『本尊問答抄』の文
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、・・・此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり。・・・問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、」(365~66頁)
との文です。口語訳は「〔答〕法華経の題目を本尊として崇敬すべきである。・・・不空三蔵の法華経の観智儀軌は宝塔品第十一の経文に基づいているのであり、法華経の教主釈尊と多宝如来とを本尊としているが、このような考え方は法華経の本意からはずれている。ただし前述した題目の御本尊は、釈尊と多宝如来をはじめ十方世界の諸仏の御本尊であって、法華経の行者の尊崇すべき本当の御本尊なのである。・・・
〔問〕それならばなぜ釈尊を本尊としないで、法華経の題目を本尊とするのか。
〔答〕それは前に引用した経文やその解釈を見ればわかるように、日蓮一人の勝手な考えではなく、釈尊も天台大師も法華経を本尊とされたのである。そのため末代の世にある日蓮も釈尊や天台大師と同じように、法華経を本尊とするのである。それは法華経は釈尊を生んだ父母であり、また諸仏の眼目であって、釈尊も大日如来も、十方世界のあらゆる諸仏もすべて法華経から生まれたのである。このため生みの親の法華経を本尊とするのである。」です。

創価石徒系は、釈尊とお題目の妙法五字との関係についての日蓮聖人のお考えを亡失して、此の文を誤解釈し、「釈尊は本尊にならない」などと言う邪義を主張する。

日蓮聖人の教示は
1,妙法五字は法華経の肝心。久成釈尊の一切の所有の法・一切の神力・一切の自在の神力・一切の秘要の蔵・一切の甚深の事を結要したもの、すなわち神力品別付の結要の要法。
2,妙法五字は久成釈尊の功徳の結晶であり、妙法五字を通して釈尊の悟り・功徳を譲ってもらえる。
3,妙法五字は久成釈尊の証悟の世界、すなわち本仏釈尊の果上の事の一念三千である。
4,大曼荼羅御本尊は本仏釈尊の果上の事の一念三千の悟境界を表現したもの。
等々なのだから、久成釈尊に即して法華経・妙法五字であり、法華経・妙法五字に即して久成釈尊なのです。
ゆえに妙法蓮華経の五字を本尊とする事は久成釈尊を本尊にすると言う事なのです。本尊を法的に顕せば妙法五字であり、人的に表現すれば久成釈尊なのです。
文永九年の『四條金吾殿御返事』にも「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし」(1122頁)
とも、また建治元年の『法蓮抄』にも「今の法華経の文字は皆生身の仏なり、」(1050頁)との説示があるのです。
 

 

この『本尊問答抄』にも「然れば則ち木像画像の開眼供養は唯だ法華経にかぎるべし(口語訳→法華経はたましいである。したがって仏の木像や絵像の開眼供養はただ法華経にかぎるのである。)」(366頁)
と仏像画像の釈尊の開眼について言及されているのです。

 

●興尊が原殿ご返事の中で、日蓮聖人の本懐は久遠実成の釈迦如来と言われ、実長に一体の釈迦像では久成の釈尊にならないから、脇士として四菩薩像を安置しなさい、それには、お金がかかるから、子孫の中で、余裕ができるまでは宗祖が書かれた、文字曼荼羅を掲げておきなさいと、教示されたことを無視する、大聖人の法華経をないがしろにする、違背のカルト宗教屋の外道。

 


 
『本尊問答抄』には「法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり、故に今能生を以て本尊とするなり」とあって、「釈尊を始め十方の諸仏は法華経から生まれたのであるから、生まれた諸仏より、生んだところの法華経を本尊とすべきだ」と述べられていますが、ここに有る「釈迦・大日・十方の諸仏」とは先仏の説いた法華経に依て成道したと説明しているところの法華経前半や諸経に説かれている釈尊や諸仏の事です。寿量品で明かされている久成釈尊には師としての先仏は存在しません。ゆえに日蓮聖人も「此の過去常顕るる時諸仏皆釈尊の分身なり」(開目抄・124頁)(口語訳→この如来寿量品によって釈尊が無限の過去から教化をつづけてきた仏陀であるということが明らかになったとき、すべての仏陀は皆、久遠の釈尊の分身であることが認識される。それに対して、法華経以前の諸経と法華経の迹門のときは、諸仏は釈尊と対等の立場でそれぞれに修行をかさねた仏陀であるという認識であった)
と説示されています。

寿量品において明かされた釈尊の正体である久成釈尊には、先師である先仏が説いたところの教法としての法華経を修行して成仏した仏ではありません。
本有の妙法に則り修行して仏に成ったと言う面では、理法は久成釈尊を生み(能生)、久成釈尊は生まれた(所生)と言う関係ですが、理法を悟った久成釈尊(能覚の仏)が居なければ教法としての法華経も無いのです。理法としての本有の妙法は「妙法蓮華経」とも表現されますが、久成釈尊の覚り即ち教法の根本となる覚法、並に教法としての法華経も「妙法蓮華経」と表現されます。

『本尊問答抄』に本尊とすべき「法華経の題目」「法華経」とは、久成釈尊の覚法(久成釈尊の大悟界の内容たる本仏果上の一念三千)・教法としての法華経を指しているのです。先学が「久成釈尊の能覚の内容を能説の根本原理として、これを一言に説き顕したものが南無妙法蓮華経の五字であり、神力品結要の妙法五字であり、本仏久成釈尊の御覚り一念三千の結論、根本教法としての一言で本仏の心である。南無妙法蓮華経は名は法的表現だが体は本仏久成釈尊の覚り」と論じている通り、人的に表現すれば久成本仏釈尊、法的に表現すれば妙法五字なのです。

 

それにしても、お気の毒なのは多くの創価学会員さんです。 法華経に出会ったと思ったら、日有教義、戸田は、五老僧は本尊をないがしろにしたと、言われるが、火事で焼失たりしたが、真筆曼荼羅本尊の残っている多くは日蓮宗寺院や法華宗寺院です。大石寺には、真筆本尊はない、 寺宝がないから、偽本尊を造作したり、偽書が沢山作られたようだ。 牧口が帰依した信仰の山が、まちがいだった。 選挙で自分たちの思いを達成しようと思ったが公明党は庶民を虐める自民党を助ける下駄の雪。

 

自民党は権力者が良ければ、庶民の幸福はかんがえない。

 

命に合掌

 

 

 

 

 

 

 

命に合掌