3度目の一時帰宅後からブログを書く暇も
気持ちの余裕もありませんでした。
実は、9/5早朝に母は63歳で亡くなりました。
あと20年、最低でも10年は一緒のつもりだったんですが…。
30代のうちに親を送るなんて想像もしていませんでした。
それでも、最後は薬のせいもありますが、苦しむこともなく
家族みんなに見守られながら、静かに息を引き取りました。
どんなにしんどくても意識がある時は、部屋に来た先生や
看護師だけでなく清掃スタッフの方など、誰に対しても
「ありがとう」と感謝を伝える心遣いと、とても無邪気な
笑顔をする自慢の母でした。

これから書くのは3度目の一時帰宅から病院に戻った後から
亡くなるまでの間にスマホに残したメモを元にした記録です。
闘病中の方、またはそのご家族が読まれた場合、
気持ちが落ち込んでしまうこともあるかと思いますので、
ご注意いただければと思います。





3度目の一時帰宅後。
午前中は父が母を見ていてくれて、午後から私の担当。
お昼ご飯を持って病室へ。
うーん、あまり体調よろしそうでない…。
なんだか、暑いのかな?
お昼時だと言うのに、冷たいものが食べたいと言うので
アイスクリームを買ってきてちょこちょこ口にした。
レモンピール入りのアイスクリーム。
(まさかこれが最後の食事になるなんて思いもしなかった)
それから1時半くらいまで雑事とマッサージをした。
お昼も母はロキソプロフェンを食後に飲まなきゃいけないので、
1時半過ぎに母に「お昼食べる?」と聞いた。
答えは「もうちょっと後で」だったので、
私は先に簡単に済ませようと買ってきた冷やし中華を
母と半分こするためにお椀に分けて、自分の分を食べようと
した瞬間、母が「タオル取って」というので、渡した瞬間。
…母はいきなり吐血した。それも結構な量を。

ナースコールをして、もう1枚タオル渡して背中をさする。
そういえば、今まで胸やけがするとかムカムカするとは
口にしたことがあったけど、この日に限って、なんだか
吐き気があって、えづくような仕草を数回していたような…。
看護師さんがすぐ来てくれて…いろいろやってくれたんだけど、
頭真っ白で、正直ほとんど何も覚えてない。
急きょ、4人部屋から個室へ移動。
なんだか悪い予感しかしない。
頭真っ白のまま父へ電話して、すぐに病院に戻ってもらう。
主治医と連絡もとって、内視鏡で検査することに。
母はぐったりしていて、それでも「(部屋が)寒いね」って
何とかしゃべれたけど、声はとても弱々しかった。
それから母のレントゲンと内視鏡検査に付き添う。
1時間くらいは内視鏡検査室の前で待ったんじゃないかな。
時計見るのも忘れてた。

検査が終わって、病室に戻った母はとても消耗していて
ほとんど眠っているようだった。
…話もしていないように記憶している。
その後、父と私は主治医に検査の画像を見せられた。
吐血の原因は、食道静脈瘤が破裂したこと。
それをリングをはめるようにして止血処置をして、
他にもいくつか静脈瘤があって、それも破裂しないように
処置を施したと聞いた。
静脈瘤ができた原因は転移した肝臓がもうほとんど
機能していない状態で、本来ならば肝臓を通って心臓に戻る
血液が肝臓を通れず、あちこち迂回して心臓に戻るために
できた静脈瘤だとのこと。
結構な血を吐いたのに、写真の胃にはまだ血がたくさん。
なので、鼻から通したチューブで血が喉に詰まらないように
している、とも。
最近母が身体に力が入らないと言っていた原因は肝臓に
あったみたい。肝臓が機能を停止しているために、
たんぱく質が作れなくなっている。
どれだけアルブミンを点滴しても、濾過した腹水戻しても
ほとんど意味のない状態にある可能性が高いって。

