大作は霊山浄土へと聖教新聞では言われるが、私は久成の釈尊、多宝如来諸仏の所にゆけるはずはない。  大聖人の教え、はもちろん、日興の教えもごまかす、外道宗教屋集団。

 

さんざん、創価学会は大石寺9世によって、日蓮本佛論の偽書および、板切れ偽作本尊に、しかも、日寛は日興上人は本佛は久成の釈尊で、宗祖の奔地は釈尊の弟子の上行菩薩の応現だといわれているのに、本化上行菩薩は外用で偽書の本因の教主だとすり替えの外道宗教。

 

 文字曼荼羅の中央の南無妙法蓮華経というの意味は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、だから本尊を対鏡として、御仏の智慧の光に南無し自身の心は仏様の心に日々受持成仏。

 

大作の魂は日寛の教えによって、釈迦多宝を脇士にしている久遠元初自受仏日蓮が本佛だとする。 とうぜん、デーサクの魂は霊山ではなく,日寛推奨の板切れ本尊の世界に赴く、偽板切れ本尊の重みで苦しみ続ける。

 

浄土真宗の親鸞さんのところは、釈尊が説かれた、18願を根拠にして西方浄土の阿弥陀如来への信のまま赴く、正法違背とご逆の罪は除かれるですが?

 

浄土真宗では法名に釈という文字を使う、釈尊の弟子という意味でしょう。

宗祖も、最後まで、釈子 仏弟子として、本尊をかかれた。 宗祖日蓮聖人の本地は上行菩薩、これを外したら、霊山への道は、程遠い。

 

 


波木井殿御書
釈迦仏は霊山に居して八箇年法華経を説き給う。日蓮は身延山に居して九箇年の読誦なり。伝教大師は比叡山に居して三十余年の法華経の行者なり。しかりといえども、かの山は濁れる山なり。我がこの山は天竺の霊山にも勝ぐれ日域の比叡山にも勝れたり。しかれば、吹く風もゆるぐ木草も流るる水の音までも、この山には妙法の五字を唱えず云うことなし。日蓮が弟子檀那等はこの山を本として参るべし。これ則ち霊山の契りなり。

 

 

 

釈迦像に四菩薩像を加えた仏像本尊は、久成の釈尊、日興上人は仏像であっても、釈尊の脇士が四菩薩像なら法華本門の仏像として教示した。

文字だろうと絵だろうと仏像だろうと自身の心の中にお釈迦様に入れ替わっていただき、身体をお釈迦様に使って頂く喜びの事の一念三千。

やがて肉体は滅してもそのまま、お釈迦様の霊山浄土に赴く。

種脱相対なるものは、宗祖の教えではない。五重相対の五番目は教観相対。

 

南無妙法蓮華経 お題目を唱えるときは、自身の身、口、意 で唱える。

 


正見
 自己中心的な見方や、偏見をせず前記の如く中道の見方をすること。
正思
 自己本位に偏らず真理に照らし物事を考える事。例えば貧欲(自分だけの為に貪る心)・瞋恚(自分の意に添わないと怒る心)・愚痴(不平・不満などの邪心で小我を通すよこしまな心)という「意の三悪」を捨て去り物事を考えること。
正語
 恒に真理に合った言葉使いをする事。社会生活の上で慎まなければならない事で妄語(嘘)・両舌(都合や立場で使う二枚舌)・悪口(破壊的な悪口)・綺語(口から出任せのいいかげんな言葉)という「口の四悪」を行わないということ。
正行
 本能に任せるままの生活ではなく、仏の戒めにかなった正しい行いをすること。仏が戒めたのは殺生(意味なく、或は楽しみの為に生き物の生命を絶つ事)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(道ならぬ色情関係)という「身の三悪」です。

 


命に合掌