麗景殿の女御とその妹(花散里)
本文 かの本意の所は、おぼしやりつるもしるく、人目なく
静かにておはする有様を見給ふも、いとあはれなり。先づ
女御の御方にて、昔の御物語など聞こえ給ふに、夜更けに
けり。二十日の月さし出づるほどに、いとど木高き影ども
木暗く見え渡りて、近き橘の薫り懐かしく匂ひて、女御の
御気配、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうた
げなり。
「すぐれて華やかなる御おぼえこそなかりしかど、むつま
じう懐かしき方にはおぼしたりしものを」など思ひ出でき
こえ給ふにつけても、昔の事かきつらねおぼされて、うち
泣き給ふ。
現代語訳 目ざす麗景殿の女御の住まいは、想像していたと
おり、人影もなくひっそりとしていた。そんなたたずまい
を眺めながら、源氏は昔の思い出を懐かしんだ。
女御の部屋で、故桐壺院の思い出話をしているうちに、
夜が更けてしまった。ちょうど二十日の月が昇るころで、
高い木立の影がいっそう暗く見渡され、近くから橘の香が
懐かしく匂ってきた。女御は、年をとったが、非常に心遣
いが細やかで、気品のある美人だ。
「特別な寵愛はなかったが、父の桐壺院が、心のなごむや
さしい方だと認めていたのに」などと、昔の事が次々と思
い出されて、源氏は、思わず涙をこぼした。
★花散里の容姿や性格は直接描かれていないが、静かで
親しみのある雰囲気が伝わってくる。美貌ではないが、
家庭的で、源氏は深く信頼した。のちに、息子の夕霧
や夕顔の遺児(玉鬘 たまかずら)の世話を彼女に頼ん
でいる。母親代わりをつとめて、地味だが、評価の高
い女性である。
角川ソフィア文庫ビギナーズクラシックス
源氏物語より