そして、ここ数日が山場かもしれません、と。
最悪の場合はここ1日2日かもって。
吐血する前から体中のダルさを訴えてしんどそうにして
いたところに、静脈瘤の破裂とそのショック、肝臓がほとんど
機能していない状態では本人も相当つらいと思うので、
ウトウトさせる薬を入れましょうか、と。
本来ならば本人の了承を取りたいのだけれど、今の母は
話を聞き、判断し、話せる状況にない。
もともと母は「痛いのいやだ、管とかいれられたくない、
自分で食事取れなくなったら、自然死させて」とよく言っていた。
父と私は薬の使用に了承した。

…今思えば、もうちょっと待って母の意識がどれだけ回復するか
確認してからでもよかったのではないか、とも思う。
あの時は、母だけでなく、父も私もものすごい動揺していて
ほとんど何も考えられない状態だった。
ただ、ひたすら、母がこれ以上苦しまないことだけ祈ってた。
ウトウトさせる薬---ミダゾラムの投与が始まってからは、
母とちゃんとした会話はできなくなってしまった。
もし、この時、投与を少し待ってもらっていたら、少しは母と
話ができただろうか…。
できたかもしれないし、できなかったかもしれない。
できたとしても、母の苦しみを増やしただけに終わったかもしれない。
結局は、「たられば」。
ただ母と話がしたかった。



日付が変わって9/1。
最悪、ここ1日2日が山場かもしれない、と主治医に言われたので、
母の兄弟や親せき、友人がお見舞いに来てくれた。
イリノテカンで髪が抜け、ロンサーフを服用している間に
げっそりと痩せてしまった母は、「この姿をみられたくない」と
病気のことをごく一部の人にしか伝えていなかった。
母に会いに来てくれた人は、ガリガリに痩せた身体に
みんなショックを受けていた。

ミダゾラムを投与してから、立ち上がることも厳しいし、
危険ということでおしっこの管を入れられ、オムツをされた母。
意識はもうろうとしているのに、「トイレ行く」「起きる」を
連呼する。
最近、身体に力が入らなくなってから、ベッドから起き上がる時、
母は私たちの首や肩に腕をまわして抱きついて、私たちが支えて
身体を起こしていた。
「それ」をしようと、私の首に腕を巻きつけて、「トイレ」、
「起きる」と必死に腕に力を入れる。
起こしてあげたい。トイレも行かせてあげたい。
でも、もう母さんに起き上がる力はない。
「ここで大丈夫だよ」とか「トイレに来てるよ」とあやしてみても
母は首を横に振る。
最後までトイレはちゃんと自分の足で行きたかったんだよね、母さん。

さらに母の意識はもうろうとし始める。
もうほとんど言葉を発することはなくっていた。
「あー」とか苦しそうな声を発したり、ジタバタするけど、
苦しみを感じているわけではない、と先生から説明を受ける。
薬で理性とかそんなのを取っ払われた状態?だとか。
でも、あんな声、聞いてたらたまらないよね…。
どうにかしてあげたいって思っちゃうよね…。
それから口元に指を運んだかと思うと、おもむろに吸い始めた。
それは母本人の指だったり、母をなでていた私の手の指だったり、
鼻に通された管だったり…。
口の近くにあるものを口に運ぶ。
何をするのかと思うと、コップで水を飲んでいる仕草、だった。
必死に枕の上で顎を上げて、水を飲もうとしている。
意識はないっていうなら、「生きよう」とする本能なのかな…。
その姿はあまりに切なくて、楽飲みに水やお茶をほんの少し入れて、
飲み口を母の唇に当てて、ほんの数滴、歯や歯茎にたらす。
むせたりすると危険だから、口をしめらせる程度で、と言われたけど、
あんな子供みたいに必死に水をほしがる姿見てたら、1滴でも2滴でも
飲ませてあげたかったんだ。
そういえば食べ物の匂いにも1、2度反応したっけ。
付き添いで病室にいる私たちがお弁当を開けた時、食べ物の匂いが
部屋に立ち込めた時、母の顔がこっちを向いて「今からご飯?」って
いうような顔をしてた。
ごめんね、母さんは食べられないね。
好きなもの、お腹一杯食べさせてあげたいのに。
どうして一番頑張っている人が一番苦しまなきゃいけないの。
ウトウトさせる薬だと言うなら、苦しさを感じさせないための薬だ
と言うならせめて楽しい夢でも見させてあげてよ。
そんな状態が9/3まで続く。

