私が子供の頃から疑問に思っていたこと
めちゃくちゃ長いのでしかもかなりよくわからない事を言ってるかもしれないので😅注意
私の思うことです
死ぬと言う事、生まれてくると言う事。
それが1番疑問だった。
どうやって生まれてくるのか?
死んだ後どこに行くのか?
それを大人に聞いてもちゃんと説明をしてくれないし、本を読んでもあまりはっきりとした内容がない。赤ちゃんはどこから来るの?に対して
こうのとりが運んでくるんだよ
かぐや姫が生まれるのは竹やぶの中から、桃太郎が生まれるのは桃の中から
そんななんだかよくわからない疑問。
そして人が死んだ後どうなるのか?
死後の世界天国と事
地獄の話を丹波哲郎が言っていたけど何言ってるのか子供には意味わからなかった(笑)。もっと話を聞きたいと思っているうちにあの人は死後の世界へ行ってしまった
死後の世界に三途の川があり渡かけたと言う話を聞くけど、死んだ後の世界は誰も聞いていない。
だから落語とか昔話で死んだ後、帰ってこない人が多いのはとても良い場所だから、だから誰も帰ってこないんだと聞いた時はちょっとなるほどと思った。
私は子供ながらに何か聞いてはいけないことなんだなと思って自分で本を読んだり、自分の空想を深めたりだから同時にセックスと言うものにも興味を持った。
なぜ人はセックスをするのか?子作りのため、それを知った時は、セックスをすることによって子供が生まれる。それはわかっていた
なぜなら保険体育で学ぶから
だけど、そこに人を愛するがセットになっていると知ったとき、吐き気を催したことがあった。
中学生の時に友達が持ってきてたエロ本を見てセックスってこうなのかと衝撃だった。
だけど、そういうものなんだとセックスをするには愛がついてくるのだとそう思ってから
セックスというものを知ってから
私はその愛を欲しいと思った
最初は何があるのかもわからないし今は考えたらただお互いに合う人との交わりなのだと思う
もしかしたら純粋にそこに愛があるのかもしれない
後にセックスをすれば女は愛がついてくるのなら欲しいと思いはじめて
だけど、男は本当はただ快楽を求めているだけであったり、快楽を求めるために愛を提示していたり、人はなぜ2つを1つにするのだろう。
なぜ物事を切り離して考えるのではなく、物事をひっつける癖があるのだろう。
それはもちろん私もあるから今までもかなり振り回されてきた
全く真逆にあるようなものをひっつけるから
だから勘違いが生まれおかしくなっちゃう。
抱きしめてくれないから愛がないと思う
セックスをするから愛されていると思う。
全く逆のところに愛とセックスはあるんだと知った。
ただ抱きしめられているだけで、そこに愛はあるんだと
男は基本愛に溢れている
女はパワーに溢れている
男はパワーが欲しくてパワーを持つ女を自分の物にしたくなり欲しがる
女は愛に抱きしめられたくて男から貰おうとする
そんな背景が見えたり
私のパワーをあげるとか俺の愛を与えるとか
おかしなことになる
私もずっとそこに執着していた気がする
セックスをする事はただの快楽やただの発散であったり、ただそうなだけ
愛とはすでに統一されていて、愛は全てである
パワーはすでに誰しもに元々存在している
私はセックスをするたびにとても悲しい気持ちになることがあった。
満たされている気持ちを知っているからこそ、あの満たされている気持ちになりたいと思えば思うほど2人で一緒に
あなたと共にと思えば思うほど悲しみが襲ってくることがあった
女の人は特に愛されているならこうされるだろうとかそういうことをよく考えると思う。
男はセックスをするためには、腕枕をするとか抱きしめるとか丁寧に扱うとか表面的なことをそうすることで愛を与えていると自分の快楽が満たせると思うのであろうかハウツー本があるのは取引方法にも思う。そういうのをとっぱらったとき
無になり、自分の頭の中の思考が消え、ただ無心で抱きしめ合う
その時何もない状態になる。そこに愛も確認できないし、動物的な何もない状態。頭で考える快楽とかじゃなくて、ただ動物的になる。
その感覚が気持ち良いからまたする
ずっとずっと求めていたもの
それは何物でもなく何でもない私と言う存在
宇宙の中にぽかんと浮かぶ気持ち良いのか何なのかつかみ所のない脱力感や安心感
どうでもいいようなそんな感覚になる
人はただそこを求めているのかもしれない。
そしてそれを求めれば求めるほど手に入らなかったりする。だから、虚無感や悲しみや絶望とか、そういうのが同時に押し寄せてきたりする
愛と言うものを求め続ける事は
愛が手に入らなかったりする。
ただぬくもり、ただ安心安堵感、自分の心の中でそれらを知ったとき、それらを認識したとき、それらを感じたとき、ただそこの場所で求めているのかもしれない。そして死んだとき、その場所に帰るのかもしれない
そんな幻想があったりするから、人は死にたいと言うのかもしれない
死んだらそこへ行けるのでは無いか?と
私は心の奥底にある生きたいと言う欲望がそこに相反するから、もがき苦しみながら生きるを味わっているのかもしれないと思う
だけど、その流れに沿った時、私はただ安心と幸福と何かに包まれているような温かい気持ちになるのが日常でもあることを知った。
そこに快楽のようなセックスはなく私が私と一体となるような母親のお腹の中に帰ったようなそんな気持ちになる。
男の人は特に母親のお腹の中に帰りたがるのはそういう気持ちになれるからかな。
子供が小さな頃よくママのお腹の中に戻りたいと言っていたのを思い出した
普段思っていることを今日はちょっとブログに書いてみた
人々がタブーと見ているようなことをずっと誰かに聞いてほしくて
ずっと誰かに言いたかったような
本当にずっと思っていたことだった
最近になり
快楽とは一瞬だと知り
永遠と続くモノは私の中にしかないことを知ったから
記しておきたかった
ただ
それでも愛し合うと言う言葉の元
愛のあるセックスをしたいと願うのは
悪いことではないし
快楽を求め愛を与えようとするのも悪いことではない
ただの好みなんだなと思う
真実とは一体なんなのか?
一瞬一瞬の繰り返しは全て異なり
私を作っている
その上で私達は生きているのは
死ぬ為であり
生きることを楽しみに生まれてきたなら
やはり自分が納得してやりたい事をやっていくのが私にとって大事なことなんだなと思う
改めて時間を取ってこうして文章にしてみると
私はこんなことを考えていたんだなとよくわかる
たしかにこんなこと誰にもなかなか言えないし
誰も聞いてくれないだろうと言えなかった(笑)
最近はこんな私が
私なんだな😂と受け入れ出してから
世界が変わった気がしている

