品の出品です! とくとご覧下さい。高貴な貴族の娘が市場に出ることは、メッタにございません! おん年十八歳。花に例えれば咲き誇る寸前。どーぞ、この美しいお顔をじっっっくりとご覧下さいませ。華奢な容姿が最高の女奴隷! 読み書きができて掛け算と割り算までできる教養あふれる貴族の娘が、なんの因果が奴隷に転落! これほどの女奴隷を手に入れるチャンスは、二度とございませんよっ! 昼はお子様の家庭教師に。夜は旦那様の個人教授に(ゲラゲラゲラゲラゲラ!) 残念ながら処女ではございません。しかしっ、ホンの数日前までは、ムスメでございました! この美貌に卸売り業者が我慢できなかったのでございます!(ゲラゲラゲラゲラゲラ!) 断言いたします。この女奴隷は、ほとんど経験はございません! 数日前に悪徳業者に犯されただけっ! ご覧下さい。レッキとした医師の診断書付きでございます!(紙切れをヒ~ラヒラ) 今はまだ、その部分は痛々しく腫れておりますが、なにとぞご安心を! 処女膜まではムリでございますが(ゲラゲラゲラゲラ!) 当方が責任を持ってアソコを養生いたします(ゲラゲラゲラゲラ!) カンペキな状態に磨き上げ、ご自宅までお送りいたしますのでございますっ! いささか痩せてはございますが、均整のとれたこの美しいカラダっ! 小ぶりですがカタチの良いオッパイっ! 健康でございます。血統正しい気高い貴族娘でございます。奴隷メカケにして子供を産ませるもよし! 性奴隷としてイチからお好みに仕込むもよしっ! 高級娼館の看板娘にして稼がせるもよしっ! これは買わないと損でございますよーっ! さーあ、最高級女奴隷高貴なマリーちゃん! まずは切りよく、一千万ニーゼから!!」
「二千万!」
「三千万ニーゼ!」
「三千五百万!」
「四千万!」
「五千万ニーゼ!」
「おおぉっ! 今年の最高値がつきました! 五千万! 五千万ニーゼの落札で、よろしいでしょうかっ?」
「五千五百万!」
 ウオオオオオオオオォォォォ!
「屋敷を売る! 一週間待ってくれ!」
「手付け金を半額用意していただけるなら、十日お待ちいたしますよ~」
「よーし! 六千万ニーゼ!」
 シ─────────────ン
 ドヨドヨドヨドヨ⋯⋯⋯⋯
「八千万ニーゼ!」
 ウオオオオオオオオオオォォォォォ!!!
「八千万っ! 八千万ニーゼが出ましたぁ! 九年ぶりに最高落札価格を更新ですっ! 八千万! 聖都に立派なお屋敷が建つ価格ですっ! 皆さま、よろしいですか? 本当によろしいんですねーっ! はいーっ、ベスケー侯爵閣下が、八千万ニーゼで元貴族最高級女奴隷のマリーちゃんをご落札でございますでぇーすっ! あーりがとうございましたぁぁ! せーだいなる拍手を、おぉぉお願いいたしまーす!」
 おお─────っ! パチパチパチパチパチパチパチパチパチ!!

 八千万ニーゼ? 八千万円くらいか? なんだよー。どっかの田舎王女の十分の一の値段かよぉ? 三億くらい出せ!