私の精神状態はいっぱいいっぱいで。
今の母の状態を「母さん(本人)にどう思うか相談しなきゃ」って
支離滅裂なことを自然と考えていたり。
あと、母の声が思い出せなくなっていた。
母さんは私の名前をどんな風によんだっけ?笑い声は?
何でもいい、他愛ない会話でいいから話をしている母に会いたい。
母の声が思い出せないまま別れなければならなくなるのでは、と
不安で不安で、膝から力が抜ける。
口から胃が出てきそうな感じがする。
ともかく急がなきゃ、どうにかしなきゃってわけのわからない
強迫観念がすごくて、特に夜になるとパニックになった。

4日の午後。
緩和ケア病棟の看護師が母の病室にやってきた。
明日の11時頃から緩和ケア病棟へ入ることができますって。
やっと母さんの番が回ってきた。
もうちょっと早く入棟できていれば…。
もう母さんは、外の景色を見ることもできない。

5日。緩和ケア病棟へ移動。
部屋も明るくて広く、ベランダにも出れる。
窓を開け放つととても気持ちのいい風が入る。
母さん、風、感じられたかなぁ…。

さすがに父の疲れがピークになっているようか気がする。
弟も私も疲れているけど、父の表情が固い、というか
気力が出ない、みたいな…。
緩和ケア病棟の看護師さんは一般病棟の看護師さんより
頻繁に様子を見に来てくれるので、お泊まりの付き添いを
二人体制から一人体制に変更。
背もたれを倒してリラックスして座れるソファに加えて
病室に付き添い用の簡易ベッドを入れてもらって、
準備万端。
1泊目は弟が担当。2泊目は私、3泊目は父と担当を決めた。

夕方から、泊まり準備をしに家に戻った弟が病室に戻るまで
一人で母に付き添う時間が長くあった。
母の顔をじっと見る。
薬のおかげ(?)で苦しそうな表情ではない。
けれど、その代り何も感じてない、みたいな…。
閉じ切らない瞼に、その目を乾燥から守るために出る涙、
開きっぱなしの口でする呼吸、乾いた唇、歯磨きできない
ままの歯。
まるで母方のおじいちゃんとか、父方のおばあちゃんの時の
ような脳梗塞?脳内出血したとかの患者さんみたい。
身体の苦しさやつらい現実を感じさせないために、脳の活動を
一部眠らせて…何のために生きているの…?
脳の活動を薬で停止させて、身体の活動停止を待っているみたい。
そりゃ、苦しい思いだけはもうさせたくないよ。
母とお別れはしたくないけど、わからなくなってきた。
これは最善でないとしても、ベターな方法だったのか?
母が話をしたり、食事をすることはもう無理なんだろうか…。

枕元で必死にたくさん呼びかけた。
「お母さん」「ごめんね」「ありがとう」って。
しんどい思いを長い間させてごめんね。
生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう。
いつも心配してくれてありがとう。
辛い治療、頑張ってくれてありがとう。
…たくさんのありがとうを母さんに。
たまーに、声のする私の方、向いてくれたね。
意識があったとしても、なかったとしても嬉しかった。

その日の夜。
家に帰って寝ようとするんだけど、なんか変。
もともと暑がりの私が、熱もないのにすごく寒いの。
タオルケット2枚にくるまって、その上から薄手の羽根布団を
かぶってやっとあったかい、みたいな。
で、うとうとしたかと思うと急に暑く感じて、体中汗だくで
布団を跳ね飛ばす。かと思えば、また急激な寒さ。
布団にくるまる、布団をはぐ…そんなことを数回繰り返した。
午前3時半ごろ、母に付き添っている弟から電話。
母さんの熱が37.5度くらいまで上がってて、痰がからんでる
ような様子がある、呼吸も乱れがちだって。
ネットで調べたことがある。
ゴロゴロとのどが鳴るような音…患者本人は痛みなどは
感じていないが、死期が迫っているって。
急いで着替えるだけ着替えて病院へ。
病院が近くで良かった。
実家からも弟の家からも私の家からもみんな徒歩10分圏内。
みんなすぐ集まった。
母の横でカラ元気だとしても、明るくふるまう。
少しでも楽しい雰囲気を母に伝えたくて。
病院に着いてから1時間くらい経った頃、だった。
ゴロゴロ言っていた母の呼吸が、2、3回ゆっくりになったかと
思ったら、ふ、と止まった。
脈が取れない。
急いで看護師さんを呼ぶと、「頑張ったね」って母をなでてくれた。
手もとの時計で午前4時50分。
看護師さんは当直の先生を呼んでくるね、と席をはずす。
緩和ケア病棟に移って17時間後のことだった。

