<#自民党って統一教会だったんだな>がツイッターでトレンド入りしたように、この事件をきっかけに浮かび上がったのが、自民党をはじめとする国会議員と旧統一教会の持ちつ持たれつの関係性についてなのだが、見ると、都合の悪い方がいるのでしょう。ツイッターのアカウントが消されてしまった。 こういうことを逃さない人は、データとして保存してあるから、逃げ切ることは難しいと思うが、テレビや新聞などで鋭く真相を求める大手メデイアは少ない。
ここにきて、権力者に忖度するようでは、日本は急速に欧米で言われているように、日本はここまでカルト教徒に汚染されているという批判を隠すことはむずかしいとおもわれる。 国会で質疑をしないで、岸田総理が閣内合意で、国葬をするという。今頃、電通などは、海外から来客もふえる。五輪以来の また、中抜きチューチューできるチャンスが出てきたと、仕事が増えて喜んでいるでしょう。なぜか、パソナの竹中平蔵が辞任するという。 選挙で自民党は票を増やしたのに デジタル田園都市構想を掲げたのに、あまりにもチンケな構想ではうまくゆかないと判断したのか? いずれにしても、安倍氏が亡くなったことで、悪臭が霞が関に漂っている。
いずれにしても、世の中不安が多くなると、詐欺や美味しい話が耳元で聞こえてくる。
しっかり、自分で詐欺やカルト教に騙されないように、仏教、法華経が中心になりますが私の知っている範囲で、お話しいたします。 カルト教団と言われるようなところでも信じている人は、自分が信じる教団をカルトだと思うことはありません。 多くの人は、正しいことを実践している良い行為をしていると思っているでしょう。 そういう教団に縁してしまった人を、わかっていただくには、温かい気持ちで接し、自分自身で正し納得してもらうことしかできません。
寺院に行くと山門から仏像、本堂まで仏像などが安置されていることが多い。 インドで仏陀が亡き後、あまりにも偉大な教えから、インドでは仏足とか、真理を表す法輪のマークなどで人体に即したような仏像はなかったでしょ。
仏陀の教えは、物事に執着する心から離れよというのが、大切な教えの一つであります。大切だと感じる物があれば、それに執着してしまい、苦しみをもたらす。だから執着の心から離れることが大切、というわけです。いくら愛しあっても、必ず別れがある。
仏像を祀るということに関しても、私は大切なのはその「本質」であると思います。仮に、特定の像自体に力があって、それを崇拝するとなれば偶像崇拝となる。
仏像本来の本質の意義はそうではありません。 仏像というのは信仰を喚起するための対鏡としての一つの「手だて」です。手だてをもって、仏教の教えをわかりやすく目に見える形として表現し、そして仏像を敬うことを通して三宝(仏・法・僧)を敬う心を養い、同時に自らの在り方を振り返るための一つの指針とする。それが仏像の本来の役割であり、存在意義であるべきでしょう。
『法華経』方便品の、童子が戯れに砂で塔をつくっても功徳(くどく)があると説く経文に基づくとされる。
山などに行くと、ケルンのように、石を積んだり,賽の河原のように、石を積んであるのも見かけることも多いと思いますが、
多くの説があるかもしれませんが、日本の山々は山岳信仰のようなものが、昔からあり、山伏のような方が修行されていた人がいた名残でしょう。 ミャンマーに行くと、財を残した人が塔を多くの人によって、あちこちに建てられます。 仕事のない民は仕事にありつける。 財を成した方は、仏塔を立てることで、多くの民からもうやまれ、功徳となって帰ってくる。 いわゆる小さくても仏舎利塔です。仏舎利塔の内にはお釈迦様。 お墓も仏舎利塔をまねて作られた。
戯れであっても、仏様を敬う心が尊い。 キリスト教も十字架を背負ったイエス像やマリア様の像もある。 イスラム教だって、王室の代々の絵や写真を飾っている。
ご先祖様を敬う心が働いている。
ですから、日蓮正宗や創価学会のように、創価学会が認める文字本尊でなくては駄目だというようなことは、偶像崇拝になります。 文字を読めない人なら、仏像や絵像の方が、理解できやすい。 文字で仏像の配置を表した日蓮聖人は、すごい方だっと思っています。
こんな感じで、少しずつお話いたします。
命に合掌
