2014年 大倉山記念館にて
「美の基準をつくる」
2015年ごろから「美の基準をつくる」というのを意識してきました。
これの一番のきっかけは「宝石」と「星」
本物の宝石に触れずに、本当に何が美しいかを知ることはなかったと思います。
・余計なものを削ぐ
・磨く
・光る
・存在する
宝石はこのような要素について、問いかけるシンボルとなってくれました。
そしてちょうど2015年の今日、2つめの宝石ムーンストーンを迎え、ミラノへ旅立っていました。ミラノではずっと芸術・美に接していました。
その前、2014年の2月、自分にとっての「美」の基準をここに置くことを決意し、ピンクダイヤモンドを手にいれることができました。
その頃から「本当に何が美しいか」を知っている人、教えてくれる人と出会い始めていました。
ちょうど、声楽を始めたこともあって、歌声に関して「汚い」と言われ続け、苦しいこともありましたが、今では「汚いことを汚いと言える人こそ重要だった」と思えます。
逆に「汚い」という人に「綺麗」と言わせられたら、ひとつ成果を出せたことになる、と思ってやっていました。
美しくないものを美しくないとあっさり捨てる、あるいは美しいものに変容させるまで削ぎ続ける、ということなしに「美」は得られないものだったと思います。
恥ずかしい話、私は子供のころから「ブス」といじめられ、自分自身も最悪にブサイクだと思っていて「美しくないことは哀れだ」と思ってきました。
その頃の自分をどこか心理的に牢獄に閉じ込めていました。
なので「美しくない」と思っていても言えませんでした。
「美しくない」と認めることで、昔の自分の存在を否定するような気分になっていたからだと思います。
美しくないと思うことすら許さず、「きっと美しいはずだ…」と、頭で考え、逆に変な妄想を作り出していました。
ですが、最近汚いことを汚いと思っていい、と許可を出しました。
すると、不思議なことに「綺麗でなくても大罪ではなかったよね…」と思え、変な執着心をゆるめることができました。
モーガン・フリーマンの『時空を超えて』で、「人の脳は不都合な事実をねじまげる」と言っていました。
私のしていたことは、まさにそれ。
本物の宝石や芸術に触れることで、嘘偽りを除くことができ、やっと、本来の姿に戻ってきたと感じています。
時々「綺麗になりたい」という女性からメッセージをもらうので、参考になればと思います。
・まず、本当に美しいものを知る
・汚いものは汚いと認める
・ごまかしは禁物、自分の感覚に素直でいる
ですね。