9/5午前5時5分。
当直の先生によって母さんが亡くなったことを確認。
苦しむことなく、本当にすぅーっと旅立った。
外はすごくきれいな朝焼けだった。

その後、看護師さんと一緒に母の身体をきれいに洗う。
髪も洗ってドライヤーで乾かす。
父と姪っ子が選んだワンピースに着替えさせる。
緩和ケア病棟の看護師さんがすごく上手に化粧をしてくれた。
選んでくれた口紅の色も、母にとても似合っていて。
とてもきれい。
本当に眠っているだけみたいで、今すぐにも起きだしそう。
というか起きないのが不思議なくらい。
いい夢をみてるのかな、ほほ笑んだ表情をしていた。

しばらくはきれいになった母の隣で皆で朝食を取り、
葬儀会館へ移動するための準備。
主治医も駆け付けてくれて、お別れを言ってくれた。
医者の腕がいいのかどうか、そういうことは私たちには
わからないけど、母や私たちの話をよく聞いてくれる
ありがたい先生だった。
約3年、お世話になりました。

母とのお別れは、母の希望により
・通夜式、告別式なし
・読経、戒名いらない
・身内だけで
・火葬の後、散骨して
ということになっていたので、葬儀会館の式場を借りて、
出棺の時間まで、好きな時間にお焼香などで、母とお別れを
してもらう、という形式。
甥っ子と姪っ子は控室にあった折り紙で鶴を折ったり、
ばぁばへのお手紙書いたり…。
布団に横にされた母のお腹にはドライアイス。
細い足が乗せられたドライアイスを余計に重たそうに見せる。
…バタバタしながら準備は進む。

午後4時半ごろ。
棺に母を入れることになった。
とても軽い。37、38キロくらいだったかな…。
寝てるようにしか見えないのに、なんでそんなとこへ入るの?
変な感じだ。
私、本当に母を炉に入れられるんだろうか…。
だって今にも動きそうなんだよ…。

夕方から夜にかけて、親戚やら知り合いがぞくぞくと。
お茶出ししたりなんだりでドタバタしてた。

夜は親族控室で寝た。
といっても雑魚寝。
ここ最近、長くても1時間くらい寝ると目が覚める。
寝て起きて寝て起きて。
弟もそうみたい。
でも身体を横にするだけでも疲れはとれるからね。
父は横になってることもできないみたい。
ほとんど母の棺の前におかれた椅子に座ってた。
ケンカもよくしたけど、ホントに好きだったんだね、父さん。
父さんの背中がすごくさみしそうだった。

6日。
外はすごい土砂降りの雨。
母さんは結構な確率で晴れ女だと思ってたんだけど、
雨女の私がだーだー泣くからかなぁ。
すっごい雨だった。

出棺時刻は14時。
それまでに棺に一緒に入れたい物を用意した。
私がプレゼントしたシルクのパジャマ。
着心地がいいってすごく愛用してくれたのをメッセージ付きで
棺にいれる。プレゼントだもん、持っていってね。
おいしかったなぁ…と何度も言ってた佐久の鯉。
取り寄せて、この前少しだけ食べれたけど、
棺にも入れるからたくさん食べてね。
好物のみかんも!すい臓がんだったおばあちゃんと一緒で
みかんの味も違うって言ってたけど、味は戻ったかな?
おいしく感じるといいな。
食べ物はもっといろいろあげたいんだけど、
またお供えするよ。たくさん食べて。
あと、秋祭りの半纏も。
男ばっかりの祭りにちょこんと入った女の私のために
いろいろ頑張ってくれたもんね。
そういえば、修理に出してたからくり人形、残りの2体、
完成したんだって。見せたかったなあ…。
ともあれ、打合せもなく早神楽(祭りで演奏する曲目の1つ)を
出棺前にゆっくり演奏しようなんていきなり言うかな…。
幼馴染と二人で母の棺の前に座って能管を構えたけど。
…吹けるわけないよ。指も身体も震えて…。
最初の方だけ音が出たけど、あとはもう泣くしかできなかった。

