郵便局員のごった煮よもやまブログ

郵便局員のごった煮よもやまブログ

とにかく私自身の趣味・思うことなど書き込んでいきます。

さて御承知の方もおられますが、先月大相撲初場所が行われ無事に千秋楽を迎えました。と言うわけで簡単ながら初場所の事を書かせていただきます。

 

まずは安青錦関、優勝おめでとうございます。新大関の場所でのいきなりの優勝、改めて勢いの凄さを感じます。来場所はいきなり綱獲りの場所となりますが、まあプレッシャーもあると思いますがむやみに考えずに当たって砕けろで頑張っていただければと思います。

 

熱海富士はいくら相手が格上とはいえ新入幕以来の2回目の優勝決定戦も破れてしまって何かツイてない感があった。せっかく2横綱を倒して調子が良かっただけにね…、まあ引退するまではチャンスは作る事が出来ますので頑張るしかないとしか言いようがないですね。

 

大の里・豊昇龍の両横綱は両方とも平幕相手の取りこぼしがあった事から(特に天覧相撲の日)いろいろ言う声もありますが、まあそういう時もあるという事で(特に大の里は先場所の怪我もあるからね…)。

 

あと<二代>霧島が関脇で11勝4敗、来場所の成績次第では大関カムバックも有り得るので頑張って欲しいものです(何せ近年大関から落ちる力士が多いのが困りものなんでね…)。

 

さて来月の春場所はどうなるのだろうか、特に安青錦関の綱獲りが気になるところではあるが、それは来月になってからの御楽しみという事で…。

訃報が続きます…。

 

将棋棋士の加藤一二三さんが亡くなられました。一昨年から体調を崩しがちとなり入退院を繰り返している状況だったそうです…。

 

現役として60年以上の長きにわたり活躍されたトップ棋士であった。福岡県嘉麻市生まれで、幼稚園の頃に近所の子供が将棋を指しているのを見よう見まねで覚えたのが将棋との出会いで、その後は空白期間はあったが将棋の魅力に取り付かれ、まだ小学生の昭和26年に南口繁一門下となり関西奨励会入りしプロ棋士への入り口に入り、元々並外れた素質の上に当時日の出の勢いの升田幸三さんから可愛がられよく将棋を指した事もあって力を付けて昭和29年8月に14歳7ヶ月という当時の史上最年少記録で四段に昇格し晴れてプロ棋士となった。

 

その後は順位戦で必ず大勝ちして昇格するという期待に違わぬ活躍を見せ、昭和33年4月1日付で18歳3ヶ月でA級昇格で八段となった(なおA級昇格は現在も破られてない最年少記録である)、そしてこの活躍振りから「神武以来の天才」と呼ばれる事になった。

そして昭和35年の第14期順位戦ではA級トップの成績を収め20歳3ヶ月の若さで名人戦挑戦権を得た(なおこれも現在も破られてない最年少記録である)、そして名人の大山康晴さんと対決したが敗れてしまった。そしてここからの1960年代は大山さんの全盛期でありタイトルの挑戦権を得てもなかなか大山さんの牙城を崩す事が出来なかったが、昭和43年度の十段戦の挑戦権を得て十段保持の大山さんと対決して破り初タイトルとなる十段を獲得した。

 

そして1970年代に中原誠さんが第一人者に台頭するとタイトル戦は中原さんとの対決が多くなったがこちらもその牙城をなかなか崩す事が出来なかったが(なおこの時期の昭和48年に九段に昇格)、昭和51年度の棋王戦で大内延介さんから棋王のタイトルを奪取すると翌昭和52年度に中原さんの挑戦を退け棋王のタイトルを防衛。そして更に翌昭和53年度の王将戦の挑戦権を獲得し王将の中原さんと対決したのだが、加藤さんの3勝1敗で迎えた第5局で指し手が見付からず悩んでいた中で中原さんが席を外した時に中原さんの側から盤面を見て指し手を編み出して勝利して王将のタイトルを獲得し二冠を達成した。なおこれを機に時に相手の側から盤面を見る事を折を見て行うようになり、これは大分後年に「ひふみんアイ」と呼ばれるようになった。

その後昭和55年度に十段戦で中原さんを破り再び十段を獲得し、翌昭和56年度に米長邦雄さんの挑戦を退けタイトルを防衛。そして昭和57年度に名人戦の挑戦権を得て名人の中原さんの勝利し念願の名人を獲得、これにより再び二冠を達成した。

 

そして昭和59年度の王位戦で高橋道雄さんから王位のタイトルを奪取するも、翌昭和60年度にその高橋さんに王位を奪還されると以降はタイトル戦の登場する事は無くなったが長きにわたり活動し、平成元年には史上二人目の通算1000勝を達成・(途中何度かB級1組に落ちたが)62歳の平成14年度までA級に在籍・平成19年には史上初の1000敗を達成(これは逆に長くやり続けた証の名誉ある記録である)を打ち立てたが、ピークが過ぎた事もあり順位戦のランクもどんどん下降していった。

