むかし、をとこありけり。

そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ、

あづまの方に住むべき国求めにとて行きけり。

もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。

道知れる人もなくて、まどひいきけり。

三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。

そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を

八つわたせるによりてなむ八橋といひける。

その沢のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯食ひけり。

その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。

それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字

を句の上にすゑて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。

 よみかた) むかし、おとこありけり。

そのおとこ、みをようなきものにおもいなして、きょうに

はあらじ、あずまのかたにすむべきくにもとめにとてゆき

けり。

もとよりともとするひとひとりふたりしていきけり。

みちしれるひともなくて、まどいいきけり。

みかわのくに、やつはしというところにいたりぬ。

そこをやつはしといいけるは、みずゆくかわのくもでなれ

ば、はしをやつわたせるによりてなんやつはしといいける。

そのさわのほとりのきのかげにおりいて、かれいいくいけ

り。

そのさわにかきつばたいとおもしろくさきたり。

それをみて、あるひとのいわく、「かきつばたといういつ

もじをくのかみにすえて、たびのこころをよめ」といいけ

れば、よめる

(口語要約) 昔、一人の男がいた。

男は自分が用のない存在に思え、東国に居を求めようとわ

ずかの友を連れて出かけた。

三河の国の八ッ橋というところに出た。

川が蜘蛛手に分かれ橋を八つかけているから八ッ橋という。

その沢に杜若が趣き深く咲いているのを見てある人が、

「かきつばたの五文字を入れて旅の思いを詠め」と言った

ので、男は次のように詠んだ。

 

    から衣 きつつなれにし つましあれば

           はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ

    

    ​着慣れた唐衣のように 慣れ親しんだ京の妻を

    思うと、ここまで来た旅の遠さが思われる

    

 

     斎藤孝著 声に出して読みたい日本語①より