最後のお別れで触れた母の頬やおでこはとても冷たくて。
あんなに肌は柔らかくて、すべすべで温かかったのに。

火葬場までは少し距離もあるし、ものすごい雨だったんだけど、
親戚だけでなく、祭りの関係の人も結構来てくれた。
母さん、大勢の人に愛されてたんだなぁ…。
炉から出てきた母は、骨が少なくて…。
なんとか喉仏、少しだけ見つかったけど、腕の骨とかもう
真中、かすかすで空洞で…本当に頑張ってくれたんだね。
長い間、お疲れさまでした。
本当にありがとう。



母さんがいない実家はさみしいです。
いないだけで明るさや温かさが少ない気がします。
ベッドサイドに残された眼鏡や指先を守るために使ってた手袋。
もう使う人がいません。
いちいち感情的になって、ここ1週間涙腺が壊れたように
涙がこれでもか、というくらい出る。
泣きすぎて目をあけているのが辛いくらい。
いろんな覚悟はずいぶん前からしてたけど、覚悟はしてたって
大丈夫なことなんて、これっぽっちもない。
しんどい思いや辛い思い、悲しい思いはどれだけしたって
慣れっこない。
父さんが「こんなになっちゃったなぁ…」って骨壷を眺めて、
一生懸命お花を飾ったり、お香炊いたり、好きだった食べ物
お供えしたり…意気消沈してて見てられません。
甥っ子と姪っ子が来てくれると、パワーを分けてもらえてる
みたいだけど。
少しずつさみしさを紛らわせるようになれるといいなぁ。
ところで母さん、夢に出てくれるの、いつでも歓迎だから。
いっぱい話がしたいよ。



できることをできるだけ、家族みんなで頑張ってきました。
ただ、とても後悔しているのは緩和ケア病棟への入棟希望を
出したのが遅かったこと。
今思えばロンサーフをやめて、無治療状態になったらすぐに
申し込むべきだった。
あの頃、父も私も申し込むタイミングをつかめずにいた。
緩和ケア病棟=お別れというイメージがあったのも否めない。
怖くて申し込みに踏み込めなかったのも事実。
もっと病院側からアドバイスがあればよかった。
初めての体験ばかりで、受身になりすぎていたかも。
そろそろ、ってなったら誰かが教えてくれるって。
でも実際は、そうじゃなくて。
もっと自分たちで調べて、先生や病院側に問うべきだった。
母さんのことで学んだこと、父さんの時には絶対役立てたい。

あとは、味覚障害とか食べられないとか、
そんな副作用がでない薬が早くできるといい。
2人に1人はガンで死亡するという日本。
体力なけりゃ闘病だってできない。
食べなきゃ体力は落ちる。
どうか少しでも身体に優しく、ガンには厳しい薬が早くできて
助かる人が多くなりますように。

とりあえず『母のガンとの闘病』カテゴリでのブログ更新は
これで最後です。
『日々の生活』や『私の泣きごと』は書きたくなったら
更新があるかもしれません。
今まで自分のことだとブログ書いても3日坊主だった私が
ここまで更新を続けられたのは、母のことだったからかも
しれません。
パニックになって頭が真っ白になった時、何も思い出せないのは
怖くて、記録のような感じで更新してきました。
思ったことを思ったまま文章にしているので、読みづらいことも
多々あったと思います。
コメントやいいね!、メッセージなどたくさんの励ましを
いただきました。感謝しています。
今までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
皆さんと皆さんの大切な方がどうか少しでも健康で幸せな時間を
すごせますように。