 

そんな最中の平成24年にトークバラエティー番組『アウト×デラックス』で「クイズを出したがる棋士」として出演したところそのキャラクターが大いにウケて、以降は「アウト軍団」の一員として番組に常時出演し「ひふみん」の愛称で親しまれ大いに活躍するようになり、それ以外のバラエティー番組にも出演するようになりタレントとしても大いに活躍するようになった。

そして平成28年12月の第30期竜王戦6組初戦で加藤さんの最年少プロ棋士の記録を塗り替えた藤井聡太さんのデビュー戦の対戦相手となり、敗れはしたものの注目の中学生棋士と既にバラエティー番組で大活躍のレジェンド棋士の対決は大いに話題となった。

そして平成29年に入ると最下位クラスのC級2組での平成28年度の順位戦の成績が芳しくなく降級点が3つ付いてしまいC級2組からの降級が決定した事により規定により引退する事となり、6月20日の第30期竜王戦6組昇級者決定戦の対局で敗れた事で全ての対局を終えた事で現役を引退、77歳5ヶ月での引退は史上最年長となった。

 

基本私は将棋はそんなに詳しくはない人間ではあるが、いわゆる『アウト×デラックス』出演以前から名前は存じておりました。トップ棋士という事で名前を知ったのだが「一二三」という珍しい名前という事もあって印象には残っておりましたが、まさかその後『アウト×デラックス』であれだけの大活躍をする事になるとは思いもしなかった、あの番組はちょくちょく見ていただけに番組での活躍振りは目にしておりました。それもあってその後の前述の藤井聡太さんとの対局や最後の対局は既に人気者となった事もあってマスコミに大きく取り上げられたのだが、将棋棋士の引退でここまで大きく取り上げられたのはこの方だけじゃないかな?

 

現役引退後は相変わらずのバラエティー番組出演でタレント活動が旺盛な一方で、将棋評の執筆やイベント出演などでサイドから将棋の普及に務めた。そして長年の功績から令和4年に文化功労者となった。

 

考えてみると自分としては(他の人もそうだと思いますが)この方のバラエティーでの活躍が完全に「つい最近」の感覚だったので時の流れの速さを残酷に感じる次第であります…。今頃はあの世で数多の名棋士達や先に逝ってしまった同じアウト軍団の遠野なぎこさんと再会してるだろうな…、でも正直寂しいな…。

 

 

 合掌

訃報が続きます…。

 

かつてのアイドルコーラストリオ「スリーファンキーズ」のメンバーだった長沢純さんが亡くなられました。当日に自宅で倒れてそのまま亡くなられたとの事です…。

 

現在も華やかりし男性アイドルグループの先駆け的存在の一人であった。東京都の出身で、昭和35年頃にジャズ喫茶「銀座テネシー」の歌手募集オーディションに合格し(同期合格に後に同じメンバーとなる「うっかり八兵衛」こと高橋元太郎さんがいた)、その後はまずロック専門のバンドで下積みを積む事となった。

そして翌昭和36年にテレビ番組出演する際にディレクターの意向から突如同じ境遇の状態である前述の高橋元太郎さんと鎌田実さんの3人でトリオ結成する事になり名前も「スリーファンキーズ」と名付けられテレビ出演。その出演時にメインの出演者の後で歌ったり踊ったりする姿が大いに注目され、次第に人気を集めるようになり翌昭和37年に「でさのよツイスト」でレコードデビューした(なお番組出演で注目されてからレコードデビューするまでの間に鎌田実さんが脱退し高倉一志さんが加入している)。

 

レコードデビュー後も「涙の日記」「ナカナカ見つからない」「想い出のダイアナ」などのヒット曲を出しながらジャズ喫茶のステージ・テレビ・映画と大いに活躍、当時二十歳前後の爽やかな感じもあってその後雨後の筍のように続出する男性アイドルグループの先駆け的存在となった。

またメンバーの方は昭和37年に高橋元太郎さんが脱退し手塚しげおさんが加入し第二期メンバーとなり、昭和40年には高倉一志さんが脱退し早瀬雅男さんが加入し第三期メンバーとなり、メンバーが変遷していく中でリーダーとしてトリオを引っ張っていったが昭和41年にトリオは解散した。

 

「スリーファンキーズ」活躍期は私は生まれて無かったので当然全盛期はリアルタイムでは見ていない。私がリアルタイムで見たのは平成3年の『NHK思い出のメロディー』が多分最初だと思うが、その時は第二期メンバーが揃い第二期メンバー時代のヒット曲「ナカナカ見つからない」を歌っていたのを大いに覚えているが、ただリアルタイムで「スリーファンキーズ」を見たのはこの他にあったか無いかといった感じだったのが残念である。