 予想より安かったので、混じっているマリアの意識もプリプリ怒りはじめた。そこらへんの自尊心は、やはり貴族出身だ。
 全裸のマリアは、セリ場の最前まで歩いた。裸美人が近くに寄ってきたので、奴隷を買いにくるようなクズどもはヤンヤの大喜びだ。マリアは、腕を伸ばし人差し指で天をさした。
「女神の光っ!」
 ヒュイイイイイィィィィ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
 銀と金の光が指先からきらめくと、奴隷市場をなめて広がっていった。数秒後、マリア以外の全員が昏倒していた。
 今のレオンだったら、こいつらを手当たり次第に殺していただろう。しかし、マリアの身体に入った嶺風の精神は、元マリアに強く束縛されていた。女性化し、ひどく優しくなっていたのだ。
 殺すことなど思いもよらず、とりあえず逃げることを考えた。女の客が何人かいたが、極彩色の服が下品すぎて元マリアの精神が嫌がって拒絶反応を示す。少しはマシなセンスの服を見つけたが、こちらも「盗む」という行為に元マリアの精神が激しく拒絶反応を示し、脱がすことができない。困り切って周囲を見渡すと、セリ場に天幕のつもりなのか、白い遮光カーテンのような布が張られていた。どうやら元マリアは、他人から服を剥いで奪うことを嫌悪したらしい。これには元マリアの精神の拒否はなかった。白布を外して身体に巻きつけ、女客の頭から「拾った」ピンで止めると、何日か前に神殿ではぎ取られた古代ローマ風の神女服みたいになった。床に落ちていたサンダルを拾ってマリアは、奴隷市場からぬけだした。
 でも、ちょっとだけ気になった。ベスケー侯爵ってどんな人だったんだろうか?

 うまく逃げ出せたとはいえ、困ってしまった。当たり前だが大神殿には戻れない。元マリアの家族のもとへ逃げ帰るのも、迷惑をかけるだろうから避けたかった。それに途中で逃亡奴隷として捕縛されたら、どうなるかも分からない。
 そろそろ夕方だ。またゴロツキどもに輪姦されるのは御免だった。行き先のない足は、自然に歩きやすい向きに進んだ。坂があったら無意識に下りてゆく。坂の先にはドブ川があった。川の両側はスラムである。マリアは、いつの間にか夕方のスラム街に入り込んでいた。
 明るい時間のスラムは、夜とはまるで違っていた。地域のコミニティが生きているため、意外なほど安全なのだ。放し飼いのニワトリと一緒に半裸で裸足の子供たちが、大勢かけ回っていた。そんな中に純白の女神さまの服を着たおねーちゃんが、やってきたのだ。子供の習性にしたがって、大勢がマリアの後をついてきた。人懐っこい子供がマリアにたずねた。
「おねーちゃん、女神さまなの?」
 マリア=嶺風は、子供が好きだった。だから子供を苦しめ堕落させる貧困やそれを生み出す社会の仕組みを激しく憎んだ。
「女神? 違うわよ。うふふ⋯⋯」
 マリアは、本当にひさしぶりに笑った。
「じゃあ、神女さまだったの?」
「神女だったけど、神殿を追い出されちゃったの。困ったわ⋯⋯」
 子供たちは、ビックリした。「なんでこんなにきれいな女の人が、神でんをおいだされてしまったんだろ?」。
 幼い子供が路地で転んでビービーと泣いていた。両膝から血が流れていた。マリアは子供に駆けよると膝をついて、「もう痛くないよ。すぐ治すからね」とあやしながら子供の膝に手をやった。「なんだ?なんだ?」と取り囲んでいる子供たちは、マリアの手が銀色に輝いたのが見えた。一瞬で両膝の傷は消えた。
 子供たちは、やっぱり「このおねーちゃんは、女神さまなんじゃないかな?」と思った。でもすぐに、女神さまのつぎにえらい人を思いだした。
「おねーちゃんは、聖女さまなの?」
「そうよ。聖女なの」
 マリアは、再び笑った。

 

 

