仏教の教えは輪廻転生からの解脱が目的ですから、生前の行為の結果によって、生じる先が決まります。

 
道元禅師は「いまのよに、因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。世尊のしめしますがごときは、善悪の業つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふというとも不亡なり。もし因縁にあえば、かならず感得す。・・これを不亡というなり、その報なきにはあらず」(正法眼蔵・三時業)

 死によってすべてのものが無に帰するというのは因果の道理(法則)を無視した考え方はお釈迦様が一番嫌った思想です .

開目抄

私は法華の行者の端くれですから、法華経誹謗の徒に対して忠告をしておきます。

 

宗祖日蓮聖人が今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候も、わたくしの計(はからい)にはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計(おはからい)なり。

 

日蓮聖人以前の天台法華宗の教えは止観行という、自ら悟るという高度な教えでした。そのため、法然さんも親鸞さんも修行してもどうしても、悟りを得ることができませんでした。

 

釈尊の因いん行ぎょう果か徳とくの二法は妙法蓮華経の五字に具ぐ足そくす。我等此この五字を受持すれば自じ然ねんに彼の因果の功徳を譲ゆずり与へたまふ」妙法蓮華経への受持成仏。


開目抄
教観(きょうかん)相対→法華経本門の中でも本門の教相(特に第16章の如来寿量品の経説)と観心(如来寿量品の経意)一品二半を比較対照し観心を選び取ることです。理屈(理証)や文献(文証)だけの教相でなく、実践(現証)のともなった法門でなければならないということです。それが観心ということです。

 

すなわち、観心とは内証の寿量品のことで、妙法蓮華経の五字をさし、それを意でも読み、口でも読み、身でも読むということです。現代的にいうと抽象分別を越えたところの体験事ともいえるでしょう。またここに、宗教たらしめる実践活動が出てくるわけです。以上五重相対は5段階にわたって取捨選択していき、最終的に妙法蓮華経の五字を選び取るということで、その五字はお経のタイトルではなく法体(ほったい)そのものであり、本仏釈尊の御心であります。もちろん時間的にも空間的にも制約されることはありません

私達は病気になった時、病院に行きますが、お医者さんに
「先生!先生!」と言っても病気は治りません。先生が出してくれた薬を飲む事で、はじめて病気は治ります。


法華経の『如来寿量品第十六』には「良医治子の譬え」が説かれていますが、お釈迦さまが良医。すなわち先生であり、その先生が出す薬こそが「南無妙法蓮華経」のお題目であると説かれています。
そしてその薬を私達は取って服さなければなりません。

是好良薬 今留在此  汝可取服 勿憂不差
~是の好き良薬を今留めて此処におく。汝取って服すべし。差じと憂うることなかれ~
(意訳)このお題目という、大変良い薬を留めておくので、あなたはこれをとって飲みなさい。治らないと憂れうことはありませんよ。

 お釈迦さまが御本尊でも、お釈迦さまがお題目「南無妙法蓮華経」を唱えなさいと言われているのですから、私達は素直にお題目を唱えなければなりませんね。
 そして最後に、お釈迦さまを含め、全ての仏さまは、このお題目によって仏に成れたと説かれています。 すべての仏様ですから、弥陀様も妙法蓮華経を修行された。

 

お題目は成仏の根本であり、万病の良薬ですから、私達は一生懸命お唱えします。


法然さんは選択集のなかで、浄土三部経を除いて、それ以外の一代聖教、いわゆる法華経、大日経、大般若経等、いっさいの大乗、小乗の経文を書き上げて、それらを捨てよ、閉じよ、閣け、抛て等といっている。



(18) わたしが仏になるとき、 すべての人々が心から信じて、 わたしの国に生れたいと願い、 わずか十回でも念仏して、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開きません。 ただし、 *五ご逆ぎゃくの罪を犯したり、 仏の教えを謗るものだけは除かれます。

 

仏の教えを謗る念仏は考え直した方がいいでしょうね。

 

これについては、法念上人が念仏宗の亀鏡として挙げた浄土三部経の一つ・雙観経を見ると、阿弥陀仏が法蔵比丘として因位の修行をしていたときに立てた、四十八願の第十八、念仏往生願に「但し五逆罪を犯したものと、正法を誹謗したものは除く」といっている。法然上人も、乃至十念という阿弥陀の大願の中に自分の主張を立てているが、その実、法華経の門を閉じよなどと選択集に書いた正法誹謗の者であるから、阿弥陀仏の本願に漏れた人になってしまう。

 その弟子も、その檀那も師匠の法然上人と同様に往生できないのである。
 法華経譬喩品第三の文には「若し人が法華経を信じないで謗ずれば、(中略)その人は命が終わってのち、阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。阿弥陀仏の本願の文と、法華経譬喩品の文とが真実であるならば、法然上人は無間地獄に堕ちた人となるではないか。

 

大石寺や、創価学会“日蓮本仏論”という教学自体、後世の捏造であり、祖師日蓮聖人の教学とは何の関係もありません。

 

 

日寛の仙波説とは

<教相> 人:釈迦―脱仏 / 法:法華経
<観心> 人:天台―本仏 / 法:一念三千

とする。 これを日寛は

<日寛> 人:日蓮―本仏 / 法:題目

 日寛がいう日蓮本仏は「久遠元初自受用報身如来(仏)」とするが、こうした言葉は、実は日蓮はおろか、日興、日有の教説にも見られない。
 仙波口伝に

「自受用報身如来は顕本をもって正意となすなり」(『一帖抄』)
 「報身の自受用身をもって顕本の正意と相伝するなり」(『二帖抄』巻下)

とある。
また『御本尊七箇相承』で「この七箇の大事唯授一人の秘伝なり聊爾に口外すべからず」というが、「七箇の大事」は中古天台口伝法門でしばしば言われるところである。
 早坂師が作った対照表は以下のとおり。前者が中古天台(恵心流)で後者が日寛説。

・止観勝法華劣/文底勝文上
・寿量品の内証/寿量品の文底
・自受用報身(天台)/自受用報身(日蓮)
・七箇の大事/七箇の大事
・切紙相承/切紙相承
・本因行の能化/本因妙の教主
・嫡流一人秘すべし/唯授一人秘すべし
 ・五百塵点最初/五百塵点当初

 以上が早坂師が論じるところである。

 

当然、創価学会の偽書による教学は法華経誹謗の徒になる。

 

命に合掌