ちなみに全盛時はバラエティー番組『シャボン玉ホリデー』のゲスト出演や出演映画『ハイハイ3人娘』(主演 中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり)を発売されたDVDで見ていたので、その時の息吹を少しは感じる事が出来た次第であります。

 

トリオ解散後はソロとなり歌手・俳優として活動するようになったが、一方で歌謡オーディション番組『全日本歌謡選手権』やクイズ番組『あなたに挑戦!』などで司会を務め、1970年代は司会者として大いに活躍した。

その一方で昭和44年に企業の販売促進やイベントの企画・運営を行う会社「長沢企画」を設立し、当初は芸能活動の傍ら社長業に邁進していたが、その後は社長業や実業家としての社会活動に比重を置くようになり芸能界の表舞台からは距離を置いていたが講演活動やイベント出演など活動はしていたそうです。

 

しかし昭和歌謡の星がまた一つ消えてしまいました…そして「スリーファンキーズ」も第二期メンバーは全員いなくなってしまいました…、本当に残念な事であります…。

 

 

 合掌

訃報が続きます…。

 

かつての音曲漫才トリオ「フラワーショウ」のメンバー華ゆり師匠が亡くなられました。1月18日に78歳で亡くなられたとの事です…。

 

上方演芸華やかりし昭和40年代以降に活躍された方でした。岡山県出身で、実は関西浪曲界の雄<初代>京山幸枝若先生の妹であった。時期は不明だが既にフラワーショウのリーダーとして活動していた華ぼたん師匠の門下となり、昭和41年に華悦子の芸名でぼやき漫才の東文章師匠とコンビを組んでデビューするも師匠華ぼたんに誘われる形で同じ昭和41年にフラワーショウに加入した。

 

フラワーショウは「道頓堀行進曲」の替え歌のテーマソングから始まり、リーダーの華ぼたん師匠とボーイッシュな風貌の華ばら師匠のテンポあるやり取りで笑わせて進行し、その間を縫ってゆり師匠の高音でスローテンポの喋りで二人の調子を崩して更に笑いに持っていくというスタイルでたちまち人気を得て、昭和40年代に「かしまし娘」「ちゃっきり娘」「ジョウサンズ」といった女性音曲漫才トリオ華やかりし頃の一翼を担う存在となった。ゆり師匠は一時期(昭和50年代初頭頃と思われる)出産による休業による空白期間はあったものの(その時期は「ザ・ドリーム」のメンバーだった華らん師匠がサポートメンバーとして加わった)、それ以外はずっとトリオに身を置いて活動し、トリオ自体も長きにわたって活躍した。

 

しかし平成元年にトリオのリーダーで自らの師匠でもあったぼたん師匠が自裁されてしまい、同じく残されたばら師匠とのコンビの形で活動を続け、ぼたん師匠の役割の穴を埋めるために自らはツッコミ担当となり喋りも早口になるといった芸風の方向転換をして新たなスタイルを作り上げた。

そんな最中の平成5年より『サカイ引越センター』のCMに出演、俳優の徳井優さんとのコンビで♪勉強しまっせ引っ越しのサカイ~のCMソングもあってCMが全国的に大流行し、別の面でその名が知られる事になった。

 

私はトリオ時代の「フラワーショウ」の漫才はぼたん師匠が亡くなる前にリアルタイムではテレビで2・3回は見ていた(当時ぼたん師匠の自裁のニュースを見てショックを受けました)。ただトリオ時代のリアルタイムは私が中学生の頃までだったので、私が「フラワーショウ」の生の高座を見たのは2人体制のコンビの時でした。成人して以降の大阪旅行で浪花座で寄席見物をした時に1回だけ生の高座を見たのだが、もちろん面白かったのだがトリオ時代を見た事があっただけに内心では一株の寂しさを感じたものでした。

また引っ越しのサカイのCMは完全リアルタイムだったのでもう腐るほど見てまして完全に忘れられないものとなりました。

 

その後平成18年にばら師匠が亡くなられた事により「フラワーショウ」は消滅となりソロで活動するようになったが、その後は休業状態となったそうです…。

 

ゆり師匠が亡くなられた事によりあの世で「フラワーショウ」の基本メンバーが揃った事になり、きっとあの世の寄席でこれから大いに沸かせる事でしょう…。でもこの世では上方演芸の星がまた一つ消えてしまった事になります…、本当に残念な事であります…。

 

 

 合掌

1980年代以降のテレビを見てきた私にとっては年明け早々の残念な訃報となりました…。

 

アナウンサーの久米宏さんが元日に亡くなられました。肺癌のために81歳で亡くなられたとの事です…。

 

バラエティー番組からニュース番組と長きにわたり大いに活躍された方でした。さいたま市浦和区(当時は浦和市)生まれの東京都品川区育ちで、早稲田大学在学時に演劇サークルに入り熱心に演劇活動に明け暮れたが、御本人曰くそれが故に成績が悪く一流企業の推薦が取れなかった(もっともこれはリップサービス的に語ったらしいのだが…)ためアナウンサーを志し、大学卒業後の昭和42年にTBSにアナウンサーとして入社した。