 子供たちに引っぱられ、病人のいる場所に連れていかれた。死にかけた赤ん坊を抱いて泣いている母や、土木作業中に大怪我をして追い出された男らが大勢いた。病人の多くは、栄養失調からくるもので病気だけ治しても根本的な意味はなかった。それでも少しでも楽になるならばと、マリアは病者を癒した。
 やがてマリアは、住人が逃げたか殺されたかして空き家になっていたスラム街の外れの少し大きな掘っ建て小屋を提供された。マリアは、それから殺されるまで七カ月間、ほとんどこの『癒しの小屋』から出ることなく、病気治しを続けた。
 マリアがスラム街で癒しを始めたという噂は、すぐに大神殿に伝わった。意外なことに大神殿からの妨害や圧力は、ほとんどなかった。スラムの住人たちも、マリアが追放された神女であることをすぐに知った。でも、たまにカネをせびりにくるだけの神殿などより、マリアの方がよほどありがたかった。このころになるとファルールには、人間はおろかもう生物の姿さえ無くなっていた。
 癒しの小屋の前には、長い列ができた。マリアは、寝なくても平気な身体になっていたので、眠らないでひたすら病者・傷者を癒し続けた。手伝いの人たちに少しは休むように忠告されたが、病気で苦しみ悶えている者や怪我で血を流し苦しんでいる者が黙って並んでいるのを見ると、とても休む気にならなかった。二十四時間ぶっ続けで働いても、百人を癒すのが限界だった。列は少しも短くならなかったが、それでもマリアは癒しを続けた。
 手伝いの人たちには、聖女の凄まじい自己犠牲に見えた。なかにはこっそりマリアを拝む者までいた。しかし、子供たちは能天気で、よく癒しの小屋にやってきては、ひたすら働いているマリアの気を晴らしてくれた。癒しをしながら子供たちに読み書きを教えるのは、マリアの小さな楽しみだった。
 さすがに文無しでは不自由だし、栄養失調の人にせめて一食くらいは渡したい。そう考えて、手伝いの人に頼んで底が抜けた大きな壷を拾ってきてもらい、穴をふさいで小屋の出口に置いた。常に飢餓線上にいるようなスラムの人たちからは無理だったが、隣接する貧困街から訪れた人はよく銅貨を入れてくれた。
 神殿の時と同じように、貴族がやってきて今すぐに治療するように強要されたことがあった。チラと見るとぐったりした十二歳くらいの少女だった。弱っていたが直ちに命に関わるような症状ではなかったので、列の後ろに並んで順番を待つように言った。神殿の時と同様に、護衛騎士と名乗る者が剣を抜いて突きつけてきた。小屋の空気が凍りついたが、マリアは護衛騎士を一瞥もせず「邪魔です」と言って剣を払い、癒しを続けた。
 生意気な女を少し脅かしてやろうと護衛騎士は、剣の刃をマリアの右頬に当てた。その時、手元が狂ってザックリ深くマリアの右頬を傷つけてしまった。大量の血が流れ、例の白い遮光カーテン製の服の右側が赤く染まった。沈黙に包まれた小屋の中で、立ちつくした護衛騎士を横において、それでもマリアは黙々と癒しをおこなっていた。
 しばらくして、戸板に乗せられた急患がかつぎ込まれてきた。血だらけのマリアの姿を見て運んできた人たちが驚いて騒ぎ、患者を小屋に運びこむのに手間取り少し時間があいた。その間に、マリアが自らの右頬をなでると瞬時に傷が消えた。さらにその場で血でぐっしょり濡れた服を脱ぎだしたので、男どもはど胆を抜かれてしまった。女衆が飛んできてマリアを隣の小部屋に連れて行き、着替えさせた。少し学のある者が、「マリア様は赤子のように清らかな聖女なので、イヤらしい考えが無いのだ」と説明して、皆が納得した。
