最澄さんが天台法華宗を比叡山に大乗仏教の根幹とし、仏教を求める僧が鎌倉時代には多くの僧たちが勉学された、浄土真宗の親鸞さんもその一人ですが、悟りを得ようと、比叡山で、修行し頑張られたと思うが、当時は一種の瞑想のような、止観行が主体でしたから、煩悩の塊のような、私たちには、厳しい修行をしても、悟りを得ること、煩悩を滅する事はできなく苦しまれたと思われます。  日蓮聖人も私たちに悟るような法華経は末法では詮無しといわれ、おとぎ話のような、物語であっても、そのまま信じる事により、お釈迦様の智慧が自然に頂けるという誰もが実践できる教えを経典に従って、実践してくれました。

 

煩悩は人々が社会生活を行う時には、成長の為にも、なくてはならないもので、煩悩は悪で有ると言う解釈は仏教では本来ありません。

煩悩を覚りに変える智慧が仏法です。煩悩即菩提

 

どんなに坊さんが厳しい修行をしようと、生身の人間、お腹がすけば、食べたくなる。 異性を見れば、興味が出てくる。 自分に足りないものがあれば、欲しくなるのが人間です。 法華経では煩悩を智慧に変えて実践する、小欲知足という教えがあります。 限られた食べ物を力のあるものが弱い者を押しのけてしまえば、いくらあっても、足りない。 限られた食べ物を皆で分け合えば、足りる。  こういう教えが全世界の人々に浸透したら、戦争などには至らないで済む。


法華経の「薬草諭品」に、“三草二木の譬え(薬草の譬え)”が描かれています。この世界には、大小さまざまな草や木があって不平等のように見えるが、みな一様に雨を受け、違いはあるが、成長しているという面においては全て平等だという内容です。

 

形、性質、大小など表面上の違いはあるが、そこに優劣はなく、すべて尊い存在だという趣旨の譬え話ですが、苦しんだ「世界に一つだけの花」であって、みなオンリーワンの尊い存在であることを言い表しています。 勉強が出来なくても、運動会では元気で活躍する子、身体的に不自由な体の子と一緒に手を繋いで、一緒のゴールは、しなくてもよい。  大事な事は、身体的に不自由な体の子であっても、転んでも笑顔で最後まで走る姿が他の人に勇気と感動を与えて見せてくれる大切な存在だという事でしょう。 

 

物忘れがおおくなる、新しいものは覚える事が苦手、老害は当然有るでしょうが、若い方にどんどん任せて見守り育てる。  私は代表を務めたのは、55歳ぐらいでした、10年は遅かったと思う事が多かった、それを踏まえて子供が40前に代表を変えました。  企業は後継者が育たなければ,潰れます。継続は力だと言われますが、特に中小企業は後継者がいてこそ、存続が出来る。  

 

親子であっても、世代間の違い、考え方の違いがある。違って当然。 高齢者は自分たちが来た道、 若者は高齢者のやがて、往く道。

 

 れいわ 参議院東京地区に出馬するのは、新宿区の議員である、依田花連(よだかれん)さんという、ニューハーフの方です。  法華経を知らないときには、おかまのような人は蹴飛ばしてやりたいと思う事が多かったが、本人にすれば、誰もわかってくれない、性同一障害の苦、この国でしか生きられない、苦しみへの葛藤。

 

このような苦しみを実感したからこそ、小さな声を聴くことが出来る。 花蓮という名は。泥沼の世界に有っても、悪に染まらない蓮華の花。

 

泉健太が率いる立憲は京都府で維新に大負けをした。  立憲はかつての社民党のように没落をする。  誰も注目されていないという事が一番政党としては最悪。 立憲が残る方法は、今一度代表選を行い、山本太郎に立憲のCEOの様な立場で政策もすべて、任すような、事があれば、人々は見直す。

 

命に合掌