 

しかしTBS入社後は体調を崩し結核を患ってしまい数年の空白期間を作ってしまった。昭和45年にラジオ番組『パックインミュージック』の金曜パーソナリティーに抜擢されたがこれも病でわずか一月ちょっとで降板、その降板時期に始まったラジオ番組『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』の中継リポーターを務め型破りで体当たりなレポートやパーソナリティーの永六輔さんとの当意即妙なやり取りで注目された(なおパーソナリティーが三國一朗さんに代わっても引き続きレポーターを務めていた)。そして同年放送開始のラジオの長寿コーナー番組『ミュージック・キャラバン』の初代進行役を平野レミさんと共に務め、レミさんとの丁々発止のやり取りでも話題を呼び、昭和40年代はラジオでの活躍が主となった。

 

そして昭和50年に入ると10月放送開始のテレビ番組『料理天国』ではレポーター・『ぴったしカン・カン』では司会を務め、その軽妙な喋りで人気を得てテレビの世界でも活躍するようになる。そして昭和53年に入るとテレビの歌番組『ザ・ベストテン』の司会を務め大ヒット番組にのし上げ、一方で同年レポーターを務めた前述の『土曜ワイドラジオTOKYO』でパーソナリティーを引き継ぎ、テレビ・ラジオ両方でトップアナウンサーとして不動の地位を築き上げた。

そして翌昭和54年にTBSを退社しフリーとなり(なおこの時点で担当していたTBSの番組は引き続き出演している)、更に翌年の昭和55年に初の他局担当番組となる日本テレビのトーク番組『おしゃれ』の司会を務め、その後も同じ日本テレビの『久米宏のTVスクランブル』など他局の番組の出演するようになった。

 

そして昭和60年10月にニュース番組『ニュースステーション』の放送が開始されメインキャスターを務める事になったが、それの準備もあって遡って同年3月に『おしゃれ』以外の担当番組を全て降板および番組終了し『ニュースステーション』に全力を注ぐ事になり、「フランクな語り口やフリップ・積木などの小道具を使い分かりやすく伝える」「時に自らの感想・意見を言葉で伝える」といった今までに無いニュース番組を作り上げ国民的人気番組に押し上げた(なお前述の『おしゃれ』は昭和62年3月に番組終了し、これを機に特番を除き『ニュースステーション』に専念する事となった。)。その後数ヶ月の空白もあったが長きにわたり担当し、平成16年3月の番組終了まで18年半の長きにわたり務め上げた。

 

昭和50年代を生きた私にとってこの方の古い記憶となるとやっぱり『ザ・ベストテン』『ぴったしカン・カン』になる。『ニュースステーション』以降しか知らない世代にとっては意外と思われるかもしれないが、やはり当時の軽妙な語り口が懐かしく思い出されます、やはり『ザ・ベストテン』での黒柳徹子とのやり取りは幼い頃に見ていたからね…。

もちろん『ニュースステーション』も見ていまして(但しちゃんと見るようになったのは中学生になってからですが…)、だから私にとっては『ニュースステーション』終了までは「常にいる者」といった感がありました。

 

『ニュースステーション』終了後はテレビに関しては数本のレギュラー番組と特番出演に絞られたが、ラジオに関しては平成18年に21年半振りのレギュラーとなった『久米宏 ラジオなんですけど』のパーソナリティーを務め、好評につき長寿番組となり14年続いた末に令和2年に自ら記憶力・集中力の低下もあって下り坂にならないうちにと番組を終了させた。更に翌年の令和3年にはネット動画番組の活動を休止、以降は数える程の取材・対談に留まっていた。

 

しかしこの方もいなくなってしまうとは…、寂しい限りであります…。

 

 合掌

実は一昨年暮れに亡くなられた(もうそんな経つのか…)中山美穂さんの歌手としての側面に絞って偲んで記事を書きまして(当ブログ昨年5月26日『昭和歌手列伝112・中山美穂』)、その流れから次の記事はその中山美穂さんに関連した話で昭和60年代以降の歌番組でミポリンを含むアイドルが自分のバックバンド・バックコーラスを従えて歌うようになった事から私自身は歌手の脇で歌うバックコーラスのお姉さん美人・可愛さに魅かれて気になって好きになったりしていた事を書きました(当ブログ昨年5月29日『<今頃・今だから書く話>バックコーラスのお姉さんが可愛い!』)。

 

そのリアルタイムでの話だが、歌番組を見てバックコーラスのお姉さんの美人・可愛さに魅かれて気になって好きになっていくうちに思う事があった、「何でここまでバックコーラスのお姉さんが気になるのだろうか?何かきっかけ・原点があるはずだ。」と思い頭の片隅で考えてはいたのだが、頭の悪い私は考えるだけでは答えは見つからなかった。しかし何年か後にある画面を見て一気に答えが出ました。