 十七時間後に、貴族の少女の番になった。白血病だったが、数分で癒すことができた。例の護衛騎士が「お嬢様がここにいらしたことは、誰にも言ってはならない」などと脅しじみたことを言い残して去っていった。間の抜けたことに、『お嬢様』の名前なんか誰も知らない。それにマリアは、忙しかった。そんな言葉は完全に無視して、つぎの病者の癒しを始めていた。一部始終を見ていた子供が、「あんなやつ、治してやらなくていいのに!」と怒った。マリアは、なにも言わずしばらく静かに笑っていた。やがて、「つぎは、左の頬に⋯⋯」と、小さくつぶやいた。
 数カ月後に銅貨が壷いっぱいに貯まった。マリアは、貧民学校を建てることにした。なにか事情があって貧民街に流れゴロゴロしていた教育のある若者が、マリアの働きに感動して教師を引き受けてくれた。
 スラム街は、みんな不法占拠なのでいつか追い出されてしまうかもしれない。この銅貨で土地を買うことにした。癒しの小屋の近くのスラム街と貧民街の中間あたりに、ごく小さな校庭のあるミニ学校が建つくらいの土地を買った。持ち主が、『聖女マリア』に心服しており、壷の銅貨で格安で譲ってくれた。
 校舎を建てる資金はもう無いので、スラムの人たちに頼んだ。彼らは喜んでどこからか廃材を集め、『スラム様式』とでも呼べそうな五十人ほどが入れる平屋の校舎を建ててくれた。とうとう完成したと聞くとマリアは五分ほど走って学校の前に行き、しばらく嬉しそうに眺め、また走って癒しの小屋に戻り、待たせたことを謝って、再び癒しをはじめた。
 この学校が、マリアの死に場所になる。
 マリアは、ここで子供に読み書き計算を教えれば、スラムから抜け出すことができると考えた。これはマルクスが批判した空想的社会主義の考えに近い。毎年五十人がスラムから抜け出しても、新しく五十人がスラムに流れてきたら同じことだ。スラムを生み出す社会を変えないと駄目なのだ。より正確に言うと、人間を飢餓線上に置いて、多くの人がしたがらない仕事を生存できるギリギリの賃金で働かせる『スラム』という『装置』。その搾取装置の存在が、不可欠な土台のひとつとして成り立っている社会。そんな社会を変える方法は力しかない。強制的に変えない限り、この小さな学校もいずれ泡のように消えてしまう。
 もちろんマリア=嶺風には、そんなことは分かっていた。しかし、神殿を追放され奴隷堕ちまでしたマリアは、もう社会的には死んだも同然の存在だった。そんな力は無い。でも、すぐにくるだろう最後の時まで、できるだけのことはしようと考えていた。

 

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 女神聖典 聖コマルによる福音書 聖女マリア伝より
 第九章
  ①.女神セレン昇天聖日の深夜、聖女マリアは、癒しが終わったことを悟られた。癒しの小屋にいた者たちは、すべてが床に臥し倒れて眠り込んでいた。聖女マリアは、立ち上がられ、癒しの小屋から出られた。マルコスというひとりの少年が、聖女マリアが出て行かれることに気づいた。 ②.マルコスは、「深夜にどこへ行かれるのですか。外は暗いです」と言った。聖女マリアは、「女神セレンの御元へ帰る時がきたのです」と答えられた。そして「血と苦しみに会いにいく」とつぶやかれた。マルコスは驚き、眠っている皆を起こそうと試みた。しかし、ひとりも起きる者はいなかった。 ③.聖女マリアは、癒しの小屋から出て行かれた。マルコスは、後に続き「私はあなたを守る」と言った。聖女マリアは、振り返り「たたかってはいけない。隠れて全てを見ていなさい」と答えられた。聖女マリアは、しばらく聖都ルーマの貧しい者が多く住む町を歩かれた。とても苦しそうなご様子で、御顔から血の汗を流しておられた。 ④.聖女マリアは、貧しい小屋に囲まれた小さな学校の庭に入っていかれた。そこは、癒やされた者たちが寄付した銅貨を集め聖女マリアが建てられた学校だった。校庭の中央に立たれると、「ここは、ふさわしい」とおっしゃられた。やがて十人ほどの黒い服をまとった者たちが現れた。