宗祖大聖人の教えにも日興聖人の教学にも日蓮本佛論はどこにもない。
宗祖滅後140年から190年くらいの室町時代に日有が現在の川越の地にある天台教学を学び取り入れたから出てきた発想だと思われる。日目上人の後の大石寺の跡目を巡って日道と日郷との争いが70年以上も続いたといわれる。日有は17歳くらいに、武州の天台教学を学んだようだ。 本覚思想というのは、凡夫本佛論で一般的にはご利益宗教がおおい。
● 、日朗上人去る正中の頃冨士山に入御あり日興上人と御一同あり、実に地涌千界の眷属上行菩薩なり、御弟子にてまします貴とむべし●●。
日目の後を継いだ日道の書からは、やはり宗祖のお弟子さんたち、全員久遠のお釈迦様の仏弟子で、一致している。 興尊が身延山を離山されるに至った経緯は、神社参拝について、五一の考え方があった、実長が、神社参拝について、厳しすぎる 興尊の教えについてゆけず、日向聖人を師とするとしたから、離山せざるを得なかった。
ちなみに、大聖人は、仏法を一番大事に重んじてたら、神社参拝はゆるされていた。
天台本覚思想は釈尊とされているのを、日蓮とすり替える、マヌケ教義です。
在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。一品二半と題目の五字は、純円なりなのだから、種脱相対ではなく、教観相対が、日興聖人の教えだよ。
例えば新池の書みたいに、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり、
といわれても、いくらお題目をを唱え信じても誰も仏陀に達したものは、いるわけがない。 大体、種脱相対なんてものは、興尊の教えにはない。 下種のお題目だが仏道は六道輪廻からの下脱が目的。 下脱益がない、お題目は大聖人の教えにはない。
十一、下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。
十二、下種の今此三界の主の本迹、 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生なり。
久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なのは笑える。そのような事は、宗祖はもちろん、門弟たちも誰も言わない。
又日文字の口伝、産湯の口決二箇は両大師の玄旨にあつ。本尊七箇の口伝は、七面の決に之を表す。教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり。
又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし秘すべし、伝ふべし。
法華本門宗血脈相承畢ぬ
鎌倉時代にはまだ、大聖人の生い立ちは詳しく伝わって居なかった。だから三師御伝には
「日蓮聖人は本地是れ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。とある。
●仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
この書も相当怪しい考え方。経王殿とは誰なのか? 検索してもわからない、真筆もない。このような偽書に近いような書から、このような書から大聖人の教えを語るのは、創価学会教学がインチキ宗教だからでしょう。
経王殿御返事 /文永十年八月 五十二歳御作
「充満其願如清涼池現世安穏後生善処」疑なからん、又申し候当国の大難ゆり候はばいそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし、
四条金吾さんなら、本人も奥方も曼荼羅本尊は授与されている。文永十年は、観心本尊抄と同年代に書かれたいう。
文永11年(1274)(53歳)2月14日執権北条時宗より、佐渡流罪の赦免状が鎌倉の門下に下され日郎聖人が土牢から出て、急いで書状を以て、佐渡に往かれた。
その前に鎌倉に登りお逢いしましょうという事は、不自然もいいところ。
私の知っている、学会員の方は、悪い人というイメージが全くないが、逆に新興宗教屋にながされると、抜け出すのが怖くなるのかもしれない。 それが、新興宗屋さんの、経営方法。
いずれにしても、公明党は、泥棒議員が多い、自民党と同じムジナ、しかも統一教会と仲良し。
。消費税は悪と言いながら、増税法案には賛成する。 武器を造って外国にうりさばく、法案も軽くとおす、とてもじゃないが、福祉だ。平和の党には、程遠い。 都知事選でも、三井不動産から外苑の伐採開発権利を渡す代わりに、パー券を購入してもらっている。小池を応援する。 泥棒議員の自民党と同じムジナが公明党。 石丸の応援団に統一教会関係者がいるようだ。 蓮舫議員は、小池よりましだが、財政が豊かな東京都、ドケチ政策では都民は疲弊する。 すべてではないが、まともそうな人は内海氏のようなかたでしょう。
命に合掌