 

それはテレビ番組で過去の歌番組のVTRを紹介する場面で松本伊代さんの「センチメンタル・ジャーニー」(昭和56年)が流れていたのだが、伊代さんの両脇で歌って踊っていたキャプテン(山本恵子・北沢清子)の御姉様方を見て頭の中で一気に「そうだ!バックコーラスのお姉さんが気になったきっかけはこれだ!」と思った。

 

「センチメンタル・ジャーニー」のヒット時は私はまだ小学生になる前だったが、多分この歌はテレビでこれでもかと言うくらいに見ていたと思う、その頃はもしかしたら幼心に伊代さんの脇で歌って踊る二人の存在が気になっていたのかもしれない。だから実は(申し訳無い話だが)時が経つうちに「センチメンタル・ジャーニー」で脇で歌って踊るキャプテンの御姉様方の記憶が無くなっていたのだが(何せリアルタイムは小学校に入る前の頃だったのよ…)、言葉ではうまく表現出来ないが記憶が無くなっても心の根底に歌手の脇で歌って踊る二人の存在が引っ掛かっていたのかもしれない。だから前述のように昭和60年代に入り歌番組でアイドルがバックバンド・バックコーラスを従えて歌うようになった時「センチメンタル・ジャーニー」のように歌手の両脇で歌うコーラスの御姉様方の姿を見ているうちに前述の(記憶は無いが)心の根底に引っ掛かったものが無意識のうちに揺さぶられたのかもしれない。そしてそれによりコーラスの御姉様方の事が気になり・好きになっていったのでありました。

 

ちなみに申さば、実はキャプテンの御姉様方を一度生で見た事があります。あれは私が小学校中学年の頃で当時は伊代さんでは無く麻生真美子さんと組んでのトリオで、親父の会社の運動会というかスポーツフェスティバルみたいな行事に御出演して歌っていただいた事がありまして、私はそれを遠目ではありますが見ておりましたのも懐かしい思い出であります。

いつまでも可愛らしい御二人なので、願わくばもう一度ライブで生で見たいのだが(昨年もライブやったそうで)日程やチケット入手方法などから難しいだろうな…、でももう一度見たいな!

早いもので新年を迎えて10日以上も過ぎてしまいました…。(大袈裟な表現ではあるが)昨日元日を迎えたと思ったらもうそんな時期、あまりの時の流れの速さを痛感しております。

 

さて今年の正月休みの話を書かせていただきます。今年の私の正月休みは例年通りの2日になりますが、例年は年賀準備・配達で疲れた身体を気力を振り絞って浅草へ行き、浅草寺へ御参りして・境内の屋台で食べて・浅草演芸ホールに行って寄席見物をするのが恒例行事となっております(但しクソウィルス蔓延期を除く)。

ただそれは一昨年までで、昨年は記事にも書きましたが当日は弟一家が家に来たので弟一家と過ごしてその日の浅草行きは見送りました。

 

さて今年はどうなったのかと言いますと、実は前日の元日は仕事が終わった後に自宅近くの神社に初詣には行ったのだが、既に夜になってしまった事から御守を売る場所は閉まってしまったので、仕方ないので御守を買うためにこの2日の朝に改めて神社に行く事にした。

そして朝寒い中神社に行き御守は買ったのだが、家に戻った後に気力が失せてしまった…(本当はこの後浅草に行くつもりだったんだが…)。考えてみると私も昨年で50歳になりまして、現実的に体力・気力がどんどん減退している状態で、もう一度外へ出て浅草へ行くのが気力的に正直シンドイ状態となり、加えて後述の事情で6日に浅草に行く事になったので「2日にそこまで無理して行かなくていいかな…。」と思ってしまい、この後は一切外へ出ず午前の神社以外は完全に寝正月の状態となってしまいました。

 

でも郵便屋は年末年始は年賀準備及び配達で忙しいので正月休みは基本1日で、いくら身体が疲れているとはいえ寝正月というのは完全に味気無い。せめて身体が疲れようが気力を振り絞って前述の通りの外での正月気分を大いに味わうのが例年の習わしだっただけに今年(近くの神社に行ったとはいえ)それをしなかったのが大いなる痛恨である。「来年こそは気力を振り絞って…。」と言いたいところだが、それを実行出来るほど気力があるかどうか正直保証出来ないのが本音であります…。

 

<おまけ>

前述の通り浅草に行ったのは昨年と同じく6日になります。当然浅草演芸ホール正月初席見物と浅草寺御参りのためである。

実は林家きく姫姉さんが今回の正月初席は5人の交代出演の1人という状態で出演日は6日・7日の2日しか無かったのだが(しかも今年の正月初席の中で特に書き入れ時の元日~4日の出演が無かったのが残念である)、6日は何とか日にちが合ったので迷う事無く行く事にしました。