彼らは、聖女マリアを害そうと悪魔が入った不信心者たちであった。全員が剣を帯びていた。 ⑤.マルコスは、怖れて建物に逃れた。悪魔が入った者たちは、剣を抜き聖女マリアを指して言った。「この女は、偽りの癒しをおこない女神を汚した」。そして剣先で聖女マリアの左頬を傷つけた。傷から血が流れた。黒い者たちは、血を見てあざ笑って言った。「見ろ。女神ならば、血が流れるはずがない」。聖女マリアは、天を指して言われた。「女神セレンとすべての人びとに見てもらいましょう」  ⑥.聖女マリアの指先が輝き、女神の光があらわれた。銀色に光る球になって上り、屋根の高さで止まった。近くに住む者たちが、昼のように明るくなったことに驚き、窓や戸の隙間から覗いた。彼らは、聖女マリアと剣を持った黒い者たちを見た。悪魔が入った者は、「これこそ悪魔の業なのだ。おまえは死ななければならない」と叫んだ。⑦.聖女マリアは、「この地に流れる血は、女神セレンの血であり、私の血であり、癒した者たちの血でもある」と言われた。そして、自らの心臓を指差して「ここを貫きなさい」と言われた。悪魔の入った者が、獣の叫び声をあげ、剣で聖女マリアの心臓を貫いた。他の黒い者たちも獣の叫び声をあげ、何回も聖女マリアを刺した。⑧.聖女マリアは、「この血は、多くの不幸で購われるでしょう。血が河のように流れ、大勢の人たちが苦しむことが悲しい」と言われた。聖女マリアが死なないことを恐れた黒い者が、「悪魔よ、去れ」と叫んだ。何本もの剣に貫かれた聖女マリアは、天を仰ぎ「彼らは、自分がなにをしているか分からないのです」と言われた。恐怖にかられた黒い者は、悪魔の力を振るって聖女マリアの首を剣ではねた。 ⑨.聖女マリアの頭が地に落ちた瞬間、空に輝いていた女神の光が消え、周囲は暗闇になった。地鳴りとともに地面が揺れ、大神殿聖本堂の女神セレン像を覆った幕が二つに裂かれた。恐怖にかられた黒い者たちは、逃げ去った。マルコスが、聖遺骸にとりすがり「聖女マリアが死んだ」と叫び、激しく泣いた。 ⑩.おびえて隠れていた住人たちが、近くの小屋から出てきた。何人かはランプを持っていた。地に落ちている聖女マリアの頭を見た者が叫んだ。「大変だ。聖女マリア様が亡くなった」。その声を聞いて多くの者が集まり、聖遺骸の周りを囲んで泣いた。やがて荷車が運ばれてきた。人びとは、聖遺骸を載せて聖都ルーマ女神セレン大神殿聖本堂まで運んだ。大勢の女や子供たちが泣きながら聖遺骸の後についてきた。知らせを受けた大神殿は、すべての神官と神女が跪いて聖遺骸を迎えた。 ⑪.聖女マリアの聖遺骸は、柩に納められ女神セレン像の隣に安置された。やがて聖遺骸から芳香が漂う奇跡が起きた。あまりに多くの人たちが訪れたため大神殿に入ることができず、人びとは行列をつくって聖遺骸の前を通り、御姿を拝した。三日たっても行列は途切れなかった。四日目の早朝。行列している者や人びとの整理をしている者が、突然眠気に襲われ、全員が地に伏して眠った。 ⑫.人びとが目を覚ますと、すでに柩から聖遺骸が失われていた。柩には、聖血痕が遺されていた。ある者は、「殉教された聖女マリアは、女神セレン様の御手によって引き上げられ昇天されたのだ」と言った。別の者は、「女神セレン様は、聖女マリアを殺した人間をお赦しにならず、聖遺骸をおとりあげになったのだ」と言った。またある者は、「聖血痕が遺されたのは、人が聖女に血を流させたことを忘れさせない女神セレン様のお考えである」と語った。
 聖女マリアが殉教された地には、聖マリア神殿が建てられた。
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 (続く)

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