そして昨年と同じく姉さんの出番は午前11時台だったので早めに出発し、午前11時より前に演芸ホールに到着した。状況は昨年と同じく既に仕事始めを迎えた平日の午前という事で初席とはいえ客は満員とはならず二階席も開かれて無かった状態であった。

何だかんだで数組の芸人を見た後に姉さんが登場、昨年の正月休みでの記事にも書いたが(当ブログ昨年1月19日『今年の正月休み+おまけ』より)初席は多くの芸人が登場している関係からトリを除いて受け持ち時間がだいたい6・7分で余程の人でない限り一席ネタは難しい状況で、姉さんも御多分に漏れず小噺を並べたりの高座となりましたが、最後の方では何と上方の小噺を披露しましたが、これは私は初めて聴きました。考えてみると姉さんは元々は愛媛県松山市生まれで(幼い頃に東京に移ったとはいえ)暮らしの中で西の文化に触れている事も有り得る話で、以前上方ネタの「手水廻し」を演ってたのも見たしある意味「先祖返り」のところもあるのかな、とツイツイ考えた次第であります。その後第一部が終わって(ちなみにこの日のトリは姉さんの師匠の木久扇師匠では無く、姉さんの弟弟子である彦いち師匠でした。)楽屋から出てきた姉さんといつも通り新年の挨拶をしてチョボチョボ話をして姉さんを見送った後にしばらく見ていたが、その後は外に出て宮田レコードに寄った後に浅草寺に御参りに行ったが6日だから境内に屋台は無かったので近くにあるラーメン屋で昼食を取り、その後久し振りにヨーロー堂に入って(店が移転して規模が小さくなったのが残念…)先日亡くなられた<三代>昔昔亭桃太郎師匠の新作落語のCDを購入し(実は何年か前にこの師匠の古典落語の方のCDは購入していた)、その後は疲れもあって早いうちに家に帰りました。

 

おまけの話も入れましたが、今年の正月休みの話はこれにて御開きとさせていただきます。

 

そして大晦日にまさかの訃報が飛び込みました…、この方の風格から言ってまだまだ死ぬような感じの人ではないと思ったのだが…。

 

落語家の<三代>昔昔亭桃太郎師匠が昨年12月28日に亡くなられました。敗血症のために80歳で亡くなられたとの事です…。

 

とぼけた感じの口調で寄席の高座に欠かせない師匠でした。長野県小諸市の出身で、本人曰く(あの風貌からは想像も付かないが…)高校時代は不良少年で卒業後も働かず遊んでいたそうだが、そんな時に<七代>立川談志師匠の著書『現代落語論』を読んで落語家を志し上京、寄席通いの末に昭和40年に<五代>春風亭柳昇師匠に入門、「春風亭昇太」の名で前座となった(つまり<先代>春風亭昇太である)。

その後昭和44年に二ツ目に昇進し「とん橋」と改名、更に昭和47年に「笑橋」と改名。そして昭和56年に真打に昇進し「<三代>昔々亭桃太郎」を襲名した(この名跡について本人曰く「初代は鬼ヶ島に行った人(つまり本物の桃太郎)で自分は三代目。」と言ってたが、実は当代より前に判明している限りで5人存在している。)。そして昭和62年に画数の関係から少し字を変えた「昔昔亭桃太郎」(読み方は全く同じ)と改名した。

 

高座ではどこかほんわかとした風貌からとぼけた口調の喋りでユーモラスな感じでダジャレを繰り出すマクラから入り、野良仕事の休憩に出てきそうな湯呑茶碗で口を湿らせた後「セコい茶碗だね~。」とボヤき、そこから本ネタに入っていくのが高座での定番でした。

本ネタは<五代>柳昇門下だけあって新作落語が多く、自作では大ファンの石原裕次郎さんと自らを比較する「裕次郎物語」・何故か金が増える運命にあって困り果てる金持ち家族を描いた「金満家族」・職員と独身男性とのやり取りが秀逸な「結婚相談所」など、他の新作は明治大正期に作られ自ら歌を入れるアレンジをした「ぜんざい公社」・師匠<五代>柳昇作の「カラオケ病院」などで、一方で「勘定板」「不動坊」「寝床」などの古典のネタもこなし、落語芸術協会の寄席に欠かせぬ顔として長きにわたり大いに活躍した。

 

私がこの師匠を知ったのは平成9年暮れに寄席通いを始めて以降であった(もっともこの師匠のテレビ出演となると『日本の話芸』といったネタ番組しか出てなかったからね…)。芸術協会の寄席を見る時は多くの確率でこの師匠を見てまして、私が見た当初は出囃子が鳴ると淡々とゆっくり歩いて登場し挨拶も無くいきなり前述のダジャレを繰り出すマクラに入っていったのだが、これが私が見出してから2・3年後には登場してから「エ…、こんばんわ。」と挨拶したのだが、そのとぼけた口調での挨拶がかえっておかしみを出していた感があった。また前述の「セコい茶碗だね~。」は結構好きで、自分にとってこの師匠といえばどうしても「セコい茶碗だね~。」になりますね。実際に高座で聴いたネタとなると前述の自作の3つのネタは聴いていて、それ以外の方も多分「ぜんざい公社」と「勘定板」は聴いていたと思う。

ただ他の記事にも書いたが、寄席通いは何年か経つとほぼ落語協会の方になり芸術協会の方はほぼ行かなくなった事もあって晩年の高座をほぼ見てなかったのが実情で、自業自得とはいえ晩年の高座でよくやってた後述の余興をほぼ見なかったのが大いに残念な事であります。

 

その後も前述のように寄席に欠かせぬ存在として長きにわたって活躍したが、晩年になると主に中トリ・トリの出番の時は自ら「ルイジアナ・ママ」などを歌って後ろで若手がツイストを踊る余興を行うようになり完全に名物と化してそれを楽しみにする人も多く出てきたくらいであった。

 

また師匠として多くの弟子を抱え、そのうち5人を真打に育てたのだが、惜しむらくは同じく弟子の<二代>昔昔亭喜太郎さんが今年5月に真打に昇進をするのだが、それを見届ける事無く亡くなられたのは師匠自身は本当に悔しかっただろうな…。

 

寄席で見てきた方がまたいなくなってしまいました…とぼけた口調・「セコい茶碗だね~。」はもう永遠になってしまいました…残念な事であります…。

 

 

 合掌

前回に続いて昨年に訃報が伝えられたのだが、前回同様年を越してズレ込んでの記事となってしまいました…。

 

今は亡き<初代>林家三平師匠の夫人で随筆家でもあった海老名香葉子さんが昨年暮れに亡くなられました。昨年10月末より入院していたとの事です…。

 

<初代>三平夫人として夫を支えるだけでなく長きにわたり一門を支え続けた落語界のゴッドマザーであった。東京都墨田区の和釣り竿の名匠「竿忠」三代目の娘として生まれたが、子供の頃に第二次世界大戦に入り叔母のいる沼津に疎開したが、昭和20年3月10日の東京大空襲で何とか生き延びた兄の中根喜三郎さん(後の「竿忠」四代目)を除いて両親をはじめ全ての家族が戦災死してしまった。

そして終戦後に帰京後は親せきの家をたらい回しにされ場合によっては野宿をするなど戦災孤児としての苦難の状況の末に父の知人で釣り好きとしても知られた<三代>三遊亭金馬師匠に引き取られ養女として育てられた(一方で兄の喜三郎さんも<三代>金馬師匠の勧めで和竿作りの修業を行い竿忠を再興させた)。

 

そして昭和27年に<三代>金馬家に出入りしていた<七代>林家正蔵夫人の息子である<初代>林家三平師匠と結婚。<初代>三瓶夫人として夫を支えると共に、母として4人の子供(海老名みどり・泰葉・<九代>林家正蔵・<二代>林家三平)を育て上げ、更にその一方で<初代>三平師匠の下に入門した弟子達を支える一門のおかみさんとしての役割をこなしていった。

 

しかし昭和55年に<初代>三平師匠が亡くなると、本来ならば師匠の死により一門が分裂・解散も有り得る状況の中で総領弟子の林家こん平師匠が一門の頭となり一門が存続される中で兄の喜三郎さんと共に一門の後見人を引き受け、この当時より2年前(昭和53年)の落語協会分裂騒動の影響で辛酸をなめ続けた一門を実質的なおかみさんとして長きにわたり支え続けていった。

 

その一方で随筆家として多くの本を著し、特に自らの戦争体験を描いた絵本『うしろの正面だあれ』はその後アニメ映画化された。また作詞活動も行い、その中から増位山大志郎が歌った「そんな夕子にほれました」がヒットした。また講演活動やテレビ出演など自ら表に出る活動を行ったり、平成27年にはリニューアルした名古屋の大須演芸場の最高顧問に就任(5周年を迎えた令和2年まで)するなど多彩に活動していた。

また前述の戦争体験から平和を訴える活動にも積極的で、前述の『うしろの正面だあれ』などの自らの戦争体験をもとにした著書を出したり、毎年東京大空襲の前日にあたる3月9日に犠牲者慰霊の集いを行い毎年必ず参加。また私財や寄付により東京上野に東京大空襲犠牲者を偲ぶ石碑・塔「哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」を建立、第二次世界大戦時代を生きた証言者として最後まで活動を続けていた。

 

この方の存在を知ったのはいつだったんだろうか?古い記憶で何となく思い浮かべるのはひと頃は(毎年正月になるのかな?)テレビで<初代>三平師匠宅の中継があって、そこで必ずこのおかみさんの姿があって(大抵は座っていた)見た印象としてはおかみさんとしての優しさプラス貫禄感が合わさった感じがしていました。この方に関してはいろいろ言われてる所もありますが、戦争による筆舌に尽くせぬ辛い体験・夫の死後の<初代>三平一門を辛い状況の中まとめ上げるといった苦難の状況を乗り越えてきた人だけに仕方ない部分もあったんだろうと思う。

 

近年は高齢という事もあり長男の<九代>林家正蔵師匠の妻に一門のおかみさんとしての実務を任せ、前述の3月9日の東京大空襲犠牲者慰霊の集いに出席するといった特例(昨年も出席した)を除いてあまり表に出なくなっていった。

 

現在に入り<初代>三平師匠亡き後に入門した(敬称略)たい平・つる子などの俊英が育って活躍している事を思えば一門の存続は大いに正解だったわけで、一門存続のために支え続けたおかみさんの存在は本当に大きなものであります。

しかし昨年が<初代>三平師匠生誕100周年および東京大空襲から80年という節目の年に逝ってしまうとは…。

 

 

 合掌

年明け早々訃報話になります。実はこの話は昨年のクリスマスイブに伝えられたのだが、昨年11~12月に1ヶ月の記事の空白期間があった影響でその後は他に書く記事があった事からこの話を年を越した今にズレ込んで書かざるを得ない状況となってしまいました。書く旬としては少し過ぎてしまったかもしれませんが、この方はどうしても書かなければと思い今頃ではありますが書かせていただきます。

 

プロゴルファーの尾崎将司さんが亡くなられました。令和6年に癌が判明して以降は自宅療養をしていたとの事です…。

 

正に日本を代表するプロゴルファーであった。徳島県海陽町の出身で、元々は野球の選手で野球を始めた時期は不明だが、昭和37年に海南高校に進学するとエース(投手)として活躍、そしてもうすぐ三年生となる昭和39年の春の選抜甲子園大会で学校を甲子園初出場に導き優勝を成し遂げてプロからの注目を受けるようになった(但し同年の夏は南四国予選で準決勝敗退をした)。

そして翌昭和40年に西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)に入団、しかし思うような活躍が出来なかった上に入団後すぐにエースになった同期の池永正明さんの存在もあり、加えてプロ入り後に始めたゴルフにハマった事もあって野球に生きるよりゴルフに生きる決意を持つようになり、昭和42年のシーズンを最後に退団しプロ野球選手としての足を洗った。

 

その後は某所のカントリークラブでの研鑽の末に昭和45年にプロテストに合格し正式にプロゴルファーとなり、翌昭和46年には日本プロゴルフ選手権大会で優勝を果たし、その年はこれを含めて5勝を挙げてトップゴルファーの仲間入りをした。

その後も勢いは増していき翌昭和47年のニュージーランドPGA選手権に招待出場して優勝を果たし海外での初優勝となった。そして同年アメリカのマスターズトーナメントに招待を受けメジャー大会初出場、翌昭和48年も招待を受け2年連続の出場をすると8位に入賞し日本選手初のメジャー大会トップ10入りを果たした。

そして同じ昭和48年にはツアー制度が施行されこの年初めて設けられた賞金王を獲得、以降は長きにわたりトップゴルファーとして大いに活躍、「ジャンボ」の愛称で親しまれ尾崎健夫(ジェット)・尾崎直道(ジョー)の二人の弟らと「ジャンボ軍団」としてゴルフ界の一大勢力となった。そして成績面ではツアー最多の12回の賞金王を獲得・国内ツアー通算94勝(これも最多記録)・国内外の大会通算113勝は世界プロツアー最多記録となり、その功績から平成23年には日本人では4人目となる世界ゴルフ殿堂入りを果たした。

 

ハッキリ言ってゴルフにそんなに詳しくない私でもこの方の存在は充分に存じておりました。ゴルフの試合こそほとんど見て無いが、CMではちょくちょく出ていたのでそっちの印象になる、個人的には同じ時代を駆け抜けた青木功さんと共演したアサヒビールのCMや研ナオコさんと共演したプチシルマのCMは印象に残りましたね。

 

そして平成14年の全日空オープンではツアー施行以降最年長の55歳7ヶ月で優勝を果たしたが、その後は年齢もあってか成績が下降気味となり平成25年のつるやオープンが最後の予選通過となり、令和元年が最後のツアー出場となった。

そして話は前後して平成30年に「ジャンボ尾崎アカデミー」を設立し自宅に併設された練習場で後進の指導に当たり、特に佐久間朱莉などの今勢いの良い若手女性プロゴルファーを輩出した。

 

特に昨年は長嶋茂雄さんはじめカリスマ的な人気を誇ったスポーツ選手が相次いで亡くなられただけにまさかこの方まで亡くなられるとは…本当に残念な事であります…。

 

 

 合掌